自分であったら、「エンドレスエイト」から脱出しようと思うか、を考える

 

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前回に引き続き、涼宮ハルヒの「エンドレスエイト」関係の話を書きたいと思う。

因みに前回は、ループ世界からの脱出の仕方を踏まえた上で、要は日々の積み重ねって重要だよね。って話だった。

今回は、「エンドレスエイト」を材料にして、別の視点から、とある問いかけをしてみようと思う。

それは、「もし自分がこのループ世界に入り込んでいたら、そこから脱出したいと思うだろうか」、という問いだ。

このお話しの中では、主人公達がたまたまループしていることに気付き、そして「長門」が初回からの夏休みの記憶を全て記憶しているということ、また、「朝比奈みくる」という未来人がこのままだと未来に帰れなくなることを知っているからこそ(この2つの要因は大きい)、なんとかループ世界から脱出したいと思ったのではないだろうか。

では、幾つか条件を変えて考えてみる。

・「長門」や「みくる」の存在は考慮しない。

・記憶はリセットしない。

・その夏休みはとても充実した夏休みになっている。

以上の3点を踏まえた上で、もう1度自分に問うてみる。

「このループ世界から脱出したいと思うだろうか」

・・・僕は脱出を試みるだろう。

なぜか。

どんなにその夏休みが充実したものだったとしても、それを何度も経験していく内、徐々に味がしなくなって飽きてしまう、というのが人間だと思うからだ。

それは記憶がリセットされても同じことだ。

あくまで、ループから脱出するかどうか決断するのは、「ループに気付いた時点から、8月31日までの限定された僕」なのであって、その限定期間中は、記憶がリセットされようがされまいが関係ない。

「充実した経験」と感じるのは、それが1度きりだからこそ、そう思うのではないだろうか。

だから、それを何度も繰り返せると思った途端、その充実の色はにわかに色褪せ始める。

人生1度きりだからこそ、生きようと思う。

僕はそう思う。

 

では今度は、少し意地悪な問いかけをしてみる。

「自分が死ぬ間際だったとしたら、ループから脱出したいだろうか」

この問いかけに答えるには少し躊躇してしまう。

仮に、記憶はリセットされないまま、連続性を保ったままループされるのだとしたら、

うーん・・・やはり、脱出する方を選ぶと思う。

でも1回はループしてみるかもしれない。その後、やっぱり同じ内容を繰り返す人生は嫌だと感じ、それから脱出する方に傾くかもしれない。

何度も同じ内容なのは、やはり飽きるし、気が狂いそうになると思う。

それだったら、「ループから脱出する」という新しい目的、つまりまだ見ぬ未来への希望を、その先、死ぬことが直近で約束されていようと、僕は選ぶ。

そしてそれは記憶がリセットされる場合でも、先述したように、決断するのは「限定的な僕」なのだから、そのような理由で、ループからの脱出を望むだろう。

 

最後に、そもそもの疑問なのだが、記憶がリセットされて、再び夏休みを繰り返すことになったとして、では、記憶がリセットされる前の僕と、された後の僕は、はたして同一人物といえるのだろうか。

この記事では詳しく述べることはしないが、僕の考えでは、同一性には、「記憶」の連続性がとても重要になっていると思う。

また、誰が、その記憶をリセットされた人間を同一人物と判断するかにも大きく左右されると思う。

今回のこの記事でいえば、記憶をリセットされるのは僕で、しかもそれが同一人物かどうか判断するのも僕だ。

そのような条件のもと、僕は記憶がリセットされてしまったら、もはやその人物は僕ではないと言いたい。

やはり記憶が連続していないということは致命的で、仮に、記憶が連続している誰かに、

「あなたは記憶がリセットされていて、既に夏休みを何万回もループしています。ホントです」

と、頼りない根拠性を末尾に付属させた発言をされたとしても、僕の記憶上にそのループしているという事実がない以上、僕はそれを信用しないし、同一を認めることは不可能なような気がする。

このことから、いかに、自分たらしめるもの、または他人たらしめるものを、記憶という頼りないものに頼っているかが分かる。

まあこの同一人物かどうかの問題は、またいつかの記事で、深く考えてみたいと思うので、今回はこの位でやめさせていただきます。

失礼します。

 

「変わらない」状況から、「変わる」にはどうすればいいか。涼宮ハルヒの「エンドレスエイト」から考える(※ネタバレ嫌な方は読まない方がいいかもしれません)

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退屈な日常から脱出したい。なにか変わるキッカケが欲しい。など、状況変化を望んだことがある人は多いのではないかと思う。

僕だってある。なんかミラクル的なこと起きねーかな。と。

しかし、そのようにただ思っているだけでは駄目なのだと思う。

以前僕は哲学的感心から(なんか言い訳がましいな)、「涼宮ハルヒの憂鬱」というアニメを観ていた。

その中に、賛否両論ある、「エンドレスエイト」という放送回がある。

その話をざっと説明すると、高校生である主人公達は、夏休みを普通に送っている。しかし、実はその夏休み(正確には8月17日~8月31日の15日間)は、既に何千、何万回と繰り返されていて、夏休み最終日の8月31日が終わろうとすると、また8月17日に戻ってしまい、全く同じ内容の夏休みを再び始めるという、無限ループに陥っている。

