「分かり合えない」ということを、「分かり合う」ということ

ある動画内で、芸能界関係者の知り合いがいるという女性(漫画家らしいが)が、とある業界裏の暴露話をしていた。僕はその話を、へぇーそうなんだ。と、素直に受け入れていた。
その話を友人にしたところ、
「その話をそんな簡単に信じんのかよ」
と言われた。
僕はぐうの音も出なかった。
なんとなく僕が敗北した雰囲気が漂った気がした。
というのは、僕が想定していたリアクションとは違うものが返ってきたからだ。
僕は、「えー、マジで。そりゃびっくらこいたわ」的な言葉が返ってくると予想していた。
ここで、少し本筋から逸れるようで逸れていない話をしたい。
会話を進めていくと、しばしば相手との軋轢が生じることがある。つまり、口論・口喧嘩の類のことだ。
この原因は、ある問題に対しての「答え」の一致を求めているからこそ話しが摩擦していき、軋んだ音を鳴らす、つまり、「話しが合わない」と感じてしまうのだと、野矢茂樹編著「子どもの難問 哲学者の先生、教えてください!」の中の「どうすればほかの人とわかりあえるんだろう?(古荘真敬著 )」の章で、そのようなことが書かれていた。つまり、「答え」の共有よりも、「問題」の共有を求め・分かち合う方がいいのではないかということだ。こちらのこだわっている問題を、相手は大したこだわりだと捉えず、相手は相手で、自身がこだわる問題に勝手に上書きして、そして、相手は「自身の問題」に対して答えを述べているのだと。だからたまにお門違いの返答が返ってきて、話がこじれるのだと、そのように著者は綴っている(僕なりの解釈で書いているが、概ね合っていると思います)。
だから、「答え」の一致よりも、まず、お互いの「問題」を共有し、そうすることで、たとえ答えが合わなかったとしても、他人と自分はこだわりが違い、そのような点において、「分かり合えないことが、分かり合える」という方向に持っていくことで、わりと上手く進めそうだし、世界も広がるのではないかとそのように僕は解釈したし、実際、世界が少し広がった気がした。とまあ、本筋から逸れているようで逸れていない内容は一応書けた気がするので、話しを本筋に戻します。

僕が友人に言われて、ぐうの音も出なくなったのには理由がある。それは、僕の話しの大前提を攻撃された、ということである。いわゆる「帰納」に対する概念、「演繹」の論法である、根幹にある「大前提」。
演繹は、前提が真であるならば、結論も必然的に真となる論法。
今回の場合、僕はその内容の大前提、それが真実だという前提の上、話しを進めていた。しかし、友人はその前提を攻撃するというメタ攻撃、つまり反則技を用いて反論したのだ。
これでは僕に勝ち目などない。
しかし、この手の話しには常時付きまとってくるであろう、話しのエビデンス問題。情報リテラシー。僕はこのことをすっかり忘れていた。
つまり、「業界裏話」と銘打って話す場合、まず、その言葉が醸し出す「胡散臭さ」が内容より先に立つ。
そして相手は、業界関係者に近しい人物から話をきいている僕とは違い、その「業界関係者に近しい人物から話を聞いた、なにも業界とは関係のない僕」から話を聞いているのであり、言ってみれば、僕より洗脳にかかっている力が弱いということになりそうである。だから僕より客観的にものを見れる。
そして、その話の主観の中にいる僕は、いわゆる夢の中にいるのであり、「業界裏話」という言葉は無臭である。
しかし、その話の外にいる、夢から覚めている、客観的立場にいる友人に、その夢の中でしか通用しない「業界裏話」という言葉を投げたところで、それは友人にとって独立の概念として浮かび立ち、ほやほやの「胡散臭さ」が立ち込めるものとなっており、その刺激臭に敏感に反応してしまう友人がいても全くおかしくない。むしろ健全なくらいかもしれない。
だから本当は、内容を話す前に、「この話しは大前提真実というところから話しを始めるけどいいね」などと、前置きしてから話し始めるべきだったのだ。
いや、おかしいだろう。
やっぱりこの話の内容は、真実かそうじゃないかに帰結しそうな気がしてきた。恐らく、この文章を書いている今現在の僕は、客観的になれているんだろう(そして、友人に敗北した経験も重なって一層客観的になれている)。
恐らく僕は、動画内の女性ではなく、友人が納得するほどの、よりエビデンス性の高い出処を提示すべきだったのだ。そうすれば友人も納得したのではないか。
というより本当はこの話しに勝敗など無く、そもそも違う土俵で相撲を取っていたのであり、つまりお互いの「問題」のこだわりを分かり合えていなかったのだ。
そのように思うと、少し、世界が広がった気がしないでもない。

了です。