周りがスマホに目を落としている人間ばかりの場合ぞっとする、という話から村上春樹の話まで

電車の中でふと気付くと、乗客のほとんどがスマホに目を落としている時があり、その光景を目にするとぞっとする。
これを、乗客が手にしているものを文庫本や新書本、あるいはハードカバーの書籍に変えてみれば、たちまち、みんな勤勉だなー。と感心させられる光景に様変わりすると思う。
これが漫画の類だったらどうだろう。
そんなの読んでないで勉強すればいいのに。と思うか、あるいは僕もその漫画を覗きに行けるポジションに移動してしまうかもしれない。
では何故、スマホの場合、その光景がぞっとするような、気味が悪いような感じがするのだろうか。
以前の記事で、電車の中での乗客同士の会話はスルーできるのに、スマホやガラ系の携帯電話での通話は何故不快に感じてしまうのか?という内容を扱った。
これは、人間は無意識に人の会話を理解しようとする生き物らしく、電話での会話の場合、外からは一方的に話しているように見え、その話の内容を理解することができないことから不快感を抱く、というものだった。
この話しのソース(情報源)は、ラジオのリスナーさんで、さらにそのリスナーさんもうろ覚えらしい。だから極めてエビデンス性の低い話なのだけど、僕は結構、そうかもしれないな、と納得してしまった。

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この理論でいえば、スマホの場合、スマホをいじっているのは分かるが、その先、なんの目的でいじっているのかこちら側には分からない。見えるのは、機械的で(的というか、機械だが)、無機的なスマホ。そしてそのスマホからは表情(情報)が見えない。なにか得体の知れないものに目を伏せていて、そしてその当人も得体の知れないものに見えてくる。だからそのような得体の知れないものへの理解のできなさから、ぞっとさせるような光景に見えるのかもしれない。

このことは、「情報の不透明性」といえることもできる。
そして、その「情報の不透明性」問題は、人間関係にも当てはめることができる。
人間は他者と遭遇した時、その他者から何らかの情報を見つけ、読み取り、理解しようとする。

・笑顔を絶やさない人だったら、陽気な人なんだな。とか。
・ずっとイライラしている人だったら、怒りっぽくて器の小さい人なのかな。とか。
・伏し目がちに話す人は、人見知りなのかな。など。

上に挙げた各例の、表層から導き出される結論の真理はどうあれ、読み取った情報から自分なりの結論が導き出せるということが重要なのだと思う。
これが、仏頂面、あるいは無表情だった場合、いわゆる、「なにを考えているのか分からない」タイプの場合。そこから情報が読み取れず、「~な人」と結論付けることができない。
人間は、輪郭をハッキリさせたい。つまり曖昧なものが嫌なのだ。

脳科学者の茂木健一郎が、村上春樹に関連して、小林秀雄の言葉を引用してこのように言っている。
「人間というものは生きている内は頼りないもので、死んでしまうとハッキリしてくる。そうすると、生きている人間というのは、人間になりつつある一種の動物かな」(小林秀雄引用部分)
「小林秀雄や夏目漱石は死んでいる。だから⦅夏目漱石⦆っていうとハッキリしてる。だけど『村上春樹』っていうと、まだなにやらかすか分からない。まだしっかりした感じにはならない。だから『生きている村上春樹』は、⦅村上春樹⦆になりつつある一種の動物かな」

 と、実際の茂木健一郎の言葉とは若干異なるところもあるかもしれないが、概ね相違ないと思う。

つまり、生きている間の村上春樹に対して、「村上春樹はこういう人間だ」という結論は出せず、死んでから全うな評価が下せるということだろう。
ただ、人間は、生きている間だろうが、死んでからだろうが、その瞬間に結論付けたい生き物だと思う。その瞬間に消化したい。理解したい。だから作品を出す度に色々な意見が飛び交い、そして「村上春樹解読本」系の本が出てきたりするのだと思う。勿論これだけ売れてしまっている作家だということが大前提としてあるが。

少し話が逸れてしまったが、人間というのは、モヤモヤしたものが嫌で、ハッキリ結論付けたい生き物なのだ。
だから人間関係においても、情報を不透明にするより、少しでも情報を開示してあげると、円滑に関係を築くことができるのではないかと思う。
まあその情報が、嘘であれなんであれ、その場においては取り繕うことはできるのではないかと思う。
てへぺろです。

