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人は何のために生きるのか?-人生に意味や目的などないことを論理的に考える-

誰しも一度は、「自分は何のために生きているのだろう?」とか、「人生に意味はあるのだろうか?」などという、極めて漠然とした、そして壮大とも思える問いが頭によぎったことがあると思う。
僕自身、何度もある。
自分に理不尽と思える出来事が降りかかってきた時、未来に活路が見出せなかった時、あるいは極めて個人的なことでいえば、下腹のイチモツに一定時間刺激を与え続けた結果訪れる一瞬の快楽、そしてそれを享受するのも束の間、押し寄せてくる虚無に身を投げ出され時など、様々なタイミングで、「人生とは一体・・・」と、顎に手を添え考えてしまう(いや、ブラウザバックはしないでください。以下、真面目に書きますので)。
ただ考えはするが、答えを出せたことは一度もない。その問いは知らぬ間にどこかに消え、僕はまた日常のゴタゴタに戻っていく。
そしてまたふとした時にその問いが顔を出す。いわばその繰り返しである。
ただ僕はある1冊の本を読んで、その掴み所のない問いの全貌を捉え、ふわふわとしていて曖昧であった輪郭をハッキリさせることができたように思う。
今回はその本の一部分を紹介したい。

「人は何のために生きるのか」

その本とは、小浜逸郎著「なぜ人を殺してはいけないのか」(羊泉社)である。
僕がこの本を購入したのは3年程前で、最初はそのセンセーショナルなタイトルに惹かれて手に取った。
僕にとっては少なからずショッキングな問いだったが、この問いは本が出版された当時、いやそれより数年前に、ある種の知的ブームとなっている背景があり、そこまで真新しくもない、手垢にまみれた問いとなっているようだ。
この本の発行年は2000年が初版である。それは酒鬼薔薇事件の3年後であり、また、オウム真理教関連の事件とも近しい。そのような事件が契機となって起こした、ある公の議論の場で、1人の青年が放った本書籍タイトルの問いに対して、その場に居合わせた知識人がうまく答えることができなかった。そしてそのことが話題となり、そこからその問い関連の特集が組まれた雑誌が出たりして、一時、子供よりは比較的大人の間でブームが起こった、という顛末であるらしい。
ただ、僕が今回扱うのは、その書籍タイトルの問いではなく、その本の最初の章にある、「人は何のために生きるのか」である。
何故この問いが最初の章にあるかというと、筋道を立てて、それを順番に辿って正しいプロセスを経ることが、物事を根底から考える上で正しい思考のあり方であるということらしい。
僕はそのおかげで、早くも序盤の段階、つまり第一章で、この本に心を鷲掴みにされてしまった。
勿論僕は最後まで読んだけれども、正直、この第一章、ページ数にして20ページ程度を読むだけでも価値はあると思う。
かなり前置きが長くなってしまったが、それでは、内容に入っていきたいと思う。

「個体発達的要因」、「時代的要因」

筆者はまずこの問いが、「人生全体」という膨大とも思える観念に対して、この問いの本質ともいえる、「意味」とか「目的」という観念で捉えることが果たして相応しいのかどうか疑問を呈す。
そこで、ある二つの問題提起を持ってこの問いに対して反省を行う。

第一に、私たちは、どんな状態にある時に、こういう問いに心を占領されてしまうかという点、そして第二に、「意味」とか「目的」とか、「〜のために」とかいう意識は、本来どういう生活場面で必要なものとして呼び出されるのかという点である。(引用元:小浜逸郎著「なぜ人を殺してはいけないのか」)

まず、第一の反省「どんな状態の時にこういう問いに心を占領されてしまうか」だが、この反省には二つの要因があると筆者は考える。
それは、「個体発達的要因」と「時代的要因」である。
まず、個体発達的要因の方だが、いわゆる思春期や青年期に見られる自我の確立期のことであるが、この時期は、家族、とりわけ親からの精神的な独立を強く意識する時期であり、今まで築いてきた家族の中の自分という観念を壊し、家族・親から切り離された自分という存在、また、これからは自分の道は自分で切り開かなければならないという、一人の責任ある自分を強く意識し、自分というものを再構築する。
その際、眼前に現れてくるのが、「人生」という漠たる観念。そしてその「人生」の中の「自分」という固有のものを考えるようになる。具体的に言えば、「自分は何に向いているのか」だとか、「自分はどのような職業に就きたいのか」など。そして突き詰めていくと、最終的に「そもそも人は何のために生きているのか」という問いに行き着く。このような訳で、思春期・青年期の自我の確立を意識する不安定な時期に、今回の問いに心を占領されてしまうと筆者は述べている。

