それは起こりうる

1.実験的な書き出し

僕は想像する。
宇宙の片隅で、その深遠、そして深淵なる暗い場所にスーッと、一本の筋状の切れ目が入ることを。そしてその切れ目を拡げるべく骨ばった大きな手が現れるのを。
「ということは」と、その刹那、僕は経験則に基づき推測する。その大きな手のあとに続くもの、恐らく肘、次に肩、そして胴体と一緒に頭なんかも出てくるんだろうと。
だが、僕の推測は外れる。
大きな手の次に現れたのは、その自分の限界を知るべく、極限まで口を大きく開けて、まだいけるんじゃないか、もっと自分は口を大きく開けることができるんじゃないかと、口周りを微妙にプルプル震わせている、50歳半ばの何故かメガネを片方ずらして掛けているおじさんの顔だった。
その後、自分の口の開ける限度を知った(悟った)のか、単に疲れたのか、口を閉ざし、再び開けたと思ったら、先に現れていた手をガブガブ食していった。その手を完食すると、まん丸い平面のその顔は、そのまま宇宙にころっと、ゆっくり落下していき、その落下進路の先に、また筋状の切れ目が現れ、そこにスッと入ると、そのまま切れ目とともに消失した。そして最初の切れ目もいつの間にか消失していて、またもとの暗闇に戻り、僕の想像も終了する。

2.中間的な段落

この荒唐無稽の空想が、僕が今パッとできる、勢いまかせで、半ばヤケクソに想像できうる限界である。
僕はこの一連の空想に意味を与えることはできない。というより意味を与えないように努めた結果がこれだからだ(だから、1.で先述した「だが、僕の推測は外れる」は矛盾を抱えているのは自明なので指摘しないでほしい)。
だが、意味は与えられないが、想像はできる。現にできた。言語化もできた。
僕はどんなに荒唐無稽な空想だろうが、想像できた時点で、それは現実に起こりうると考えている(「起こる」ではない、「起こりうる」だ)。馬鹿げたことを抜かしていると思うかもしれないが、実際に、人間が想像できる範囲内の荒唐無稽なことが起こってしまったら、人間はそれを事実として、既に「起こってしまったこと」、として受け入れるのではないかと思う。そして今までの世界のシステムの前提が崩れることになろうが、それはただ、その前提が間違っていたというだけで、またそれに当てはまる原理を再び探すのだろうと、その起こってしまった事実を理解しようとするのではないだろうか。
だが問題は、理解できない、人間が想像しえない事柄の方だ。
1.で宇宙の片隅で異性体が出現する想像をしたが、では、その異性体はどこからやってきたのか。ここで人間特有の性質、推論が発動する。
宇宙の隣にさらに宇宙があって、そこからやってきたんではないのか、だとか。
もし隣に同じような宇宙があったとしても、これは十分理解できる。たとえどんなに宇宙原理を覆すことになろうが、その事実が発覚した時点で、それは既に起こったことなのだ。また理屈を探し始めるだろう。
だが、全く想像できない、宇宙の外側(人間の想像の範疇を超え出た)の「なにか」から、人間の想像の範疇を超え出た「なにか」がやってきたとしたら、僕らはその「なにか」を理解することができるだろうか。
恐らくできない。それは人間の思考の範疇を超えている時点で、理解不可能だし、もっと言えば、認識不可能なのだ。認識可能の時点で、人間はそれを受け入れることが、理解することが可能になる。認識不可能なことは理解できないし、その事実は無いものとなる、むしろ事実でもなくなる。
ということは、先述した傍線部の矛盾が明らかになる。傍線部の例で言えば、「なにか」を認識してしまっている。それは事実として人間に受け入れられている。それは既に起こってしまっている。
だから、人間の範疇を超え出たものはそもそも認識できないという結論になる。
だが僕は、この人間の範疇を超え出たもの、宇宙の外側のなにか、この部分を猛烈に知りたい。このことこそがとても重要なことに思える。
このことは、「僕」という存在について段階を踏んで思考していくと、必ず行きつく先は、その「なにか」で行き止まりになる。このことを考えると、非常にわくわくするし、恐怖もするし、そして切なくもなる。しかし、いつまでもその思考に踏みとどまってはいられない。「無」を思考しているようで、その場では思考の効力が徐々に奪われていくような、そのような感じになる。だからほんの数秒でその場から追い出されてしまう。
僕は、その「なにか」を理解することは人間の性質上、不可能だが、せめてうまく言語化できはしないのかと、結構前から思っているのだが、まだほど遠い感じである。
とまあ、認識不可能な方はさておいて、では認識可能な方に話を戻したい。
じゃあ認識可能って言ったって、どんなのがあるんだ。例えば猫が喋るとか。

3.強引過ぎる改行前の前フリ

僕が長々書き続けてきたわけだが、今回伝えたいことは、たまたまYouTubeでピコ太郎の動画を漁っていたら、関連動画で、「爽快!!柴田屋です!」というアンタッチャブルの柴田がMC、アシスタント役に響の長友という、WEB限定のトーク番組にあたったということだ。その動画では、ゲストに古坂大魔王(ピコ太郎で活躍する数か月前の出演と思われる)が登場しており、話は、古坂が飼っている猫の話になった。
古坂が言うには、自分が飼っている猫が賢過ぎるということ。
例えば、自分が家に帰ってくると、古坂に、「おかえり」とはっきりと喋るという。曖昧に鳴くのでなく、はっきり、そう言っているのだそうだ。
これが驚いたことに、その音声をスマホに録音しており、その番組配信中に視聴者も聴くことができるのだが、実際に聴いてみると、確かに、「おかえり」と、はっきり(とまで断言するのは難しい気もするが)に近しいくらいに言っている。
僕は普通に驚いてしまい、なにか人知を超えた、起こりえないことが、実際に起こってしまったような感覚に陥った。
そして、もっと明瞭に喋ることができたなら、その時は、あー猫もそりゃあ喋るよねー。と納得して受け入れてしまうかもしれない。
ただ、一方このような考え方もできる。
人間は、そう「思いたい」という、猫が実際にはそのように発していなくても、極めてそう言っているように近づけてしまう、つまり人間の側の思考にピントを合わせにいってしまうこともあるのではないかとも思う。それも無意識のレベルで。
これは、実際に起こってしまった荒唐無稽なことを理解し、受け入れる時のメカニズムと同じだと思う。人間の側でどうしたって考えてしまう。それは人間として生まれた時からの宿命である。例えば、UFOや、宇宙人だって、そう思いたい(または思い込む)という気持ちの目で見てしまっているから、そのように「見える」ということもあると思う。全ては人間の側で、人間の範疇で、起こる。
その外側を、僕らは知ることができない。
今回この記事を書き始めた時、自分が一体なにを書きたかったのか、もはや知ることができない。