自分に自信が持てない以前の問題、そして話は人間原理へ

●僕という前提の成立①

別に奇を衒ってるわけではないのだが(いや、冒頭にこれを持ってくるあたり、全くそうとも言い切れないか)、実は、僕は小学校6年生くらいまで、自分が人間であることに自信が持てないでいた(どうかブラウザバックしないでほしい)。ふとした瞬間に、「あれ、オレってみんなと一緒の仕組みになってるのかな」とか、「今自分の身体に起きていることはみんなにも同じように起きているのかな」など不安になったりしていた。
けれど、僕は根っこの部分はポジティブというか、自分を正当化させることに長けているというか、つまり、落ち込んだとしても、「生」と「死」でいえば、何故か「死」は選ばずに「生」を疑いもなく選ぶタイプ(今のところ)らしく、落ち込んだとしても、「生」を選ぶ以上、あとはそこから這い上がるしか術は残されていないので、誰に頼るのでもなく、自分が1番の自分の味方になり、これでいいのだと納得させ(正当化\肯定化)、世界を楽観的に捉えるよう、つまり世界とうまく付き合っていく処世術を幼いころから身につけていたようだった。
だから当現象も、絶望するといった類いのこととは無縁であった。
それでもやはり、ミュータントタートルズの、「帰って来たハエ人間(VHS)」を観た時などは、発作が起こり、泣きながら母親に、もしかしたら自分ハエ男かもしれないっス、うわーん、と抱きついたものだった。
僕は小学校時代、ありとあらゆることに自信が持てなかったのだが、自分が人間であると信じ込めた経験(そのことに関しての懐疑心が再び沸き起こったことは今のところない)は、ある意味で、この世界に存在できる許可証を手渡されたようなものだったのかもしれない。

●僕という前提の成立②

何故、人間だと信じ込めた(思い込めた)かといえば、小学校6年生の理科の実験によるものだった。それは、キング・オブ・実験(ダサいな)の称号を与えてもいいくらいの、誰もが知っている実験、

石灰水に二酸化炭素を混ぜるとその液体が白く濁る

という非常にシンプルな実験であった。
先生が、この実験をやるよー、と、一週間くらい前から何故か嬉々として告知していたのだが、僕はその日から少々憂鬱であった。実験の授業というものは、ただ先生だけが黙々と行うことを善しとしない。生徒にまで強要してくる。僕にとっては、結婚式の招待ほどにありがた迷惑な話であり、もしこれで石灰水が白く濁らなかった場合、そんなのは人間界から村八分である。

Xデ―。来たる実験日。

理科の授業が始まる。ただ開始早々僕に吉報のような発言が舞い込んできた。
「全員やってもらう時間はないから、代表で2人だけ体験してもらいます」
僕は緊張した。そしてすこぶる不安になり、それが背中の丸みとなって現れた。
僕はこの時、この緊張が幼いながらに、経験則に基づく緊張であることを直感的に理解していたように思う。
僕はこういう場合、結構な確率で当たってしまう。
しかも状況は最悪で、僕の座っている席は先生の目の前に位置していた。

「じゃあ、まずは・・・〇〇さん」

1人目が指名された。女の子であった。

「次は、男の子がいいかな」

僕は背を丸めに丸め、出来る限り先生の視界から外れようと努めていて、そのまま素知らぬ振りで机の下に潜り込む勢いでいたところ、

「じゃあ・・・〇〇君」

僕は避難訓練を中止し、地震の揺れなのか、心臓の鼓動の揺れなのか判然としないまま、決死の覚悟で立ち上がった。

かくして僕に白羽の矢が立った。

●僕という前提の成立③~晴れて人間~

まず、女の子が石灰水に息を吹き込んだ。

「おー。」

石灰水が白く濁ったのを見て、わっと周囲が盛り上がった。女の子は嬉しそうであった。僕はそれを見てさらに不安になった。やばい。やばいぞ。オレはそっち側に行くことができるのか?
そして、僕の心を見透かしたようなまさかの発言を先生が言い、さらに僕の不安を煽った。

「さあ、〇〇君は果たして人間なのかどうか、証明してもらいましょう!」

この野郎。

僕は、目の前のストローのようなものに口を付け、そして息を吹き込んだ。

液体が白く濁った。

「良かったねー。〇〇君も人間だったんだねー」

 マジで良かった。

晴れて僕も人間としてカテゴライズされた。

そして、それ以来僕は、「自分は人間である」、という前提の上で全てをスタートさせている。僕はもう、人間なのだ。このカテゴリーから決して出ることはできない。

人間原理

人間原理という考え方がある。

宇宙が存在しているのは、人間が宇宙を認識しているからである。人間がそれを認識するからこそ、それは存在する。

ざっくり説明すれば以上のような理論である。
つまり、超自己(人間)中心的な考え方ということだ。
この理論について様々な論争がなされているらしいが、この理論の真偽はともかく、この世界はやはり人間的である思う。というか、そうならざるをえないのではないか。

人間である以上、人間から出ることはできない。人間というカテゴリーから出ることができない。そのカテゴリー内が人間世界であり、そしてまた、人間が認識できうる範囲でもある。そのカテゴリー内で起こったことは全て人間化され、人間的に処理される。

そのカテゴリーの外の世界は認識できない。その外の世界のものがカテゴリー内に現れたとしても、それは人間化されたものであり、本当の姿は認識できない。

という考え方自体がそもそもカテゴリー内であり、人間的なのである。
認識できうるものは全て人間世界の内側で起こっていることなのだ。
このことを考えると、とてももどかしい。どこまでも人間から出ることは、逃れることはできない。
そして、どうしてもセットで、僕(人間世界)の消滅を考えてしまう。

無だけが残る、

などという生易しいものではない。

無などない。それすら無い。

僕ら(人間世界)は、僕ら(人間世界)でなくてもよかったのだ。

僕ら(人間的世界)でないこともありえたのだ。

ではどんな世界が?