二つ目の要因、時代的要因
個体発達的要因から考えると、この問いは、一見個人的な、パーソナルな問いのように感じるが、この問いは普遍的とまでは言わなくても、少なくともこの日本では、誰しもが考える一般認識されうる問いであると思う。それにはある、社会全体に流れている空気のようなものが関係しているという。
それは、

ある全体的な目的を達成してしまって、次の目的がまだ見つからないような時代に訪れてくる空虚感である。そして、近代化を果たして豊かな成熟社会を迎え、不況と停滞に陥っている今の日本は、まさにそういう気分に染まっている時代だと言える。(引用元:小浜逸郎著「なぜ人を殺してはいけないのか」)

 意味や目的を問わなければならない時代というのは、その社会全体の底流に、意味や目的が感じられない空虚感が漂っているということらしい。
例えば、そのような意味や目的など問うてられない、戦争の只中にある国や、社会的混乱の状況下にある国においては、「人は何のために生きているのか」などという、ある種現実を見ていない、緊迫感のない問いなど考えている暇はないように思える。
早急に取り組まなければならない、切迫した目に見える問題がない国ほど、意味や目的を問うような「人は何のために・・・」系の問いを考えてしまうのだろう。
意味や目的は、他の行動や表現に関連・従属しているもの
では二つ目の問題提起、「意味」とか「目的」とか、「〜のために」とかいう意識は、本来どういう生活場面で必要なものとして呼び出されるのか、の方に進もう。
筆者はまず、逆に、「無意味」や「無目的」はどのような場面で意識するのかという、「逆に」の理論で展開し始める。それは、僕達は日常生活において、いちいち意味や目的を意識せず、それを自明のことのように行っているので、かえって、「無意味」や「無目的」の方が意識されやすいということなのだ。
筆者はある例を挙げ説明する。
私たちは、たとえば、魚の住むはずのないドブ川に釣糸をずっと垂れて、魚が引っ掛かるのを待ち続けている人を見かけたら、そんなことは無意味だからやめなさいと言ってやりたくなるだろう。また、ある人と喫茶店で待ち合わせしていたのに、その人から急用ができて行けなくなったと連絡が入ったら、自分がそこにいる目的は失われ、これ以上待つことは意味がないと知らされる。(引用元:小浜逸郎著「なぜ人を殺してはいけないのか」)
 以上のことから、「無意味」や「無目的」は、その行動(例で言えば、ドブ川に釣糸を垂らして待つ)が、他の行動(魚が引っ掛かること)との関連性を失われ、その行動(ドブ川に釣糸を垂らす)だけとして浮き上がった時に、意識される観念であるということが分かる。そして、筆者はこのようにも述べる。
ある行動や表現が意味や目的を持つとは、さしあたり、それらが他の行動や表現に従属するような関連を維持しているという以上のことは意味していない(引用元:小浜逸郎著「なぜ人を殺してはいけないのか」)

 そしてその行動や表現は、さらにまた別の行動や表現に関連(または従属)していて、そしてそれらは詰まるところ、自分自身の人生全体の充足に帰着する、とも筆者は述べている。この、意味や目的は他の行動や表現に関連(従属)しているのを維持している以上のことを意味していない。というのは、この先の説明にも大きく関連してくるし、この一文が今回の肝のような気がする。

