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タイプというものは、ある個人を捉えることができない。個人は、ただ個人があるだけ

ある特定の個人を書こうと思って書き始めると、いつの間にか、一つのタイプを創り出していることに気がつくが、反対にあるタイプの人間像を描き出そうとすると、できあがったものは、無というか空というか、何一つ創り出されていないことに気がつく。(省略)

タイプなどというものはないのである。複数は存在しないのだ。いまここに一人、金持の青年がいるのだが、これからお話しするのは彼個人のことであって、彼の同類の話ではない。

(「金持の御曹子」フィッツジェラルド/野崎孝訳)

  僕は自分の友達のことを、その友達のことを全く知らない他の誰かに説明する時、どうもうまく伝えることができていないなー、という、隔靴掻痒的な、そのようなもどかしさを度々感じることがある。
例えば、僕の友達がこの前こういうことをして、こういうことを言って、カクカクシカジカだったんですよー。と、誰かに話したとする。
すると相手は、
「つまりその友達は、協調性がないってことだね」
と、返してくる。
僕はそれに対して素直に首肯できない。
うーん、協調性がないこともないんだけれど、うーん、そういうことでもないんですよねー。
と、なる。
完全に的外れなことを言われてるわけではないし、もしかすると、まさにその通りのことを言われているのかもしれない。
それにも関わらず、何故僕はそのような煮えきらない反応をしてしまうのか。
その時僕の中で一体なにが起こっているのか。
今回はそのことを考えてみたいと思う。

恐らく、僕が持つ友達像と、相手がイメージした僕の友達像との間に、どうしても齟齬が生じているように感じられてしまう、というそこに原因があると思う。
そしてそれは、観念と言葉の齟齬、とも表現できる。
僕の中にある友達のイメージ像、それを観念と呼ぶ。その観念を言葉で捉えようとする。例えば「協調性がない」という言葉で。
しかし、その「協調性がない」という言葉では、友達の観念を取り零しているように感じられる。
じゃあさらに他の言葉を足していって、その取り零しを補おうする。
「協調性がない」➕「だけど優しい」➕「そして淋しがり屋」という風に。
だが、まだ取り零しがあるように感じられる。
その観念にピッタリ合うように縁取られた色々な型(言葉)でどんなに押さえこんでも、数秒後にはその型からハミ出してくるように思われる。
恐らくこれは、言葉の性質の問題であるように思う。
ある言葉は、独立したものとして、あるタイプ(型)を形成してしまう。「これだ」、という風にはっきりと決定づかせてしまう。例えば、

「協調性がない」類の人。

「優しい」類の人。

「淋しがり屋」類の人。

という風に分類させてしまう。
とりわけ人間を、もっと言えばある特定の個人を、そのようなタイプで断定することは不可能のように思われる。
つまり、言葉で断定する、ということが問題なのである。

「僕は淋しがり屋である」

うーん、なんかしっくりこない。そこまで僕は淋しがり屋ではないような気がする。ではこれではどうか。

「ある部分では淋しがり屋である」

うーん、部分的に淋しがるのであればそれは淋しがり屋と言えないのではないか。

という風に、断定するとしっくりこない。
だから断定せずに、端的な事実を述べるに止めておくというのはどうだろう。

・僕はこういう時、淋しくなる。

・僕は、普段は1人で平気なのだが、急に人恋しくなる時がある。

という風に。

これ以上は述べない。これ以上は説明しない。ここからあるなにかを導くことをしない。
ここまでで止めておけば、自分の中、あるいは相手の中だけで勝手に処理させることができる。
だが、これを受けた相手が、ここから、
「あ、つまり〇〇な人なんだね」
と、なにかを導き出したり、タイプ化させたり、結論付けを行った途端、そこから齟齬が生じてしまう。

ただし人間は、物事を結論付たい、または断定したい生き物であるらしい。以前の記事にも書いたが、人間は曖昧なものが我慢ならない。自分の中で結論・断定して、自分を納得させたいのだ。

nocafein.hatenablog.com

とりわけ他人との会話なんかそうだ。相手の言っていることを理解して自分に取り入れる段には、その物事を結論・断定させてからでないと、それを飲み込むことができないのだ。

だから相手にある特定の人のことを理解してもらいたいのなら、記事も終盤になってやっと触れるが、冒頭で引用したフィッツジェラルドの小説のように、タイプで語るのではなく、物語の中でのその個人の言動を、ただただ端的に物語ることをして、その個人というものを受け手が、受け手自身の中でジワジワ浮きたたさせる段階で止まらせ、それ以上受け手には語らせないで受け手の中で処理してもらう、それを言語化させて外に出させないようにする。ということしか、やれることはないのではないかと思う。
まあ、僕は本気でそんなことを日常生活で実行しようとは勿論思ってないが、言葉というのは、ある局面では、そのような厄介事を招くツールだということを頭の片隅に置いておくのもいいのではないかということです。

そして、僕が本記事で一番示したかったことは、本当はタイプというものはなく、個があるのみだということだ。
個々には個々の人生がある。だから、他人の人生なんていちいち気にしなくていい。
人生一度きりなのだし、やりたいこをやればいいのだ。
あと、性格診断テストみたいなのがあるけど、あんなのに、捉えられてたまるか、って感じだ。
最後に急にカッコつけて熱くなった自分に少々引きつつも、でもそういうお茶目なところがまたなんというか、その、、、てへぺろって感じです。
今回はこのへんで。ありがとうございました。