言語化不可能。

認識不可能。

僕は小学6年生の、あの理科の実験までは、このような考え方は浮かばなかっただろう。何故ならこのような考え方は極めて人間的であるからだ。
あの頃僕はなにを考えていたのだろうか。あらゆることに不安で、自分に自信がなく、世界に恐怖していた。ただ、そのイノセントな時期に、もしかしたら、今では認識不可能なことを、認識可能にできていたのかもしれない。

いや、どうだろう。それはわからない(なんやねん)。

今ではただ、認識可能な、人間的な世界の中で、このような考えを言葉を使って表現するしかない。

なんか最後カッコつけた感じになってしまった。

てへぺろ

以前にも、今回の内容に関連している記事を書いているので興味のある方は読んでいただけると幸いです。
 
了です。

有村架純を直視できない-全員が演技している世の中で-

1.気違いじみたドン引きな書き出し

僕は最近、あの有村架純こと、アリカスを直視できないでいる。映像に映る画面越しのアリカスは、僕が意識していることに気づいている様子はない。
ただ、自動販売機を住処とするアリカスは、僕が意識していることにあたかも気づいている様子である。
僕は駅で電車を待つ間、自動販売機で缶コーヒーを買う。そして、缶コーヒーが、ガコン、と音を立て吐き出されると、僕は排出口に手を入れ缶を取る。その時、問題が発生する。
缶を取る際、アリカスが目の前に出現する。僕は少し驚いた表情を作るも、実は缶が吐き出されたその時からこうなることを予測していた。
僕は白々しくも冷静を装い、そしてアリカスから目を逸らしながら、缶コーヒーを何かのミッションのように奪取する。
そして、アリカスの視線に気付かない振りをしながら、缶コーヒーを飲み始める。だが、ここで限界突破しなければいつ突破するんだ?って程に、瞳の可動域の限界まで、横目という横目を使って、アリカスを盗み見る。そして、コーヒーを飲み干すと、ゴミ箱まで歩いていき、できる限りのスマートで流麗な動作でもって、缶を投入する。そしてその場から立ち去る時、チラッと一瞥をくれる。

確かにアリカスは僕を見ている。

だが、

確かにアリカスは僕を見ていない。

お茶と一緒に並び、おにぎりを持つアリカスは、幸福そのもののようなほっこりした笑顔で、直視している。

だって広告だもの。
広告ガールだもの。

2.言い訳

こんな気色悪い、まさに気違いな内容を書くのも勇気がいるなと思ったのは最初だけで、書いていく内に筆が捗ってしまい、僕の内に気色の悪いストーカー性が内在していたのを完全に自覚してしまう寸前のところで、現実世界に復帰して今に至る。
でも、あの駅の自動販売機、そして商品受取口の真上にある広告ポスター、あれは業者が、イタイケナ男性をアタフタさせるためのイタズラをしているとしか思えない。
僕は、男性が買い求める種類の象徴的ともいえる飲料、そう、缶コーヒーの排出先が、決まって広告ガールこと、アリカスこと、有村架純と顔面が対峙してしまう丁度いい配置に落ちるよう故意的に仕掛けているのではないかとかなり真剣に疑っている。
でも今になって、実はどこに落ちてきても、僕が甚だ勝手に、そして一方的に(当然だが)、アリカスを意識しているに過ぎないのかもしれない、ただのバカだったのかもしれないと思い始めた。
というか、今回はアリカスだとか、自販機の陰謀だとかそういうものではなく、「演技」ということを発端として、色々考えてみたいと思う。

3.ジェスチャーの連続(演技)

上記の中の僕は、アリカスを意識してカッコつけた。これは、「カッコつける」という演技をしたということだ。
僕が好きなアメリカの作家、フィッツジェラルド著作グレート・ギャツビー」に、
「もし人格というものが、人目につく素振り(ジェスチャー)の途切れない連続であるとすれば  」(村上春樹訳)
という文章が出てくる。
ジェスチャーの連続。
僕は、この「ジェスチャーの連続」を、「演技」とも言い代えることもできると思う。そしてさらに「演技」は、自意識が働いているもとで実行可能となる。
・異性を意識した時。
・会社の上司・後輩・同僚を意識した時。
・家族を意識した時。
・他人を意識した時。
・自分を客観的に意識した時。
これらの時、自分は何者かを演じている。
ただ、なにかに忘我するほど熱中している時は自意識は登場できないし、したがって演技を自覚することはできない。ということは、忘我している時は演技をしていない、と「いえる」ことができる。
なんでもそうだが、今やっていることを意識しようと思ったら、その「やっていること」から一旦出なければならない。出て、離れたところからしかその全貌を見ることができない。
フィッツジェラルドの言葉をもとにすれば、人格や個性とは、なんだか絶対的で不変なように捉えがちだが、実は相手によって色々変えられる相対的なものと考えることもできるのではないだろうか。
だからそういう意味で個性は変えられるし、新たに作ることもできるのだと思う。
僕は・私はこういう人
という風に決め付けることは原理的にというか、本来の意味では誤った使用方法なのかもしれない。
しかし一方で、人間は思い込むことで前に進むことを可能にする。
つまり、ここで矛盾が生じる。