主人公達は毎回、夏休み終盤になって自分たちがループしていることに気付く。
そしてどうやったらループから脱出できるのか思案するのだが、それも虚しく、結局、8月17日に戻ってしまう。

8月31日から8月17日に戻る際に、その夏休み期間中の記憶はリセットされてしまうのだが、メンバーのある1人の女の子「長門」だけは、1回目からの全ての夏休みを記憶している。

そしてこれがすごいのだが、アニメ制作側は、この一連のほぼ同じ内容を、まさしくエンドレスエイト、8週間連続で放送したというのだから、それは賛否両論あって当然だろう。

 ではどうやってループから脱出したのかと言えば、主人公が、ループの生みの親である「涼宮ハルヒ」の心を揺さぶるある提案をする。

そしてそれがきっかけとなり、ループ世界からやっと脱出できて、話は幕を閉じる。

 なぜループ脱出のきっかけを作った提案が浮かんだのかと言えば、過去何万回もの夏休みを繰り返し、その度にどうやったらループから脱出できるのか考えた過去の主人公達の小さな積み重ねが、最終的に、大きな力となって、ループ世界からの脱出を可能にした、というわけである。

 

この、「エンドレスエイト」という話は、言わば、ずっと「変わらなかった」状況から、ある地点で「大きく変わる」、という話である。

そして、「ある地点で大きく変わるためには、その地点に辿り着くまでの積み重ねが重要という話」、という見方もできるとも思う。

この捉え方は、例えば、お年寄りに席を譲るだとか、困っている人を助けるだとか、いわゆる「善い行い」の場合と似ている。

最初「善い行い」を実行するには、勇気が必要となると思う。

ただ、それを何度も繰り返していく内、勇気は必要となくなり、善い行いを自然にできるようになる。

仮に、善い行いの見返りがなくても、それを続けていくことによって、いつか動き出さなくてはならない時に、ちゃんと動ける人間になっている、それが最大の見返りだと僕は思っている。

つまり、小さなことだろうが、日々の積み重ねが大事、ということだ。

どうせ変わらないから、と思ってなにもしないのではなく、目の前にあるできること、それがどんなに小さなことであっても日々続けてみる。

そしていつの日か、その続けてきた過去の自分が自分の味方になってくれて、それが自信となり、大事な場面で大きく変化する。

やるべきことを日々続ける。

でも結構難しいけどね。

「怠慢」とか結構曲者だしね。

まあ頑張ってみるか。

という、ぐだぐだな感じで今回の記事は終わりなのだが、本当はもう1つ、「エンドレスエイト」のことで思うことがある。それは、

「もし自分が、ループ世界に入り込んだら、そこから脱出したいだろうか」というものである。

次回、そのことについて考えてみようと思う。

それでは。

 

 

 

必死さは、ウサギをも生み出す-イノセンスな話-

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「今朝、いつものようにトイレで大便をしたら、大便の代わりに、ウサギが出た」

上の文章を読んでピンときた方もいるかもしれないが、これは、漫画家・古谷実の短編作品「僕の健康」の冒頭の場面である(ディテールは多少異なるが)。

僕がこれを読んだのは高校生くらいだったと思うが、最初読んだ時、とんでもねえセンスしてやがるな、と思った。この人のユーモアのセンスが世界で一番面白いのではないかとまで思ったくらいだ。

ただ、ある側面ではいささか純粋過ぎた当時の僕は、それを読んでから数日間、大便をしたあと、通常ならしない、トイレットペーパーで役目を終えたばかりの桃の割れ目を拭く前に、念のために便器の中を確認するという不毛な作業を1つ増やしていた。

もしかしたら、僕に限っては10回に1回くらいはウサギが出るんじゃないか。
もしかしたら、僕に限っては20回に1回くらいは亀が同時に3匹くらいは楽々出るんではないか。
もしかしたら、僕に限っては50回に1回くらいは少し恥ずかしそうにしている中年サラリーマンの小人オジサンが出て、「なに見てんだよ。新米が。さっさと営業にいってこい」と一瞬にして部下と上司という関係性を作り、「は、はい。すみません。営業いってきます」などと、即興コントをやるハメになるのではないか。

僕に限っては。

別に、自分が他の人間と比べて特別優秀などとは思っていない。
そうではなく、僕は少し自分に自信が持てないでいるところがあり、小学生の頃なんて、もしかしたら自分は人間ではなく、別の生き物なのではないかと本気で不安になっていたほどだった。

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 さすがに高校生になってまで自分は人間じゃないなどとは思わなくなったが、でももしかしたら、僕に限っては、大便以外のなにかが出てしまうこともあるのではないか、と、一瞬疑ってしまうそんな無垢な精神を、高校生の時分にはまだ持ち合わせていたように思う。

だってなにが起こるか分からないから、この世界。

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だがしかし、今の僕は、もう、もしかしたら大便の代わりにウサギがいるかもしれないから一応確認しておくか、一応ね。などと不毛な作業はしない。それを不毛と言えてしまう。

