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「黄昏れる」ということ-儚さと時間について-

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「黄昏れる」

この言葉を聞いた時、僕もそうだが、「もの思いに耽る」、「感傷に浸る」のようなイメージを持ったり、または使用してはいないだろうか。
この言葉の本来の意味は、

1.日が暮れて薄暗くなる 「空が黄昏れる」

2.盛りを過ぎて衰える  「黄昏れて生気のない人」

 (goo国語辞書より)

 であり、語源となると、

日が暮れて薄暗くなると、他人の顔が見えにくくなることから、「誰だあれは」という意味で、「誰そ彼(たそかれ)」となり、江戸時代以降に、「たそがれ」、と言うようになった、

ということらしいです。(ネットで検索すれば結構出てきます)

そして、「黄昏」を動詞化させたのが「黄昏れる」であり、本来の意味と、現在イメージされる「黄昏れる」の使用方法が異なることになり、誤用ということになりそうだが、僕は、「夕暮れ時」、つまり「黄昏れ時」はどこか儚く、センチメンタルな気分にさせられるイメージをほとんどの人が持っていると思うので、現在の「黄昏れる」の、「もの思いに耽る」、「感傷に浸る」というイメージに変化していっても全く健全だし、むしろその方が時代背景を写していて面白いのではないかと思う。(少し話が逸れるが、若者言葉というのは、聞き苦しいものもあるけれど、クリエイティブな面から見ると、とても面白いものもあると思うので、僕はわりと肯定的だ)
だから僕は、以後、「黄昏れる」という言葉を「もの思いに耽る」や「感傷に浸る」といったニュアンスで使用する。

語句の意味はこれくらいにして、僕はしばしば、黄昏れる。時間があれば、わざわざ黄昏れに出かけに行くことだってある。
黄昏れるのに場所は関係ない。だから自宅だって黄昏れることは容易だ。だが、僕の場合、中よりは外、静よりは動の方が、黄昏れることをより捗らせてくれる。
例えば、自動販売機で缶コーヒーを買い、ポケットに片手を入れ、クビっと一口体内に流し込む。そして、少し翳りがある感じで顔を俯かせ、そして緩やかに歩く。
おまけに夕焼けなんかが広がっていたらパーフェクト。
これだとタダのイタいカッコつけ野郎な気がしないでもないが、ご安心を。ちゃんと頭は思索に耽っている。
僕は結構歩きながらの思索が好きだし、何故好きなのかといえば、思索が捗るからだ。
まあつまり、ただのカッコつけではなく、ちゃんと「黄昏れる」行為をやっている。
待てよ、これだと、タダの「もの思いに耽る」と変わらないのではないか。
いや、「黄昏れる」行為は、「もの思いに耽る」行為にはない、感傷的な気持ち、センチメンタルな気分を含む。そしてそこには独特な心地良さがある。
いわゆるセンチメンタル的心地良さが、「黄昏れる」行為にはある。
つまり、「黄昏れる」行為には自己陶酔の気がある。
最初の内は、夕焼けを見て、直観的に人生の儚さを思い、黄昏れる行為に入るのだが、次第になんだか儚く思っている自分自身が誇らしくなり、そこに漂う甘美なムードに肩まで浸かり始めたが最後、自己陶酔に突入である。
自分が黄昏れ好きだから分かるが、黄昏れている人は日常でしばしば見かける。
タバコ屋の脇に設置してある喫煙所で、夜へと移り変わる儀式のサンセットを、目を細めて感慨深げに眺めて、そしてゆっくりタバコを味わう。そんな行為をしている人は、ずばり黄昏れているだろう。
また、電車の中でも黄昏れ人は生息する。
ドアによりかかり、外を目を細めながら(どうやら目を細めることが象徴的行為らしい。視力は決して良い方ではないだろう)、物憂げに世界を眺めている。そんな奴がいたら、あーやっちゃってる、黄昏れちゃってると思ってよいだろう。
まあ、僕もそのように思われている可能性があるが、そんなのはどうだっていい。
そう、どうだっていい。今回僕が書きたいことは、実はここから始まる。

 黄昏れる時、なぜか「儚い」、という観念に憑りつかれる時がある。
「儚い」は時間の観念を喚起する。そして、「長い」と「短い」でいったら、「短い」となるだろう。
そしてもう一つ、「儚い」は「終わり」をイメージさせる。
僕達は日常で、幾つもの「終わり」を経験している。一日の終わり。何かの作業の終わり。夢の終わり。
そして終わった後、それを「過去」として振り返る。それを実際に行っている間は、確かな時間の感覚と共に体験できていたのに、その「過去」としてのそれは、一瞬で振り返られてしまう。
夢なんかいい例だ。夢の中ではすごい長い時間が経過していたように感じられたのに、目が覚めて、その夢を思い出そうとすると、ほんの一瞬の出来事になってしまうし、時間の経過とともに泡のように消えてしまう。
儚い。
そして僕達はその儚さを、人生に結び付けてしまうところがあるように思う。
人生は儚い。人生は短い。人生は一瞬。
僕達はよく、過去を振り返る。この「振り返る」ことをすることによって、全ては「過去」になる。そして過去の中では時間は一瞬に過ぎる。というか、過去の中では時間が流れているというよりは、映画のDVDなんかにある、チャプターリストのように、あるいはアニメーションのコマ割りのように、出来事が場面ごとに幾つも分かれているように感じられる。そしてそれを振り返る時には自分で編集してしまっていて、思い出したいところだけを再生するから、実際体験していた時間の感覚と比較すると、一瞬のように感じられるのかもしれない。
余談だが、よく、歳を重ねる毎に一年が早く感じられるということがあると思う。
これは、どうてしてもその性質上、その一年を、「振り返る」ことをして「過去」にしてしまわなければならない。
その一年は、「今まで生きてきた『過去』の中の一年」とされてしまう。つまり、分数でいうところの、その一年は分子であり、生きてきた年数が分母となる。

1歳=1/1 2歳=1/2 3歳=1/3 10歳=1/10 20歳=1/20 30歳=1/30・・・

当然、20歳=1/20と、30歳=1/30では、30歳=1/30の方が、分子の数が小さくなり、その一年の長さは短く感じられる、という理屈だ。
実はこれは、とあるラジオで、ふかわりょうが言っていた理論であり、当時聞いていた僕はなるほどなと納得させられてしまった。(あくまで理屈の域を出ないのだが)

閑話休題

 未来の出来事は、まだ見ることができない漠としたものなので、なんだか長いように感じられるが、過去の出来事は一瞬だ。
僕はこの感覚をよく、嫌な予定の前などに当てはめて、なんとか乗り切るようにしている。
どんなに嫌なことだって、その時はやってきてしまい、そして必ず一瞬の過去になる。
これは絶対だ。絶対「その時」は過去になる。
この絶対性は、僕を安心させてくれる。
そしてその過去は一瞬のものとなる。
そのことも僕を安心させてくれる。
と、同時に儚くもさせる。
ほらきた、人生の終わりと結び付けてしまった。
どうも人生の終わりが気になるようだ。
ただ、僕は今が絶対過去になり、未来が絶対過去になることを知っていて、それに安心感さえ抱いているのに、絶対にいつか来るであろう未来の「死」を、「儚さ」という淡い、自己陶酔の要因になる、または「黄昏れる」原料になるものに置き換えて、その事実を直視しないでいる。
力いっぱい、目を細めて、見えない振りをしているのかもしれない。

とりとめのない記事ですみませんでした。


てへぺろです。