「『僕の個性はこれだ、という思い込みは捨て、なにも考えずに歩き出そう』
と、思い込みながら歩き出すことになる。
つまり何も考えないでいることそれ自体を個性と呼べてしまう」

などという言語ゲームに帰着してしまう。
このような言語ゲームは不毛だと思うが、僕は、個性の性質の観念と、人生を主体とした「思い込む」という観念を比較した時、後者の観念の方が、上位の観念のような気が直観的にする。
つまり「人生は思い込み」という観念が「個性という性質」を飲み込むといった感じか。まあ、とにかく僕は、思い込んで前に進め!派なので、そのように今は結論付ける(ハッキリしなくてすみません)。

4.何者

人間は常に何者かになりたがっている。個性の証明もそうだし、肩書きの取得だったり、もっと言えばアイデンティティの確立なんかもそうだ。自分を何者かに仕立て上げたいのだ。これは「演じる」ということと同義のように思う。
ということは、演技は自意識下で発動することから、自分は何者であるかという自問、そして証明なども自意識が原因であり、つまり、他者の存在がそうさせるのではないのだろうか。
仮にこの世界にたった1人だけだったとして、はたして自分は何者か?などと自問するだろうか。
今の状態から目を閉じると、突然自分の記憶が消失し、目を開けたら周りには記憶が消失する以前の知人がいて、自分に対して、記憶が消失していることを教えられたら、自分は何者なのか?と自問するように思う。
だが、最初から自分1人だけの環境で、自分が人間であると参照できるものすら皆無な場合、自分は誰だ?と自問するだろうか。
まあ極端な例になってしまったが、僕が言いたいことは、他者がいることが原因で、自己の存在を問うたりしてしまうのではないかということだ。結局自分を理解するには、他者を参考にするしかない。
先述したが、そのものを理解するには、そのものから一旦出て、外から見なければならない。
この場合自分から出るというのは不可能なように思えるが、他者を観察するというのは、同じ人間というカテゴライズの仕方をした時、自分(他者)を外から見ているのと同じになる。
自分先行ではなく、他者先行なのかもしれない。他者を見て、初めて自分が誰なのかを考え始めるのかもしれない。そして、成長していくにつれ、他者の影響を受け、何者かになりたいと渇望し、なにかの役を演じることになるのかもしれない。
この世界の全員が何者かを演じている。自分という頼りなく、心許ない存在を彩るために。

5.最後に

最後に、僕は別に有村架純こと、アリカスのファンというわけではないです。かわいいと思うけど。

了です。

感情は伝染るんです。

1.僕の習性

僕はなにやら自意識過剰なようで、人混みを歩く際は気をつけてないと眼光が鋭くなってしまう。なるべくニュートラルな表情を浮かべるよう努めてはいるものの、その内、もう外界のことなど知るもんか、オレはオレでやらせてもらう、といった中2病的思考が頭を占め、そうなると必然的に広範囲に渡っていた自意識を自分にのみ限定させるため、その決断に至るまでの経緯分の覚悟のせいで、一層眼光に磨きがかかってしまう。ただ恐らく、自分に自意識を限定したと言えども、「一層眼光に磨きがかかってしまう」、と自覚できていることから、全く自分のみの閉鎖空間とはいかず、やはりしばしば広範囲に自意識を飛ばしているのだと思う。
とまあ以上が僕という人間の習性の極一部である。

2.習性の健在

電車内でもその習性は健在である。
僕は席が空いていてもほとんど座らず、というのは、席を譲る局面がきた際の逡巡やら少しの勇気やら、時には何故かの罪悪感を抱きたくないからである(このことは以前ブロクに書いたので興味のある方は読んでいただきたい)。

nocafein.hatenablog.com

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だから僕の電車内でのベストプレイスは、自動ドアの前の角である。ドアに寄りかかることができるし、寄りかかったまま外を眺め、黄昏た雰囲気に酔いしれることだってできる。
しかし、自動ドアの前の角は2つあり、僕と同じような思考回路の人間が結構いる(と、考える)。
だから僕が嬉々としてそのベストプレイスに逃げ込むことができたとしても、大抵の場合、もう片方の角(対面)に誰かが立っている。
恐らく多くの方が悩んだことがあるのではないかと思う。
降りる駅までどうやって対面の他人をやりすごそうか。

スマホに逃げ込む。

・読書に逃げ込む。

・狸寝入りし、自分に逃げ込む。

・体の向きを変え、新たに生まれた視界に逃げ込む。

・対面の相手にメンチを切る。

さすがに最後のは選択しないが、僕は相手にではなく、外の風景にメンチを切り、実は外にメンチを切っていると見せかけて、間接的に相手にメンチを切っているというか、威嚇をするという選択をする場合がある。馬鹿だと自分でも承知済みである。
ただ、何故このような子供じみた行為に及ぶかと言えば、相手に見られていると感じるからだ(まさに自意識過剰のロールモデルのようである)。
僕は先制パンチはしていないつもりで、相手が先にやってきたと思い込んでいる(当然だがあくまで想像の範囲は出ることができない)。
だから僕は相手を威嚇する。
極めて幼稚だと思う。
これは数ある選択肢の中でも絶対に間違った選択だ。
自分勝手にもほどがある。はたして理性があるのかと疑いたくなる。
だから常々僕は反省している。
何か相手を威嚇しなくても良い方法はないだろうかと。
そこである日、気がついた。

