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言語化できない場所から見た、ちっぽけな世界

1.小人閑居して不善をなす

ことわざで冒頭を始めたわけだが、それは、なんとかこの記事に格好、箔(はく)、説得力、これらを付かせる(付与)効果を期待してのことである。

「小人閑居して不善をなす」、僕はたいていある条件が整った時にこのことわざを想起する。それは、下腹部、いわゆる股の間のイチモツをゴニョゴニョとまさぐり、起立させることで整う(誠に下らないが、まさにダブルミーニング的に、フラグが立つということだ)。
そして、これでもかという程にまさぐり倒し、清々しくも精根尽き果てたと同時に、もれなく付いてくる労働の快感と、それを間もなく覆い尽くす虚無感に包まれながら天井を見つめ、頭の後ろでぼんやりと想起する。

「小人閑居して不善をなす」

このことわざの意味は、小人(教養や、人徳のない人)ほど、暇になると悪事を働くという意味である。
僕は今度は、天井を見つめながら、明らかになにかを抱えているのを横顔に滲ませている二枚目俳優よろしく、誰に聞かせるわけでもないのに、ある含みをもたらす効果がある、「か」を語尾に付けて嘆息まじりに口に出して言ってみる。

「小人閑居して不善をなす・・・か」

記事冒頭の目論見を、自ら台無しにしてしまったわけだが、じつは本題はここからである。

2.本題

かくして、不善の後にはセンチメンタリーな気分になったわけだが、そのセンチメンタルが、ある、深遠かつ深淵な(もちろん僕にとって)問いを喚起させる。
誰しも1度は、人生って一体なんだろう?とか、死んだらどうなるんだろう?とか、世界ってなんなのだろう?というような、なんだか壮大で、極めて漠然とした、答えがない問いを考えたことがあると思う。
このような類の問いを、「観念」とここでは定義してみる。その他全て、森羅万象も「観念」に入れる。そして、人々がイメージする、「概念(ということは、当然、世界や、宇宙や、死も該当する)」も、「観念」の中に入れる。全て(文字通り全て)「観念」の中に入れる(「観念」という名の球体をイメージして、その中にどんどん詰め込んでいくイメージで)。
あ、自分も、いわゆる「私」や、「僕」の類の自分もお忘れなく観念に入れといてほしい。

全ては「観念」である。
観念も、「観念」である。
観念も、「観念」の中に入れる。
観念自身、自身を飲み込むようなイメージで、完全に飲み込むと、もう、そこには、跡形も無くなっている。
跡形も無くなる。
するとなにが見えるだろう。

無。完全なる無。

なにか、宇宙のような、または漆黒の闇かなにかをご想像だろうか。
ただ、一面に広がるその闇も、くしゃっと触れば、シワができ、新聞紙よろしく丸めることができる。
それも「観念」の中へ。
その闇をくしゃっとした「なにか」も、「観念」の中へ。

無。無。無。

無も概念なので、「観念」の中へ。

ここで言語が打ち止めになる。

なにも語れない。

言語化できない。

3.言語化できない場所(領域)

その言語化できない場所(領域)から、現実の自分がいる場所、自分という場所を見下ろしてほしい。
すると、
この世界って一体なんなんだ?
この世界って一体どうして在るんだ?
という、驚愕するほどの、漠たる問いが深淵から浮上してくる。
ただ、いつまでもその問いに止まらないでほしい。その問いはすぐに一般化されてしまう。なぜならその問い方自体が、よくある陳腐な表現だからだ。だから、そのような問いを考える(というよりイメージすると表現したほうが適当か)より、

この世界は無いこともありえた
この世界は無くてもよかった

と、イメージして欲しい。

この世界(観念)がもし無かったら?

その先をイメージする。

言語化できない。

この世界はたまたま在るのだ。
この世界は偶然在るのだ。
そんなものなのだ。この世界なんて。

そのように考える(イメージする)と、その言語化できない場所から見た、この現実世界は、なんてちっぽけなんだろうと、なんてちっぽけな世界なんだろうと思えてくる。日常生活で嫌な事があったり、そのようなことで思い悩んでいたり、思い詰めてしまっていたりしたら、今のようなやり方で、現実世界をちっぽけな世界に変えてみたらいい。言語化できない深遠な場所まで行き、現実世界を俯瞰して、ちっぽけな世界に変えてしまえばいい。
現実世界なんてそんなものなのだ。
別に肩肘はらないで、息を殺さないで、思い詰めなくてもいい。
もっと楽にしたらいい。
もっと楽に過ごせばいい。
楽になれば、楽しくなるから。
楽しく日々を過ごせるから。
楽しめばいい。

とまあ、記事冒頭の失態を、末尾の歌詞みたいなのとで、帳尻を合わせて(合わせられているかは知らないが)、締めくくりとする。