読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

必死さは、ウサギをも生み出す-イノセンスな話-

f:id:nocafein:20170413013121j:plain

 

「今朝、いつものようにトイレで大便をしたら、大便の代わりに、ウサギが出た」

上の文章を読んでピンときた方もいるかもしれないが、これは、漫画家・古谷実の短編作品「僕の健康」の冒頭の場面である(ディテールは多少異なるが)。

僕がこれを読んだのは高校生くらいだったと思うが、最初読んだ時、とんでもねえセンスしてやがるな、と思った。この人のユーモアのセンスが世界で一番面白いのではないかとまで思ったくらいだ。

ただ、ある側面ではいささか純粋過ぎた当時の僕は、それを読んでから数日間、大便をしたあと、通常ならしない、トイレットペーパーで役目を終えたばかりの桃の割れ目を拭く前に、念のために便器の中を確認するという不毛な作業を1つ増やしていた。

もしかしたら、僕に限っては10回に1回くらいはウサギが出るんじゃないか。
もしかしたら、僕に限っては20回に1回くらいは亀が同時に3匹くらいは楽々出るんではないか。
もしかしたら、僕に限っては50回に1回くらいは少し恥ずかしそうにしている中年サラリーマンの小人オジサンが出て、「なに見てんだよ。新米が。さっさと営業にいってこい」と一瞬にして部下と上司という関係性を作り、「は、はい。すみません。営業いってきます」などと、即興コントをやるハメになるのではないか。

僕に限っては。

別に、自分が他の人間と比べて特別優秀などとは思っていない。
そうではなく、僕は少し自分に自信が持てないでいるところがあり、小学生の頃なんて、もしかしたら自分は人間ではなく、別の生き物なのではないかと本気で不安になっていたほどだった。

www.teheperow.com

 さすがに高校生になってまで自分は人間じゃないなどとは思わなくなったが、でももしかしたら、僕に限っては、大便以外のなにかが出てしまうこともあるのではないか、と、一瞬疑ってしまうそんな無垢な精神を、高校生の時分にはまだ持ち合わせていたように思う。

だってなにが起こるか分からないから、この世界。

www.teheperow.com

だがしかし、今の僕は、もう、もしかしたら大便の代わりにウサギがいるかもしれないから一応確認しておくか、一応ね。などと不毛な作業はしない。それを不毛と言えてしまう。

僕はいくらか大人になってしまったようだ。
いつの間にか、気づかない間に、今まで自明でなかったことを、どんどん自明にしてしまっている。
その中には、きっと、自明になる前の「なにか」もあっただろうに、それはもう思い出せない。
それが大人になる、ということなのだろうか。

 

少しだけ話を変えるが、この前、コンビニに行ったら、その店内のある一角で、小学校低学年くらいの女の子が、一生懸命にピコ太郎の「PPAP」を踊っていた。

「アイ、ハブ、ア、ペン!アイ、ハブ、ア、アッポウ!ウン!アッポーーペン!!」

必死だった。
彼女は周りの目など気にせず、自分の納得いく「PPAP」を、誰かに届けるために必死で披露していた。

彼女が届けたい誰かは、レジで買い物を済ませている最中の母親だった。

「アイ、ハブ、ア、ペン!お母さーん!アイ、ハブ、ア、お母さーん!」

お母さんを持ってどうするのか気になってしまうところだが、彼女はレジにいる母親に届けたくてとにかく必死だった。

だが、彼女なりのルールでもあるのか、母親がいるレジから、彼女のいる場所は、店の端と、その反対側の端ほどに離れており、彼女は決してその場から動こうとはしなかった。その両者の間には、流れの速い大きな川でも横たわっているのかと思わせるほど、彼女は必死で叫んでいた。

彼女が、「アイ、ハブ、ア、ペン!お母さーん!」と叫ぶ度に、母親は、「ハーイ!こっちきて!帰るよ!」と返していたのだが、彼女は聞く耳持たず、「PPAP」を披露し続ける。

勿論僕はその現場を見て笑いを堪えていたし、とても微笑ましいとも思い、顔が少しにやけてもいた(当然だよね)。

その後、母親が買い物を済ませ終え、帰る段になると、「〇〇ー!帰るからこっちきなさい!」と呼んだら、彼女も自分の演技に満足いったのか、「お母さーん」と言って母親の元へ駆けていった。

そして帰る際に、「『PPAP』見ててくれた?」と聞いていて、母親も、「見てたわよ」と言い、顔を少しほころばせていた。

 

なぜ僕がこの話を突然挿入したのかと言えば、それは、子供だから許されるが、大人だと許されない行為があることを説明したかったのだ。

あの「PPAP」劇場は、小学生の女の子の彼女がやっていたから、微笑ましく見ていられたのだと思う。

これがOL女性や、女子高校生がやっていたとしたら、状況は一変していたのだろうと思う。

しかし、僕は思う。なぜあの小学生の女の子は許容できた、いやむしろ微笑ましく幸せな時間を提供してくれたように感じたのか。

それは、彼女が必死でやっていたということではないだろうか。その「必死」という言葉の中には「純真無垢」という言葉も含まれている。
その必死さに、僕らがかつてそうであっただろう、忘れてしまった自分の「なにか」を彼女に見ていたのではないだろうか。

その「なにか」を忘れてしまったOLや女子高校生がいざ「PPAP」をやると、人の目を気にし、羞恥心にかられ、元々は自明でなかった自明に「常識」という名を冠して身動きが取れなくなり、もうあの小学生の女の子のように必死では踊れなくなる。

だから、もしそのように必死で踊ることができるOLや女子高校生であったなら、僕らはそれを微笑ましく見れるのかもしれない。

だがそれは見る方も見る方で、「OL・女子高生がやっては非常識」という観念が強いと、その「必死さの観念」を覆いつくして、結局通常通りの常識人的振る舞いをしてしまうので、それはそれで難しい。

イノセンスは、「必死さ」に現れるのかもしれない。

そのような意味で、今の僕は、高校生の頃、大便の代わりにウサギを出していないか確認していたあの頃と比べて、ある側面では、「必死さ」を、そこに置いてきてしまったのかもしれない。

本当はいたのかもしれない、ウサギごと、イノセンスを流してしまったのかもしれない。

ウサギを流すだなんて、なんか少し悲しい話になってしまいました。

そんなことないか。

てへぺろです。