3.気づいたこと

僕が外出する際、たまたまアパートの住人と出くわした時、相手があからさまに気まずそうに目を伏せているので、なんかそれは違うのではないかと思い、なにかを含ませた言い方で、「こんにちは」と挨拶すると、相手は少し驚いた様子であったが、「こんにちは」と返してくれた。
これでいいのだと思った。
気まずい空気が好きな人は恐らく少ない。そもそも「気まずい」という言葉がマイナスなニュアンスの概念で、「マイナス」は「嫌い」とほぼ同義だ。
人は他人と出くわした際、まず、警戒する。だが、警戒を長引かせることは身体によくない。だから、その場からせっせと逃れるか、警戒をプラスの安堵に変えるか。
マイナスよりプラスの方がいくらかよいだろう。
よって僕はアパートの住人は実は挨拶したがっているのではないかと結論付けた。
なにより僕が挨拶したがっている。
他人の気持ちは人間の性質上、分かりえない。それでも分かりたい場合、根拠とするのは自分だろう。自分が思うことは分かる。これは確かだ。
ということで僕はなるべくアパートの住人に挨拶するよう心がけている。
また、仕事場で一緒になった人と最初に挨拶を交わす際、機嫌悪くした場合と、明るくした場合とでは相手の態度が変わる。
これは当然のことのように思うが、この時一体何が起こっているかと言えば、相手は対峙した他人の様子を窺っているのであり、そこから自分の取るべき行動を思案しているのだ。
言ってしまえば、感情は伝染する。
合わせ鏡のように。
鬱病を患っている人をサポートしようと一緒にいる人が、その人も鬱病になってしまうという話しを聞くが、恐らくそういうことなのだろうと思う。

4.最後に

以上のことから、自分の態度が相手の態度を決めてしまうと判断した僕は、電車内のドアの前で対面に立たれた人には、その人にメンチを切るのではなく、また外に向けてメンチを切って間接的に相手を威嚇するのでもなく、
スマホをいじるか、読書をするか、目を閉じるか、向きを変えるか、そして、なるべく柔和な表情で、電車内を過ごすよう努めている。
そして、電車内だけではなく、日々の生活もなるべく威嚇しないで過ごしたいものである。

了です。

SNSで他人の投稿に関して半数程度がイライラしているという記事を読んで思ったこと

SNSに関するアンケートをロシアの情報セキュリティー会社が日本を含む世界18ヵ国で行った。その中でも、日本で回収した1000人分のアンケート結果の内、SNSで嫌になった理由で、「他人が自分より良い人生を送っていることを知った」が54%で最多だった。つまり、他人の楽しい投稿に半数以上の人が嫉妬して、イライラしているという実態が浮かび上がった。という旨の内容の記事(毎日新聞が発信)を見つけた。

 

他人が自分より良い人生を送っていることを知った他人
他人が自分より良い人生を送っていることを知った

他人が自分より良い人生を送っていることを知っ

 

1.マッチポンプ的前置き

この記事は、ただこういう結果になった、という事実しか提示しておらず、別に主観的分析は介入していない(ただ、内容のピックアップの仕方は主観を感じさせるが)。
だからこの記事に反論しようとすると、一体誰にどこを反論してよいのか分からなくなるし、そもそも「反論」などという概念を浮かび上がらせたこと自体、お門が違う行為をしていることになる。
だからこの記事に対して批判的に意見を述べようとしても、火のないところに自ら火事を起こし、そして自ら消化活動にあたるという、マッチポンプ的なパッケージングに陥りかねないので、(すでに着火し始めているかもしれないが、それは想定外のボヤということにしてほしい)この記事に言及しようとするなら、「へー」か、「まあそうなるよね」か、「意外だな」、などと、当たり障りのない無機的で食レポ的な感想にとどめておくことしかできない。
だが、それでは僕の今回の記事が成り立たない。
だから、この記事を元に色々おせっかいに考察してみようと思う。

2.隣の芝生が青く見える

まず、この結果を見て、そういう結果になるだろうなと思った(なんか後出しジャンケンのようで嫌だが)。
人はどうしても他人と比較してしまう。
そして、人(芝生)は他人のこと(隣の芝生)を青く見るようにできている。
SNSのシステム上、それが発動するのは自明だ。
だからこの結果も自明のように思う。
また、他人の投稿を見てイライラしてしまうのは、それを要求・欲してないのに、まるで当て付けのように、無理やり幸福を押し付けているように感じるからではないのか。
勘違い野郎の幸福の押し売り(のように時に感じるかもしれないということです)。
だがこのように感じるのは、この世界を歩こうにも、自分に自信がなく、自分以外の拠り所を探している下地(人間の性質)があってのことだとも思う。
以下に、以前、比較のことや、幸福のことについて書いた記事を貼ったので興味のある方は読んでいただけると幸いです。