僕はいくらか大人になってしまったようだ。
いつの間にか、気づかない間に、今まで自明でなかったことを、どんどん自明にしてしまっている。
その中には、きっと、自明になる前の「なにか」もあっただろうに、それはもう思い出せない。
それが大人になる、ということなのだろうか。

 

少しだけ話を変えるが、この前、コンビニに行ったら、その店内のある一角で、小学校低学年くらいの女の子が、一生懸命にピコ太郎の「PPAP」を踊っていた。

「アイ、ハブ、ア、ペン!アイ、ハブ、ア、アッポウ!ウン!アッポーーペン!!」

必死だった。
彼女は周りの目など気にせず、自分の納得いく「PPAP」を、誰かに届けるために必死で披露していた。

彼女が届けたい誰かは、レジで買い物を済ませている最中の母親だった。

「アイ、ハブ、ア、ペン!お母さーん!アイ、ハブ、ア、お母さーん!」

お母さんを持ってどうするのか気になってしまうところだが、彼女はレジにいる母親に届けたくてとにかく必死だった。

だが、彼女なりのルールでもあるのか、母親がいるレジから、彼女のいる場所は、店の端と、その反対側の端ほどに離れており、彼女は決してその場から動こうとはしなかった。その両者の間には、流れの速い大きな川でも横たわっているのかと思わせるほど、彼女は必死で叫んでいた。

彼女が、「アイ、ハブ、ア、ペン!お母さーん!」と叫ぶ度に、母親は、「ハーイ!こっちきて!帰るよ!」と返していたのだが、彼女は聞く耳持たず、「PPAP」を披露し続ける。

勿論僕はその現場を見て笑いを堪えていたし、とても微笑ましいとも思い、顔が少しにやけてもいた(当然だよね)。

その後、母親が買い物を済ませ終え、帰る段になると、「〇〇ー!帰るからこっちきなさい!」と呼んだら、彼女も自分の演技に満足いったのか、「お母さーん」と言って母親の元へ駆けていった。

そして帰る際に、「『PPAP』見ててくれた?」と聞いていて、母親も、「見てたわよ」と言い、顔を少しほころばせていた。

 

なぜ僕がこの話を突然挿入したのかと言えば、それは、子供だから許されるが、大人だと許されない行為があることを説明したかったのだ。

あの「PPAP」劇場は、小学生の女の子の彼女がやっていたから、微笑ましく見ていられたのだと思う。

これがOL女性や、女子高校生がやっていたとしたら、状況は一変していたのだろうと思う。

しかし、僕は思う。なぜあの小学生の女の子は許容できた、いやむしろ微笑ましく幸せな時間を提供してくれたように感じたのか。

それは、彼女が必死でやっていたということではないだろうか。その「必死」という言葉の中には「純真無垢」という言葉も含まれている。
その必死さに、僕らがかつてそうであっただろう、忘れてしまった自分の「なにか」を彼女に見ていたのではないだろうか。

その「なにか」を忘れてしまったOLや女子高校生がいざ「PPAP」をやると、人の目を気にし、羞恥心にかられ、元々は自明でなかった自明に「常識」という名を冠して身動きが取れなくなり、もうあの小学生の女の子のように必死では踊れなくなる。

だから、もしそのように必死で踊ることができるOLや女子高校生であったなら、僕らはそれを微笑ましく見れるのかもしれない。

だがそれは見る方も見る方で、「OL・女子高生がやっては非常識」という観念が強いと、その「必死さの観念」を覆いつくして、結局通常通りの常識人的振る舞いをしてしまうので、それはそれで難しい。

イノセンスは、「必死さ」に現れるのかもしれない。

そのような意味で、今の僕は、高校生の頃、大便の代わりにウサギを出していないか確認していたあの頃と比べて、ある側面では、「必死さ」を、そこに置いてきてしまったのかもしれない。

本当はいたのかもしれない、ウサギごと、イノセンスを流してしまったのかもしれない。

ウサギを流すだなんて、なんか少し悲しい話になってしまいました。

そんなことないか。

てへぺろです。

自分の意見はどこにあるのか-ブログやYouTubeなどのコメントの仕方から考える-

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色々なブログ記事やYouTubeのコンテンツを閲覧し、そのコンテンツに対する自分の意見をコメントする際、そのコメントは、はたして本当に自分から出たものなのか、または、自分でちゃんと考え抜いた意見なのだろうか、とふと思ってしまうことがある。

そのような思いに至る理由に、他の閲覧者のコメントがすぐ見れてしまう環境にあって、自分が考える前に他の閲覧者のコメントをインプットしてしまう、ということが挙げられるのではないかと思う。

