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「優しい」という言葉

優しい・・・1.親切で、温かみや思いやりがある。(◎優しい気持ちで人に接する)
                      2.素直でおとなしい
         3.穏やかで柔らかい
             「ベネッセ表現読解国語辞典(2004年初版第7刷)」より

 

僕は「優しさ」とか、「優しい」といった言葉がなにを意味しているのか分からなくなることがある。
僕が問題とするのは上記ならば1.の意味だろう。ただ、読んでもあまり腑に落ちない。
さらに隣の例文もよく分からない。なんというか、無理やり意味をあてがったような、欺かれているような感覚を抱いてしまう。哲学者永井均の本で、意味なんてものは本当はないんだ、というようなことを書いていたが、確かにそのように思ってしまう(というより、永井均の本を読んでから、そのように考えるようになったんだと思う)。
だから意味なんてものは頼りないものだと思うので、僕なりのやり方で、「優しい」という言葉がどういうものなのか、理解することを努めてみようと思う。

別にセルフブランディングするつもりはないが、今まで何度か「優しいね」と言われたことがある(こんなことぐらいほとんどの人が言われたことがあるし、言う方も深く考えずに言っていると思うので、セルフブランディングになりようがないか。というか単にセルフブランディングという言葉を使いたいだけなのか。という自虐をして読者に親近感を抱かせる目論見か。いや、親近感という表現より、「優位性」と表現したほうが適切か。というより無駄に文字数増やすことが目論見なのか)。
ただ、言われる度に戸惑うし、大抵決まり文句のように、「優しくないよ」、とリアクションをし、謙遜しているつもりはないのに謙遜している雰囲気を作り出してしまう。

僕が考えるに、優しさというのは、受動の状態で感じる、受動の状態の際に現れてくる概念のように思う。
つまり、「相手に優しくされた」、というように、受け身の時にその概念に触れたような感覚になる。
主体的に優しくなろうとすると、または優しく接しようとすると、その時点で、「自分がそうしたいからそうする」、というようなエゴが生まれ、それは自分のためになってしまう。
ただそれは当たり前のような気もする。
他人の気持ち、つまり自分以外のもののことなど理解することは不可能で、もし、理解できると断言する人がいるならば、それはそのように思い込んでいるということに過ぎない。
どこまでも自分からは出られないのだ。
だとすれば、相手を思いやろうとしたところで、相手が望んでいることは本当のところは分からないのであり、分からない以上、それは自分のためになってしまう。
つまり自分の中にある以上、全て「自分のため」化してしまうのだ。
各人が、各人自身で解釈しなければならない。人間という構造上、そうならざるをえない。
だから、受け身の際、外部から入ってきたものに対して自分なりに解釈し、相手のことなど皆目無視し(そうならざるをえない)、「優しくされた」、などと、恣意的に解釈し、恣意的に受け取るのだろう。
ということは、「優しい」というのは、受け身の概念ということになるだろう。
だから優しくしたつもりもないのに、優しいね、などと、相手との齟齬が生じるのだと思う。
主体的にその言葉を使用する(「優しくなりたい」、「優しく接したい」など)のはその言葉の性質上、不可能なので、その言葉を主体で発信した時点で、その言葉の思いは袋小路に入りこむ。
さらに言えば、「自分は優しい」、と自覚することすら許されず、相手にそう評価されることを待つしかない。ただ、いざ評価される段になった時には、自分は面を食らうこととなる。
だから、特定の人に優しくしたいと思い、またそれを実行したとしても、相手にそれが伝わらないということは、「優しさ」という言葉の性質上、当然のことなので、あまりがっかりしなくてもよいのだ。
それと同じ理屈で、不意をつかれて、「優しいね」と言われたら、やっぱり、「優しくないよ」、というリアクションをして、謙遜している雰囲気を出すのが正解なような気もする。どのような理由であれ、そうしたほうが、なんだか好感度が上がる気がするからである。

(※今回の記事を書くにあたって、BUMPOFCHICKENの「ひとりごと」という楽曲も、永井均著作と同様、少々参考にしました。)

了です。