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3.「じゃあやめればいい」という極論

前者「あいつの投稿見てるとイライラしてくるんだよな。なんでわざわざそんなの投稿したいんだ?誰もお前のこと興味ねーっての」
後者「そんなにイライラするなら、じゃあSNSなんかやめればいーじゃん」
という会話を経験したことがある。
後者の発言を受けた前者は、そのあと何も言えなくなる。ぐうの音も出ない。
ただ、この会話は成立しているようで、実はお互いの問題の共有ができていないために、成立していないのではないかと思う。
お互いの答えが一致していない。
つまり、そもそもお互いの問題が一致していないということだ。
前者は、SNSをやめたいなどとは一言も言ってないし、この話しの場合、言外の意味が隠されているとも思えない。
恐らく、前者はSNSをやめたいとは思っていない。やめたいと思っていたら、そのことについても言及するのではないかと思う。
つまり、前者の発言は、最初から同調を求めている発言であり、溜まったストレスフルを吐き出そうと、いわゆる排泄行為をしているのに過ぎないのではないか。
だから後者の返しは、前者には予想外のことであり、虚を衝かれたのであり、おまけに誠に正論のように聞こえるので、ぐうの音が出なくなる、というロジックなのではないだろうか。
少し、話しを脱線させると、この二人の発言は、そこだけピックアップすれば、成立している。
だがこの世界にはコンテクスト(文脈)というものがある。コンテクストなしでは会話とはいわない。そして、会話だけではなく、各人にもコンテクストがあるといえる。それはその人の「流れ」というか、「歴史」といえばよいのか。つまり、「今」のその人が最新なわけで、それは常に更新、上書きされていくわけだけど、その「今」のその人がそうなった流れ、経緯というのが、いわゆる「コンテクスト」とよべるのではないだろうか。
したがって、前者・後者2人の会話をコンテクスト的に大きく捉えれば、会話はやはり不成立していると、そう捉えることも可能であると思う。

閑話休題

イライラしているのにやめようとは思わないのは何故なのか?(勿論やめようと思う人はいくらでもいるだろう。ここではやめたくない人について考える)
人間は他人と自分を比較してしまうと言ったが、仮に世界にたった1人だけの場合、人間は自分に意味を与えることができなくなるという前提(下地)がある。
だから、周りの他人を見て自分の位置や、意味、レゾンデートル(存在理由)を自覚するのだと思う。これは人間の本質のようなものだ。
だから、たとえSNSではなくても、現実世界(ネット空間を仮想世界とした場合に対しての便宜的呼称)のレベルでも他人の動向が気になってしまうのに、システム的に人間の本質とマッチングしているSNSに一度(ひとたび)触れてしまったら、たとえイヤでも見ずにはいられなくなるのではないだろうか。

4.承認欲求

また、他人のSNSの投稿がイラつくのに、何故自分も同じように投稿してしまうのか。
それは自分の幸福を共感して欲しい、ということではないと思う。
もっと独善的な、「自分は幸福だと自覚したいがための確認作業」という名の投稿のようなも気もするし、そしてそれを他者に認めてもらいたいという承認欲求も働いていると思う。
共感ではなく、承認だ。
それと、その承認欲求合戦の場と化している下地がさらにその欲求を駆り立てる。
そこから集団心理みたいなものも生まれて、みんながそうやっているから自分もやらなければいけないという、主体的ではない、客体先行の心理が働いているのではないかと思う。

5.最後に

最後に、僕は客観的にものごとを捉えることが重要だと思っている。SNSにしても、なぜ自分がこのシステムに身を置いているのか、客観視し、自覚的になるといいと思う。なぜ、みなが投稿しなければならないのか。
僕は否定するつもりは全くないし、僕だって利用しているし、投稿している。
なによりSNSは便利で画期的だ。メリットもあればデメリットもある。この先このデメリットは、システム的に、目に見える改善はもはやできないだろう。
であれば、客観的にとらえ、端的に事実を把握し、そういうものだと自覚することで、他者には分からないが、目には見えない個人レベルでの改善は可能なように思う。
まあうまく付き合ってくしかないのだと思う。
結局、マッチポンプな記事になってしまったようで、申し訳ないです。

了です。

実存は本質に先立つ-それらを言葉を使って自覚することの重要性

私は他人にとってキモチワルい。
だからうまいこと、行ってない。
それは、とても分かりやすい公式だった。

 これは、家入一馬(2014年東京都知事選に立候補し、インターネットを利用し支持者を集めた若手企業家。この時は舛添要一氏が当選した)さんが発案し出版された、様々な方からの絶望的名言を集めた「絶望手帖」(青幻舎発行)からの引用。
因みにこの名言は、小野美由紀(ライター)さんの著書「傷口から人生。メンヘラが就活して失敗したら生きるのが面白くなった」(幻冬舎)からの抜粋。