僕がよくあるパターンとして、あるコンテンツを見終わり、コメント欄に目を移す。
そして既にコメントされた他人の意見を読み、その意見を一旦鵜呑みにする。

「そうか。まさにそういうことだよな。自分もそう思うぞ」

そして、さらに違う人のコメントも見る。しかし、先程のコメントとはまるで違う意見が書かれており、今度はその人の意見が正しく思えてきてしまう。

この時、自分の意見は一体どこにあるのだ、と思えてくる。

何故だろう。

それはコンテンツとの向き合い方が問題なように思う。
上記のようなコンテンツの向き合い方だと、自分の意見など最初からありはしないように思う。
上記のは、他人の意見に単に同調することしかしていない。
他人の意見をただなぞっているだけ。
最初から他人の意見を参考にしようと思っていて、自分の意見など持とうとはしていない。自ら考えようとしていない。
そのようなスタンスでいるということに無自覚でコンテンツに接してしまうと、他人のコメントごとに立ち位置を変えてしまう自分に対して、「自分の意見はどこにあるのだ」などとほざいてしまうのだ(自分に言ってます)。

だから、コメントを見る前に、そのコンテンツと自分の関係をよく考える。
そのコンテンツに対して自分がどこに引っ掛かったのか、疑問に思ったのか、または感動したのか。
そして該当した部分をよく考え抜く。例え結論が出なかったとしても、自分が納得するまで考え抜く。
そしてコメント欄を見る。
もし、ある他人のコメントが、自分と違う意見を書いていた場合。
まず自分とその人の、問題にしている部分が一緒かどうか確認する。
コメントはその人の考えた結果が書いてあるので、その結果からその人の問題意識、つまりその人のこだわりを推測する。
そして、そのこだわりが、自分のこだわりと違う場合、あー、そもそもこの人とは問題にしている出発点が違っているのか。ということが分かり、そりゃあ、自分と意見が違ってて当たり前だよな。というように、自分と他人の意見を分けて捉えることができる
そして、自分にはなかった新たな視点が加わり、そのことについてもよく考え抜き、そこで初めて同調する/しない、という判断ができる。

そして、自分とこだわりが一緒で、意見が違っている場合でも、
「たしかにそういう考え方もできるな。よし、参考にしよう」というように、ちゃんと考えてから初めてそのコメントに同調ができる。
仮に同調できなくても、「この意見は違うな。今のところ僕は自分の意見がベスト」というように、しかっり考えていれば、安易に同調することはない。

つまり、冒頭の、「そのコメントは、はたして本当に自分から出たものなのか、または、自分でちゃんと考え抜いた意見なのだろうか」と思ってしまうのは、そもそも自分の意見などハナから持たないままコメントしようとしている証拠にほかならないのである。

ちゃんと自分で考え抜いていれば、意見がコロコロ変わったり、「自分の意見はどこにあるのか」などという表現はしないはずで、何故自分が他人のコメントに同調するか、またはしないのか、そういう自分の思考の動きというのがハッキリ理解できているはずなのだ。

つまりコメントする前に、自分のこだわりをよく確認すること、そしてそれを考え抜くこと、これが重要だと思う。

なんだか自分に対しての戒めの記事になってしまった。
よくわからない記事ですみません。
ここまで読んでいただいた方に感謝します。

てへぺろです。

自分との距離感によって、呼び方は変わる。

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ここ数日間でぐっと春めいてきた感がある。
気温が暖かくなり、軽装で街行く人が増え始めた。
心なしか、皆ウキウキしているようにも見え、そこには、吉兆の萌芽を感じとれる。(余談だが、萌芽という言葉は、ポジティブなニュアンスを多く含んでいるように僕には思われる。恐らくそれは、芽吹くこと、つまり、なにかが誕生すること、またはなにかが転じること、に対して、「希望」を抱いてしまうことが原因であるように思う。ということは、僕達は自分自身の範疇を超えた、神的ななにかを無意識のレベルで盲信している、ということなのだろうか。まあ、今はそんなことどうでもいいか。てへぺろです。単にてへぺろを使いたいがためのカッコのような気がしてきた。てへぺろです)
そのような萌芽を感じとって、僕だってウキウキする。
油断すると、小沢健二の「痛快ウキウキ通り」を口ずさんでしまいそうになるくらいに、ウキウキしている。
というのは嘘です。

だがやはりウキウキしている人はいるようで、今朝、駅の階段を上っていると、ダダダッと後ろから軽快に駆け上がってくる何者かの勢いを察知して、僕が後ろを振り返るか振り返らないかの刹那、ビュッと僕を追い抜かしていく人がいた。
その人が僕を追い抜かす際にチラッと一瞥をくれた顔が、なんだかドヤ顔していたように思え、うわー、ウキウキがほとばしってやがるな、と思った。
ただ、僕は全然その行為に対しては苛立たなくて、何故かといえば、その人は紛れもなくご年配のお爺さんだったからである。
だから、「元気なお爺さんだな」と素直に感心した。
そして階段を上がり終え、乗換のホームに向かう行きしな、前にそのお爺さんが歩いていたのだけど、僕はその時自分の過ちに気づいた。

お爺さんじゃなくて、お婆さんだ。

先程は一瞬の横顔しか見れなかったため、お爺さんだと思い込んでしまった。
だが後ろ姿をよくよく見てみると体つきがお婆さんのまさにそれである。
まあこれは俗にいうお爺さんお婆さんあるあるというものだろう(俗にいうね)。
でも可哀想なことをした気持ちになってしまった。
女性なのに男性と間違われて傷つかない女性はいないだろう。
まだ僕の心の中だけに止めておけた思いだから良かったものの、これが実際に本人に伝わっていたらと思うと、胸が痛む。
僕は心の中でお婆さんに謝罪しようと、前を行く背中を見ていたところ、急にそのお婆さんが一瞬後ろを振り返った。その顔は、