意味や目的は、短時間・短距離の範囲で意識されやすい

そしてさらに、意味や目的が感じられるか感じられないかは、比較的短時間・短距離の行動・表現の場合ほど、意識されやすいという。
例えば、バスに乗り遅れまいと走っている自分の傍らを目的のバスが追い抜いていった瞬間に、直ちに意味や目的は失われる。この時、ハッキリとした意味や目的を感じていたはずである。このことは短時間・短距離の範囲で行われたことである。
それに対し、大学受験が目的の場合。例えば高校1年生の時点から受験勉強を始めたら、本番は2年先のことであるために、中々目的意識を持って勉強に励むということが困難になるのではないだろうか。そして、なぜこの大学に入るのか?なんのために入るのか?などという疑問が浮上してきてしまい、本来の目的意識が薄れて頼りないものとなってしまう。
このことから筆者は、元々意味や目的の意識というものは、すぐ目先の、眼前にあるものを遂行していく仮定で現れてくるものなのではないかと推測する。
それはつまり、サルが木の上のリンゴを取ろうとして行動することに意味をもたせることと同義だということである。

行動・表現の外に出て対象化させる

さらに意味や目的の観念は、自分が今している行動と、その目的の終局点との間の距離を何らかの形で意識せざるをえない場合に発生する。例えばバスに乗り遅れまいと走っている途中に、疲れてしまってふと足を止めた時、「なんのために今走っているのか」という問いが発生する。
または晴れて目的が達成された場合、「なんのために走ったか」が意識され、その問いが満たされたことを実感するだろう。
このことは、何かによって一旦、その行動や表現の外側に出て(上の例で言えば、疲れて足を止めた時や、目的を達成した時)、その行動や表現と、目的の終局点とを対象化し、他の行動や表現に結び付けることによって意識される、ということだ。 

人生に意味や目的などない

そして筆者は、人間は自己意識を極端に発達させた動物であるという。本来、意味・目的の意識は、眼前にあるものを遂行する、いわゆる短時間・短距離的な場合にのみ発生することが生物的に相応しかったのに対し、進化した人間は、自分の行動の意識を積み重ねていき、意識に対する意識というように意識を高次化させ、意識それ自体を、独立して心の対象に使用してしまうという能力を獲得してしまった。
これが厄介なのは、ありとあらゆる観念に対して、関連性など無視していきなりその対象物に意味や目的を問うことができてしまう。
そしてそこに「人生全体」という観念が登場する。
進化した人間は、意味や目的の観念でそれを捉えようとする。
だが無理な話である。
「人生全体」は僕達の最終目的といってもよい。全ての対象がそこに帰結するといってもよい。
今回書いてきたように、意味や目的の観念は、別のなにかとの関連・従属させることによってのみ意識される
果たして、「人生全体」は、別のなにと関連し、なにに従属しているのか。またそれを意識するにはその行動・表現の外に出なければならない。果たして「人生全体」から出るというのはどういうことなのか。僕らにはイメージできないだろう。
このことから、もともと「人生」というものに、意味や目的の観念をぶつけることは不可能なのであり、意味や目的を問うこと自体、論理的に不可能なのだ
よって、人生に意味や目的などはない、という結論に至る。
このことは論理的には絶対に否定できない、と筆者も述べている。

終わりに

だが、本書の第1章はこれだけでは終わっていない。まだ続きがある。というのは、これで終わると、虚無感極まりないからである。
そこで、「人は何のために生きるのか」という問い方にしてしまうと、論理的には答えを出すことはできないため、新たに別の問い方で生への希望となる答えを導き出そうとする。
それは、「人はいかにすれば自分の生を充足させうる意味や目的を作り出すことができるか」
そしてさらに新たに、「人の生きる意欲を支える一般的な原理はあるのか。あるとすればそれは何か」と続く。
これに対しての回答は第1章では避けられていて、徐々に本書を読み進むにつれ、その輪郭が明瞭となることを期して第1章の幕は閉じられている。
僕は、生きる意欲を支える原理がなにかよりも、「人生に意味を問うことができない」、ということが論理上とは言え、分かったことだけでもかなり救われた気持ちになる。
というのは、「人生になんの意味があるのだ?」、と問うことをしてしまうと、本来やるべきことが横に置かれ、その漠たる問いに時間をかけて悩んでしまい、モヤモヤし、なにか鬱屈とした気持ちに囚われてしまうからだ。
人生に意味などない。スパッと割り切れた方が、僕は前に進める。

最後までお読みいただきありがとうございました。感謝いたします。
てへぺろ

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