僕にはこの文章が非常にぐっときた。とてもシンプルに的を射ていて、もしかしたらこの人類の真理を言い得ているのではないかと思った。

僕自身、思い当たる節がある。

地元のよく行くコンビニの店員に関する話しなのだが、こちらの店員さん、恐らく中国人のはずで(カタコトの中国人的日本語に、中国人風情の容姿などから)、とても一生懸命で殊勝に働いている。
ただ、まだ入ったばかりなのか少々覚束ない手つきや対応で、中々スムーズに仕事を処理できない。
しかし、丁寧さや、とてもハートフルな対応でそれらも許容の範囲とさせる。
その対応は、虚を衝くような、ある種のギャップ萌え的な対応を提供してくれる。
お弁当を温めてもらって、レジ袋にお弁当を入れて僕に手渡す際、
「とてもとても熱くなってるから気をつけてお持ちください。」そして、大丈夫かな、熱くないかな、と呟きながらお弁当の底を自分でさわり、「うん、熱いけど気をつけて」と言って、満面の、屈託ない笑みを添えて(とても自然に、なんにも世界に対して疑ってないような純朴さで)渡してくれる。
僕はその時笑いそうになったけど、そこには手放しでは笑えない、その店員を店員たらしめているある独特の要素が、店員の本質より先立って現れている(いやもしかしたら、その要素こそが彼の本質なのかもしれない。ここら辺でよそう。勝手なことを言い過ぎている)。
その要素を一言で表すなら、

なんかべとべとしている感じがする

といったところであろうか。
サバの味噌煮の汁を被っているような、または、牛乳を頭から被ってしまったような、そんなべとつき感。
彼のなにがそのような感じを与えるのかは分からない。丁度よい、こげ茶色の肌と、肉肉しいボディが、サーターアンダギーを想起させているのだろうか。
とにかく、感覚的に、反射的に体が退いてしまいそうになる。だが僕はそれを無き者にしようと理性を働かせ、彼のハートフルな言動で頭を満たし、面白い奴だったな。と、正直偽善で自分を欺いているところがある。
だが、これは第一印象の段階なのだ。
恐らく、彼と僕がこれから友達になり親しくなるにつれて、第二、第三印象と変化していけば、彼の第一印象の主な印象だった、なんだかべとべとしている感じ、は理性など働かせることなく感覚的に消滅し、第二、第三印象に上書きされていくのだろう。
そのようなある種、伸び代が残されていることは救いのような気がする。

だが、この世界には第一印象を最後に、その後生涯出会わなくなる人が山程いる。
だからやっぱり第一印象は重要だ。
第一印象が如実に重要になる場合として、例えばティッシュ配りなんかがある。たまに見かけるたびに思うのが、ティッシュ配りをしている浮浪者(というより浮浪者風情の人)はすぐさま仕事を変えた方がいいと思う。とても相性がよくない仕事だろう。

本来の意味、フランスの哲学者サルトルの「実存主義」のそれとは異なるだろうがこれは、
実存は本質に先立つ」、ということにはならないだろうか。
実存(その場の印象、つまり第一印象)、本質(第二、第三印象)。
言葉にすれば当たり前のようだが、日常生活において中々頭に浮かばないのではないだろうか。

また、僕自身、実存が先立って敬遠されたことがある。
それは風邪を引いていて、電車内で咳込んだ時。その時に冒頭の名言が身に染みた。
咳をした途端、隣にいた女性が苦虫を噛み潰した表情をし、少し離れ、そしてカバンからわざとらしくマスクを取り出し装着した。
その時僕はその人に殺意が芽生えたし、なんて人間というのは薄情なんだろうと、なにかを諦めた感情にもなった。
ただ、僕もそのマスク女性とほぼ同じようなことをしたことがあるので、その人を非難することはできない。人間というものはそういう生き物なのだ。
ニュースで取り上げる震災や犯罪事件などを見て、「あれはしょうがないよね。かわいそうだけど」、などと、達観したような口調で語っていても、いざ自分の身内が同じような目に遭った時は、その出来事の不条理性を前にし、事実を受け入れることが困難になるだろう。
結局、いくら対岸の火事を見て理性的に見解を述べていても、自分に火の粉が降ってきたら理性もクソもなく、反射的にそれを振り払うのに必死になるということだ。
実存は本質に先立つ。
これは去年の、オックスフォード辞書が選んだ2016年最も注目された言葉(日本でいう流行語大賞)の、「post-truth(ポスト真実)」にも敷衍させることができるのではないかと思う。
真実が重要視されず、出回った誤情報を鵜のみにして感情的に行動する。アメリカ大統領選や、イギリスのEU離脱の際にも見られた現象。
これは、「実存(最初の情報)は本質(真実)に先立つ」と言い換えることができるのではないだろうか。
感情で行動してしまう。それはある種のお祭り的なワイワイ騒ぎを連想させる。そしてそれはインターネット、SNSのシステムとマッチングして、一気に拡散、膨れ上がり、そして時には炎上もする。
文明の発達につれて、人間の醜悪な部分が露呈してくる。
それは嫌なことでもあるが、僕は、元々人間はそういう生き物だと自覚することはとても重要なことだとも思う。素地を知らないと発展はできない。また、自覚することも人間特有の理性が為せる技だし、そこからまた理性でカバーできる。
人間は愚かだ。これを自覚する。そこから愚かなりに試行錯誤する。
こういうことを言葉に起こし、自覚することで、冒頭の絶望名言のようにどこか救われる気がする。
ー思いは言葉に。
どこかで見たフレーズを引用し、締めくくりとする。
了です。