やっぱ爺さんじゃねーか

この数秒の間に2回も展開してしまった。
その人はやはり紛うことなきお爺さんであった。
後ろ姿はお婆さんの体つきをしており、そしてこれが曲者だったのだが、頭にタオルを巻いていて、その巻き方がどうも、女性がよくやるお団子結び的に見えてしまい、余計な観念が頭を掠めてしまったのが、僕が間違えてしまった要因であるように思う。
かくして、これはこういうことなんだな、こういう展開で行くんだな、と納得了解して安堵したのも束の間、すぐ次のセンテンス(場面)では先程の了解した内容とは180度反転させて、すぐ読者をいい意味で裏切る、「進撃の巨人」のような展開をみるに至った。

ところで、僕は軽快に階段を駆け上がっていくお爺さんを、「元気なお爺さん」と思った。
何故か、「元気なだな」とは思わなかった。
何故だろう。
別に「元気な人だな」と言っても何の問題もない。
それなのに僕は「元気なお爺さんだな」と言いたい。

分かりやすく考えるために、この「人」を、「人間」に置き換えて考えてみる。

「元気な人間だな」

おかしい。
こうなると、そう発言した者の存在を疑いたくなる。
明らかに人間以外の何者かが発言したように感じられる。
まずこのことから分かるのは、同じカテゴリー(範疇)内に属す名称(この場合人間)を、その同じカテゴリー内にいる者には使用しない、ということである。

次に、お爺さんを、「元気な男性だな」と言ってもよさそうなものである。
だが、やはり「お爺さん」と言いたい。
先ほどの理論からいえば、僕とお爺さんは同じ「男性」カテゴリーである。
だから、「男性」、とは言いたくない、ということになる。
そして次のステップに行く前に、もう一つ理論を加える。それは、
自分との距離感によって言いたい呼称に優先順位がある、というものだ。
年齢の面から見て、お爺さん(推定70代後半)は、僕(20代後半)からはダイブ距離があるように感じられる。
その距離感が、全ての呼称段階を凌駕し、お爺さんを、「お爺さん」と言いたくさせているのだ。

さらに、もしそのお爺さんと親しくなった場合、そのお爺さんの名前を知りたくなるだろう。
距離が近いとその人のパーソナルな部分、つまりその人特有の部分を言いたくなる

今度は、小学生の男の子を例にとってみる。
小学生の男の子に「男性」とは言いたくない。
この時は、「小学生の子」と僕は言いたくなる。
「小学生の男の子」と言ってもいいのだが、僕とその子は、男性という同じカテゴリーに属していることから、男性部分は省略したくなる。
よって「小学生の子」となる。
これが「小学生の女の子」の場合であったなら、僕は、「小学生の子」ではなく、「小学生の女の子」と、言いたくなるだろう。

次に、僕と同世代の男性の場合はどうだろう。
僕は、「あいつ」、「奴」、「彼」と言いたくなる。
やはり、「男性」とは言いたくならない。
女性の場合であったなら、
「あの女の子」、「あの娘」、「彼女」と言いたくなる。

注意しなければならないのが、今ままで挙げた例は、僕が「言いたくなる」ものだ。
決して、他人に説明する時の例ではない。
他人に説明する際は、また少しややこしくなり、勝手が違ってきてしまう。
だからあくまで今回は自分の内だけに止めておく場合のみの使用方法である。

正直、お前なに長々わけ分からんこと書いてきてるんだ、という声が聞こえてきそうな懸念を考慮して、次で終わりにしようと思うが、この最後が書きたくて、今まで書いてきたと言っても過言ではない。
それは、名前を知っているのにも関わらず、「あの人」とか「⚪️⚪️(名前)という人」という風に、敢えて名前を呼ばないタイプの人達がいる。
とりわけ女性に多い気がするが、ざっくばらんに言って、これはその人のことが「嫌い」な場合に使用しているのだと思う。
これは、その人とダイブ距離を離した表現である。
つまり、その人と近くにいるのは嫌なので、できるだけ離れて距離感を保ちたい、つまり、「嫌い」、ということになる。
余談も余談なのだが、残念ながら、僕自身、中学生時代にとある1人の女の子にそう呼ばれていたのを知っている。
その当時は結構ショックだった。
友人によると、僕がなにか彼女にしたらしいが、僕には一切心当たりがなかった。

あれは、苦痛だったな。

まあ、どうでもいいんだけどね。

僕は、なんで女性が嫌いな人をそのように呼ぶのか以前から気になっていたので、今回これを書いていてその謎が解けました。
まあ、少し考えたら分かることなのだが。
長文駄文失礼いたしました。

