ハイハイで散歩中

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傘、持って行かれるの巻、そして少し道徳の話

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2日前の朝、雨が降っていたので、コンビニで590円のビニール傘を買った。
今思えば、その際レジの対応をしてくれた、そのコンビニの店長にも見えなくもない50歳程度のオジサンは、実は未来を予測できてしまう特殊能力者エスパー・オジサンで、間もなく起こるイベントを予測していたからこそ、愛想が無く、とっつきにくいとしか形容できない店長(推測)失格な接客を僕に提供していたのかもしれない。
僕はそのコンビニを出て、100メートルも離れていない、すぐ近くのまた違うコンビニに、コーヒーを買うために立ち寄った。そして、コーヒーをセルフで作っている間、何気なく入り口脇にある傘立てを一瞥したところ、僕は思わず声をあげてしまった。
先程コンビニで買った僕の傘が無くなっているように見えたのだ。
僕は急いで出来上がったコーヒーを持って傘立てに駆け寄ったら案の定、傘が無くなっていた。
どうして無くなったとすぐ判断できたかといえば、僕は盗難防止のため、もしくは間違って持って行かれないため、傘立てに入れるのではなく、自動ドア近くの壁の僅かなヘリに立て掛けて目立つように置いて、他と差別化させていたのだ。
わざわざそのように考えて置いていたから、なおさら悔しかった。
相手が故意に盗んだのか、間違えて持って行ってしまったのかはもはや半永久的に迷宮入りだが、なんにせよ傘を消失した僕は、数分前、もしくは数秒前の僕の傘を持って行った誰かとは違って、次の一手によっては、例えば代わりに傘立てに置いてある傘を持っていくことをすれば、それは、「故意に盗む」ことになり、犯罪者になる。
僕は気付かない間に、犯罪者になるお膳立てをされている。
だが、僕はその手には乗らない。
確かに怒りの矛先を失い、虚無感に身を預けそうにもなるが、自分は、全てを寛容に受け入れる大人の男、それがまさに憧れのダンディズムに違いないと自分を納得させ、そして鼓舞し、僕は雨降る道を颯爽と駆けてゆくナイスGUYになることを、逆にお膳立てさせられているのではないか、と自分を納得させ、ポジティブに完結させることによってその場を乗り切ろうと考える。
しかも今回は僕がナイスGUYになろうと駆け出そうとしたその時、知り合いのオバサンが向こうから来るのが見え、僕はそのオバサンがこちらまで来るのを待って、オバサンが到着するなや否や傘を取られた一部始終を愚痴ることができた。
かくして、愚痴るという愚行でもって早くもナイスGUYを諦めた僕であったが、そのやりきれない思いを、僕の愚痴を寛容に受け入れてくれるそのオバサンのおかげで、軽減することができた。

ところで不思議に思うのだが、そのおばさんは助言として、
「傘にシルシをつけときゃなきゃ駄目だよ」、と教えてくれた。
他の人にも、誰かに傘を持って行かれた話をすると、「名前を書いとけ」だとか、「置き傘にすれば」など、いわゆる盗難対策の答えが返ってくる。
恐らく僕も、友人などに、誰かに傘を持って行かれた話をされたら、持っていかれないように自分はこういう対策をしている、というようなアドバイスを返すことだろう。
それはつまり、取られたのは当人の過失として、話しが進んでいるということだ。
だが、傘を持っていかれた段階の当事(被害)者の僕は、まず、持って行った加害者を考え、そして非難しようとする。
どうしてこんなことするのだろう、
良心はあるのだろうか、と。
だが第3者は、ほとんど盗んだ犯罪者を非難しない(僕の経験上)。
持って行かれてしまった当人の過失として処理する。
この当事者と第3者のギャップはなんなのだろう。
恐らく、当事(被害)者には、加害者が物理的でなくとも、当事者の頭の中に確実に存在していて、はっきり見えている。
だから、目に見えている加害者を非難しやすい。
だが、第3者は、加害者が見えていない。薄っすら見えたとしても、それは当事者のお話の中なので、リアルに現れてこない。
第3者にとっては加害者は遠い存在、対岸の存在。
恐らく、人間は、自分と近しい出来事しかイメージすることができないのではないだろうか。
だから、僕がオバサンに、傘を持って行かれたエピソードを話しても、目の前に見えるのはその持って行かれた僕しかいなく、言及するとなれば、僕(当事者)の段階までが関の山となるのだろう。
これが、普段から義憤気味の人だったり、僕のエピソードに物凄くのめり込んでしまえる人の場合であったなら、持って行った加害者をありありとイメージでき、僕と同じように怒り、そしたら加害者に言及するということもあるのかもしれない。
だがほとんどの場合、他人の出来事は他人事なので、他人の出来事でそんなに熱くなる人はあまりいないだろう。

・少し道徳の話
あと一つ、僕は学生の時、他人の傘を盗んだり、また盗んでいる最中に持ち主に見られてイタイ目にあったりした。
だが、今の僕はそんなことはしない。
成長したということだろうか。
大人になったということだろうか。
いや、ただ、思考することを必要としない、抽象的な前提が増えただけ、または、より前提が強固になっただけのような気がする。

『他人のものを盗むのはいけないこと、なぜなら他人に迷惑をかけるから』

これは僕が物心付いた時には既に大前提となっていた道徳的規範というものだ。
だが、学生時代までの僕は、今よりその道徳の洗脳のかけられ具合が弱かったように思われる。
だから、他人の傘を盗めたのだ。
だが、先述したが、僕は学生時代、傘を盗む途中に持ち主に見つかりイタイ目に遭っている。
僕はその時、当然の報いだと思った。
このような犯罪が見つかれば罰を受ける
恐らくそのような経験が、僕の道徳観をより強固にしていったのではないだろうか。
罰が恐い
だから他人のものは盗まない。
『他人に迷惑をかけてはいけない』、よりもまず、罰が恐いというそのことが先に立つ。
だが、道徳的規範を立ち上がらせる際、その真理(罰が恐いということ)を決まって失念して思い浮かべており、つまり、『他人に迷惑をかけてはいけない(なぜなら罰が恐いから)』、の後のカッコ内を省略してしまって、そのままそのカッコが最初から無かったかのように、道徳的規範を立ち上がらせてしまっている(まるで、子供のころは見えていたお化けも、大人になってしまったら忘れてしまい、子供のころ実際に見ていたという、その記憶自体さえも、あたかも見ていないように改ざんしてしまうような、そんなセンチメンタルな映画のお話のような具合に)。
そしてその前提となった道徳的規範、または道徳観が僕に深く染み込んでいき、より強固な、自明の道徳となっていく。
かくして僕はそれを疑わなくなる。
そして日常生活を普通に送ってしまう。
これは、ある部分に鈍感になり、ある部分を疑わなくなり、ある部分に気づきにくくなっているということだ。
この意味で僕は、どんどんイノセントから退行している
だが、退行した方が、この社会は生きやすくなるのだが。

最後になるが、以前にも僕は雨の日の傘事情を記事にしている。

nocafein.hatenablog.com

読んでいただければ分かると思うが、僕はその記事を書いた時と変わらず、傘を持って行かれたら憤り、そして、いまだに置き傘を買っていない。
僕はその頃と比べて、全く成長していない。
そして気付かない間に、イノセントからの退行も、進行し続けているのかもしれない。

今回はこの辺で、てへぺろです。