 

「分かり合えない」ということを、「分かり合う」ということ

ある動画内で、芸能界関係者の知り合いがいるという女性(漫画家らしいが)が、とある業界裏の暴露話をしていた。僕はその話を、へぇーそうなんだ。と、素直に受け入れていた。
その話を友人にしたところ、
「その話をそんな簡単に信じんのかよ」
と言われた。
僕はぐうの音も出なかった。
なんとなく僕が敗北した雰囲気が漂った気がした。
というのは、僕が想定していたリアクションとは違うものが返ってきたからだ。
僕は、「えー、マジで。そりゃびっくらこいたわ」的な言葉が返ってくると予想していた。
ここで、少し本筋から逸れるようで逸れていない話をしたい。
会話を進めていくと、しばしば相手との軋轢が生じることがある。つまり、口論・口喧嘩の類のことだ。
この原因は、ある問題に対しての「答え」の一致を求めているからこそ話しが摩擦していき、軋んだ音を鳴らす、つまり、「話しが合わない」と感じてしまうのだと、野矢茂樹編著「子どもの難問 哲学者の先生、教えてください!」の中の「どうすればほかの人とわかりあえるんだろう?(古荘真敬著 )」の章で、そのようなことが書かれていた。つまり、「答え」の共有よりも、「問題」の共有を求め・分かち合う方がいいのではないかということだ。こちらのこだわっている問題を、相手は大したこだわりだと捉えず、相手は相手で、自身がこだわる問題に勝手に上書きして、そして、相手は「自身の問題」に対して答えを述べているのだと。だからたまにお門違いの返答が返ってきて、話がこじれるのだと、そのように著者は綴っている(僕なりの解釈で書いているが、概ね合っていると思います)。
だから、「答え」の一致よりも、まず、お互いの「問題」を共有し、そうすることで、たとえ答えが合わなかったとしても、他人と自分はこだわりが違い、そのような点において、「分かり合えないことが、分かり合える」という方向に持っていくことで、わりと上手く進めそうだし、世界も広がるのではないかとそのように僕は解釈したし、実際、世界が少し広がった気がした。とまあ、本筋から逸れているようで逸れていない内容は一応書けた気がするので、話しを本筋に戻します。

僕が友人に言われて、ぐうの音も出なくなったのには理由がある。それは、僕の話しの大前提を攻撃された、ということである。いわゆる「帰納」に対する概念、「演繹」の論法である、根幹にある「大前提」。
演繹は、前提が真であるならば、結論も必然的に真となる論法。
今回の場合、僕はその内容の大前提、それが真実だという前提の上、話しを進めていた。しかし、友人はその前提を攻撃するというメタ攻撃、つまり反則技を用いて反論したのだ。
これでは僕に勝ち目などない。
しかし、この手の話しには常時付きまとってくるであろう、話しのエビデンス問題。情報リテラシー。僕はこのことをすっかり忘れていた。
つまり、「業界裏話」と銘打って話す場合、まず、その言葉が醸し出す「胡散臭さ」が内容より先に立つ。
そして相手は、業界関係者に近しい人物から話をきいている僕とは違い、その「業界関係者に近しい人物から話を聞いた、なにも業界とは関係のない僕」から話を聞いているのであり、言ってみれば、僕より洗脳にかかっている力が弱いということになりそうである。だから僕より客観的にものを見れる。
そして、その話の主観の中にいる僕は、いわゆる夢の中にいるのであり、「業界裏話」という言葉は無臭である。
しかし、その話の外にいる、夢から覚めている、客観的立場にいる友人に、その夢の中でしか通用しない「業界裏話」という言葉を投げたところで、それは友人にとって独立の概念として浮かび立ち、ほやほやの「胡散臭さ」が立ち込めるものとなっており、その刺激臭に敏感に反応してしまう友人がいても全くおかしくない。むしろ健全なくらいかもしれない。
だから本当は、内容を話す前に、「この話しは大前提真実というところから話しを始めるけどいいね」などと、前置きしてから話し始めるべきだったのだ。
いや、おかしいだろう。
やっぱりこの話の内容は、真実かそうじゃないかに帰結しそうな気がしてきた。恐らく、この文章を書いている今現在の僕は、客観的になれているんだろう(そして、友人に敗北した経験も重なって一層客観的になれている)。
恐らく僕は、動画内の女性ではなく、友人が納得するほどの、よりエビデンス性の高い出処を提示すべきだったのだ。そうすれば友人も納得したのではないか。
というより本当はこの話しに勝敗など無く、そもそも違う土俵で相撲を取っていたのであり、つまりお互いの「問題」のこだわりを分かり合えていなかったのだ。
そのように思うと、少し、世界が広がった気がしないでもない。

了です。