てへぺろです。

だーりおと、オーケンと、UFOと。

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僕は最近、女優、モデルなどで活躍している、だーりおこと、内田理央にハマっている。
容姿は勿論のこと、あの三秋里歩(元NMB48・旧名小谷里歩、愛称りぽぽ)の独特の世界観・雰囲気に通ずるものを感じる。
まあ、僕のりぽぽ好きや、だーりお好きは今回は置いておく。
今回は、だーりおがMCを務めるている、AbemaTVでの番組「内田理央のオタカレ募集中!」の中のとある放送回の話を書いていこうと思う。

まず、この「内田理央のオタカレ募集中!」という番組をざっと説明すると、毎回オタクなゲストを招き、そのゲストのオタクな趣味を時間一杯にだーりおにプレゼンする。
そして最後にだーりおがそのプレゼンなどを踏まえて、4段階(オタカレ・オタモダチ・マネトモ・ごめんなさい)の中から判定を下す。その特典としては、

「オタカレ」・・・その場でデートの約束をする
「オタモダチ」・・・本人とLINE交換
「マネトモ」・・・マネージャーの連絡先GET
「ごめんなさい」・・・特典なし

となっている。
なかなかだーりおのガードが堅いので、全19回やってきた中で、今のところ「オタカレ」は1人だけしか出ていない。
ただ、「オタカレ」と言っても、その定義は番組内だけ有効なもので、現実世界とは別次元だという旨をいつかの放送回で言及していた(既婚者のゲストも度々登場していることから)。
だからこの番組は、単純に、様々なオタクな世界、つまり様々な知識を紹介してくれる、知的バラエティーとして僕は観ている。

番組の趣旨説明はこのくらいにして、僕が紹介したいのは、3月26日放送回、ゲストに大槻ケンヂ(ロックバンド・筋肉少女帯メンバー、作家、愛称オーケン)を招き、そしてそのオーケンが持ってきた趣味「UFOオタク」の回について書いていく。

UFOの定義

オーケンは、UFOの正体を解明することよりも、何故、UFOと言われるものと人間が遭遇してしまうのかまたはそのように昔から伝承されてきたのか人間にとってUFOとはどのような存在なのか、というような、人間とUFOの関係性の方に興味があるようだ。
そしてまず、UFOとは何の略かをだーりおに説明する。

Unidentified→未確認
Flying→飛行
Object→物体

未確認飛行物体=UFOとなる。(一番上の『Unidentified』の正しい発音を僕はまだ知らない)
次に、あるUFOのVTR映像をだーりおに紹介する。
それを観ただーりおは、「絶対これUFOじゃないですよ。怪しい。信じられない」
と指摘する。
僕も明らかに怪しいと思った。5つくらいの点状のものが蚊のような動きで空を移動しているのだが、いかにも人工的なものに感じられた。
しかし、オーケンはそのような反応にこう切り返す。
UFOを信じる・信じないというものはないんですよ」と。
続けて、
「未確認飛行物体というものは、空に飛んでいるもので、正体が分からない(=未確認)内は、未確認飛行物体、つまりUFOと呼んでいいんですよ」さらに、
「多くの人は、大前提UFOを円盤状のもので、その中に宇宙人が乗っていると思っているが、必ずしもそうでなくていい」
つまり大方の人間は、ある刷り込みを情報媒体(例えばテレビなど)から植え付けられていて、無意識に刷り込まれた前提を出発点として、UFOを捉えているらしい。

このことはUFOに限らず、様々な物事についても言えることができると思う。
オーケンも言っていたが、例えば性関連の話だってそうだ。
一人の人を好きになる、「オンリーユーフォーエバー症候群」(僕は、オーケンが使用していたのを聞いて初めてこの言葉を知った)などが現代では好まれる考えだが、ひと昔前などはもっと性に対して奔放であったことや、同性愛のこと、戦時中にメディアが戦争を正当化させて伝えていたことなどから、様々な刷り込みが僕らを覆いつくしていることが分かる。
その刷り込みを自分の内から全て無くすことはもはや不可能なように思われるが、だが、自分を「刷り込みが覆っている」、と自覚することだけでも、とても重要なことだと思う。

UFO体験は内的体験

UFO現象は、未来人説や、地底人説など諸説あるが、オーケンは、心理学者であるユングの、「心理投影説」を気に入っているようだ。
つまり、自分の中にある精神的なもの、例えば、「不安」などを、外の世界に投影してしまうというもの。だからUFO体験というものは、物理的体験ではなく、内的体験なのではないか、ということだ。
僕もこの説は大変気に入っている。
自分の中にある、「こうあって欲しい」、あるいは逆に「そんなのは嫌だ」という思いを、現実世界の実はなんでもない事物を、自分側に寄せた現象(つまり自分に都合のいい解釈)として自分に見させてしまう(随分周りくどい表現になってしまった、てへぺろです)。
僕は幼い頃、このような内的体験をよくしていたように思う。
例えば、自分は霊感がとても強いのではないかという思いに、何故かある時期に脅迫観念的に囚われていて、遠くの方にある黒い物体を見つけては、「やばい、今自分は幽霊にロックオンされている!」と思い、恐る恐るその物体に近づいていくと、ただの変形な木の枝であったという顛末。
最近で言えば、自動販売機でジュースを買ったら、出るはずのないお釣りが出てきて、あれ?確かぴったりお金入れたはずだよな、おかしいな、幽霊の仕業だな、と思ったが、よく考えたら、130円入れたつもりが、10円と50円を入れ間違えていて170円分入れていたこととか、とにかく内的体験はよくある。
まあ上記のは、内的体験というより、ただの勘違いや、思い込みの類じゃねえか、と一蹴されそうな懸念は拭えないが(てへぺろです)、ただ、自分の内的フィルターを通して、外の世界を作り変えて見てしまったりすることは大いにありえることだと思う。
以上の例をとってみても、「心理投影説」は非常にしっくりくる。
まあ僕が、得体の知れないものの存在を認知するのが嫌で、そんな自分を正当化するために、その人間味ある説に逃げ込んでいるだけかもしれないが。

