ハイハイで散歩中

面白いと思ったものをただただ紹介したり、またはただの雑記に成り果てそうです。

ハイハイで散歩中

自分に自信が持てない以前の問題、そして話は人間原理へ

●僕という前提の成立①

別に奇を衒ってるわけではないのだが(いや、冒頭にこれを持ってくるあたり、全くそうとも言い切れないか)、実は、僕は小学校6年生くらいまで、自分が人間であることに自信が持てないでいた(どうかブラウザバックしないでほしい)。ふとした瞬間に、「あれ、オレってみんなと一緒の仕組みになってるのかな」とか、「今自分の身体に起きていることはみんなにも同じように起きているのかな」など不安になったりしていた。
けれど、僕は根っこの部分はポジティブというか、自分を正当化させることに長けているというか、つまり、落ち込んだとしても、「生」と「死」でいえば、何故か「死」は選ばずに「生」を疑いもなく選ぶタイプ(今のところ)らしく、落ち込んだとしても、「生」を選ぶ以上、あとはそこから這い上がるしか術は残されていないので、誰に頼るのでもなく、自分が1番の自分の味方になり、これでいいのだと納得させ(正当化\肯定化)、世界を楽観的に捉えるよう、つまり世界とうまく付き合っていく処世術を幼いころから身につけていたようだった。
だから当現象も、絶望するといった類いのこととは無縁であった。
それでもやはり、ミュータントタートルズの、「帰って来たハエ人間(VHS)」を観た時などは、発作が起こり、泣きながら母親に、もしかしたら自分ハエ男かもしれないっス、うわーん、と抱きついたものだった。
僕は小学校時代、ありとあらゆることに自信が持てなかったのだが、自分が人間であると信じ込めた経験(そのことに関しての懐疑心が再び沸き起こったことは今のところない)は、ある意味で、この世界に存在できる許可証を手渡されたようなものだったのかもしれない。

●僕という前提の成立②

何故、人間だと信じ込めた(思い込めた)かといえば、小学校6年生の理科の実験によるものだった。それは、キング・オブ・実験(ダサいな)の称号を与えてもいいくらいの、誰もが知っている実験、

石灰水に二酸化炭素を混ぜるとその液体が白く濁る

という非常にシンプルな実験であった。
先生が、この実験をやるよー、と、一週間くらい前から何故か嬉々として告知していたのだが、僕はその日から少々憂鬱であった。実験の授業というものは、ただ先生だけが黙々と行うことを善しとしない。生徒にまで強要してくる。僕にとっては、結婚式の招待ほどにありがた迷惑な話であり、もしこれで石灰水が白く濁らなかった場合、そんなのは人間界から村八分である。

Xデ―。来たる実験日。

理科の授業が始まる。ただ開始早々僕に吉報のような発言が舞い込んできた。
「全員やってもらう時間はないから、代表で2人だけ体験してもらいます」
僕は緊張した。そしてすこぶる不安になり、それが背中の丸みとなって現れた。
僕はこの時、この緊張が幼いながらに、経験則に基づく緊張であることを直感的に理解していたように思う。
僕はこういう場合、結構な確率で当たってしまう。
しかも状況は最悪で、僕の座っている席は先生の目の前に位置していた。

「じゃあ、まずは・・・〇〇さん」

1人目が指名された。女の子であった。

「次は、男の子がいいかな」

僕は背を丸めに丸め、出来る限り先生の視界から外れようと努めていて、そのまま素知らぬ振りで机の下に潜り込む勢いでいたところ、

「じゃあ・・・〇〇君」

僕は避難訓練を中止し、地震の揺れなのか、心臓の鼓動の揺れなのか判然としないまま、決死の覚悟で立ち上がった。

かくして僕に白羽の矢が立った。

●僕という前提の成立③~晴れて人間~

まず、女の子が石灰水に息を吹き込んだ。

「おー。」

石灰水が白く濁ったのを見て、わっと周囲が盛り上がった。女の子は嬉しそうであった。僕はそれを見てさらに不安になった。やばい。やばいぞ。オレはそっち側に行くことができるのか?
そして、僕の心を見透かしたようなまさかの発言を先生が言い、さらに僕の不安を煽った。

「さあ、〇〇君は果たして人間なのかどうか、証明してもらいましょう!」

この野郎。

僕は、目の前のストローのようなものに口を付け、そして息を吹き込んだ。

液体が白く濁った。

「良かったねー。〇〇君も人間だったんだねー」

 マジで良かった。

晴れて僕も人間としてカテゴライズされた。

そして、それ以来僕は、「自分は人間である」、という前提の上で全てをスタートさせている。僕はもう、人間なのだ。このカテゴリーから決して出ることはできない。

●人間原理

人間原理という考え方がある。

宇宙が存在しているのは、人間が宇宙を認識しているからである。人間がそれを認識するからこそ、それは存在する。

ざっくり説明すれば以上のような理論である。
つまり、超自己(人間)中心的な考え方ということだ。
この理論について様々な論争がなされているらしいが、この理論の真偽はともかく、この世界はやはり人間的である思う。というか、そうならざるをえないのではないか。

人間である以上、人間から出ることはできない。人間というカテゴリーから出ることができない。そのカテゴリー内が人間世界であり、そしてまた、人間が認識できうる範囲でもある。そのカテゴリー内で起こったことは全て人間化され、人間的に処理される。

そのカテゴリーの外の世界は認識できない。その外の世界のものがカテゴリー内に現れたとしても、それは人間化されたものであり、本当の姿は認識できない。

という考え方自体がそもそもカテゴリー内であり、人間的なのである。
認識できうるものは全て人間世界の内側で起こっていることなのだ。
このことを考えると、とてももどかしい。どこまでも人間から出ることは、逃れることはできない。
そして、どうしてもセットで、僕(人間世界)の消滅を考えてしまう。

無だけが残る、

などという生易しいものではない。

無などない。それすら無い。

僕ら(人間世界)は、僕ら(人間世界)でなくてもよかったのだ。

僕ら(人間的世界)でないこともありえたのだ。

ではどんな世界が?

言語化不可能。

認識不可能。

僕は小学6年生の、あの理科の実験までは、このような考え方は浮かばなかっただろう。何故ならこのような考え方は極めて人間的であるからだ。
あの頃僕はなにを考えていたのだろうか。あらゆることに不安で、自分に自信がなく、世界に恐怖していた。ただ、そのイノセントな時期に、もしかしたら、今では認識不可能なことを、認識可能にできていたのかもしれない。

いや、どうだろう。それはわからない(なんやねん)。

今ではただ、認識可能な、人間的な世界の中で、このような考えを言葉を使って表現するしかない。

なんか最後カッコつけた感じになってしまった。

てへぺろ。

以前にも、今回の内容に関連している記事を書いているので興味のある方は読んでいただけると幸いです。
てへぺろ。
 
了です。