UFOを見たあとどうするか

番組終盤で、オーケンは、UFO現象を見たあと、それをどう受け止めて、そしてどう動くかが大事だと言っていた。
その現象がなにかの啓示として捉えるのか、自分を見つめ直す契機として捉えるのか、一念発起して今までやりたっかたことにチャレンジするいいタイミングと捉えるのか。
つまり、物事捉え方しだいだということだ。
嫌なことがあったら、ただツイていないなあ、とネガティブに捉えるか、はたまたそれキッカケにより自分を高めることができるじゃないか、とポジティブに捉えるのか。
多分この世界は、自分しだいで、変わるチャンスなんていくらでも転がっている世界なんだと思う。
僕はわりと、なんでもポジティブに捉えるようにしている。
だってクヨクヨしていたってしょうがないからだ。
・・・なんか話が気持ち悪い方向にいってしまったような気がする(てへぺろです)。

最後に、番組内で、視聴者からのUFO体験を紹介するコーナーがあったのだが、その内の一つに、

「新宿にある、『覗き部屋』というちょっとエッチなお店にいった時のこと。そこはマジックミラー越しに女の子がセクシーダンスを披露してくれます。当然マジックミラー越しなので、女性側からはこちら側が見えません。試しに女性に手を振ってみても、やはり反応はなかったです。ですが、とある一人の女性だけは、毎回僕に手を振り返してくれます。女性側からはこちらが見えていないはずなのに、何故その女性だけは振り返してくれたのでしょうか。彼女にはなにかそのような特殊能力があったのでしょうか」

という投稿に、すかざずオーケンが、

「それがUFO!」

と反応していた。
つまり、オーケンによれば、その女性は本当はその男性に手などは振り返しておらず、ただただその男性は寂しい現状にあったため、その1人の女性に向けて、その男性の中の、「手を振り返して欲しい」という願望がその女性に投影されてしまったと、つまり内的体験である、それは「彼の青春のUFO」と結論付けていた。

なかなかいい話だと思った。

ちなみにオーケンは、「マネトモ」になってました。

てへぺろです。

善い行いだろうがなんだろうが、そのように思うんだったら、思い立ったが吉日だよね。って話

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やはり電車内は、日頃どのように生活しているかが試される場所であるように思う。

先日、僕は電車内の自動ドア付近に立ってブログを読んでいた。
やがて電車がとある駅に停車し、また出発しようとした時に、僕の背後で、
「ちょっと、お兄さん!落としましたよ!」
という、おばあさんの声がした。
僕が後ろを振り返った時には、通路の床に、持ち主を見失った財布が違和感を纏いながら落ちていた。
その直後、反対側から、ガコン、というなにかがぶつかる音がした。
僕は音のした方に顔を向けると、車両から車両へと移動しようとしている子供連れの女性がいた。
その女性は、刹那前に自分で開けたはずなのに、言うことを聞かずに再び元の位置に戻ろうとしている閉まりかけのドアに、乳母車をぶつけながら進んでいる最中であった。
もう少し具体的に書くと、5歳くらいの子供2人を連れ、おまけに1人の赤ん坊を片手で抱えているので、必然的にもう一方の手で乳母車を押すハメになっている。
しかも、その近くの座席には旅行者の大きなキャリーケースが通路を占有しており、母親の行く手を絶妙に阻んでいた。

一方、反対側のお財布事件は、「お兄さん、落としましたよ!」と、誰よりも先に財布について言及したために、その財布の第一発見者にされ、暗黙の内になにか責任感を付与されてしまったおばあさんが、
「これ、どうしましょうかね。車掌さんいらっしゃらないかしら」と、同席していたおばあさんの家族に協力を要請していた。

その間も、絶賛車両横断中の家族ご一行は、ドアに乳母車をぶつけながらも牛歩のごとく、移動を進展させていた。

ところで僕はというと、両者のイベントに挟まれていて、次の一手を決めかねている最中であった。
自身の立ち位置をどうしたものか、と。
ご多分にもれず、無関心を決め込み、スマホに目を落とすことで外界と無理矢理遮断しているように見える、他の乗客と一緒の立ち位置にいくのがいいのか。

つまり、僕は出遅れてしまっている。
そして、とっくに了解もしている。
本当は、乳母車を、そして子供を引き連れている女性にさっさと救いの手を差し伸べるべきだということを。
ただ、さっさと動き出さなかったがゆえ、怠慢と、自分を正当化させる言い訳ばかりが膨張し始めており、
「いや、女性を助けようにも、一方では財布の落し物問題やってるし、そっちに気を取られて、いまや、にっちもさっちもいかないんだよ!」
「それに乳母車の女性にしたって、ああやって自力でなんとか(ぶつけながらとは言え)移動できているじゃないか。もし助けてもらいたきゃ、そのようにあの女性自身が言い出せばいいんだ!」
みたいな言い訳が無限のように出てくる。
結局、僕が最終的に下した決断は、周りの無関心を装っているようにみえる乗客と一緒になるのは嫌だったため、その女性に関心だけは示すという、もはや、「周りの乗客とは僕は違うんだ、僕はそんなシティボーイなんかにはなりたくない」、という即席のポリシーに反さなければ今回のところはオッケー。という罪悪感を抱かせない正当化の言い訳のもと、僕はその女性の一挙手一投足に目を集中させ、なにかあった時にはすぐ助けに行きます、という前提を武器に、ただただ傍観する、という立ち位置に徹する決断をするに至った。

僕が正当化するための、言い訳の牙城を建設するのに必死になっている間に、とうとう乳母車を押していた女性は、隣の車両へ移るというミッションを見事に完遂させた。
僕は半ば安堵し、建設中の牙城も破壊し、そして先ほどとは幾分軽い気持ちでお財布問題の現場を見やった。
すると、通路床には相変わらず財布が落ちたままになっており、第一発見者のおばあさんはと言えば、同席していた家族と世間話に花を咲かせていて、第一発見者の責任を放棄していた。
そしてそのままおばあさんが降りる駅になったら、ぞろぞろとその家族ごと、降りていってしまった。

財布は落ちたままである。

僕はその家族が座っていた椅子に腰を下ろし、その財布を見つめながら果たしてどうしたものかと思案していた。財布の近くに座っている若い女性は我関せずスマホに目を落としている。

どうしたものか。

電車が次の駅に停車した。

すると、駅員が、隣の車両から勢いよく駆けてきた。
そして落ちている財布を見つけ、スマホに目を落としている女性に、
「この財布、あなたのですか?」と、聞いた。
「いいえ、違います」
僕は転機がきた、と思った。先ほどまで罪悪感のせいでモヤモヤしていた気持ちを吹っ飛ばせるチャンスがきたのだと思った。
「それ、さっき〇〇駅でお兄さんが落とされていったんです」
「そうでしたか。実はさっき〇〇駅で財布を落としたという方から連絡が入ったんです。ご協力ありがとうございます」
と、僕に軽くお辞儀をして、財布を持ち、軽やかに駅に消えていった。
僕はなんだかすごく解放された気持ちになり、清々しささえ出てきた。
今の行いで、先ほどまでの罪悪が帳消しにできたと思った。
そして、駅員の対応早いな、とも思った。
きっと持ち主のお兄さんは、改札を出る際に気付いたのだろう。そしてすぐに駅員に連絡して、先ほどの駅員の軽やかな対応へと繋がったのだ。
ということは、あの第一発見者のおばあさんの、責任を放棄して財布をそのままにしておくという対応は結果的に正しかったということになるのだろうか。
いや、今回は落とした当人、そして対応に当たった駅員の行動が素早かったから良かったものの、もしかしたら財布を放置している間に、誰かに盗まれるという可能性もあるだろう。
だからなんらかの行動をとりさえすれば、例えば仮に、あのおばあさんが財布を自分の降りる駅に落とし物として届けた場合、少なくとも誰かに盗まれるということはなくなるだろう。
恐らく今回は運が良かったのではないだろうか。

また、こういう時に、コミュニケーション能力というのは大事だな、と思う。
手っ取り早く、周りにいる乗客とどうするか話しあえば、簡単に万事うまくいったのではないだろうか。
みんなこういう時、コミュ障を発揮してしまう。勿論僕だってそれに含まれる。
そして僕はこういう時、日頃の訓練が足りていないんだな、と思う。
普段から困っている人がいたら躊躇せずに行動することを心掛けていたら、こういう時も、またこれよりももっと大事な局面で、行動できる人間になれているんではないのだろうか。
その時、動き出さないで、罪悪感に悩まされ、後悔する人に成り下がらないで済むような、そんな堂々とした男に。
善いことをした後に、見返りがなかった時、一体なんのために善いことをするんだろう、と思うことがあるかもしれない。
だがそのような日々の善行は、大事な時にすぐ動き出すことを可能にする訓練なのだ、と思うようにすればいいのではないだろうか。
実際、そのような訓練をしていないと、いざという時に動かす体や頭が鈍いのが分かる。
だから、後悔したくないのなら、助けたいと思ったのなら、すぐに行動すること。
これは道徳の話しだけではなく、もっと広い意味でも、とても大事なことだと思う。
つまり、思い立ったが吉日、ということだ。
今回はこのへんにしときます。
てへぺろです。