ハイハイで散歩中

面白いと思ったものをただただ紹介したり、またはただの雑記に成り果てそうです。

ハイハイで散歩中

子供たちとの戯れ-愛は継承、輪廻する-

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僕は縄跳びが得意だ。故に、縄跳びが好きだ。

何を出し抜けに冒頭からアピールしてくれてるんだこの縄跳び野郎、と思われた方もいるかもしれないが、思い付いてしまったのだからしょうがない。この文句を取っ掛かりにして話を展開していくのが最適だと思ってしまったのだ。

これが道行く見知らぬ人にヌッと近寄って行き、素知らぬふりをして暫く隣を、「な、何ですか」と話しかけられるまで歩き続けたなら、

僕は縄跳びが好きだ」と、告白する。

そうすると相手は、「は?まず誰だお前、なんの告白だし、きもー。っていうか縄跳び好きなら既に縄跳びしてろバカ」

となるだろうし、それじゃあ縄跳びしながら、

「あのー!僕縄跳び好きなんですけどー!」

と、走り縄跳びして駆け寄っていったなら、「この縄跳び野郎!」と言われ警察にお縄をかけられる羽目になるだろう。

だが、これがブログ記事の冒頭であったなら、そして、特定の個人ではなく、不特定多数(いや少数か)に向けられた告白ならば、読みたい人は読むだろうし、読みたくない人は読まないので、この記事の告白は問題ないと思う。(いや、そもそも誰もケチつけてねーし、マッチポンプやってんじゃねーって感じだし、前置きなげーよ、なに文字数かせごうとしてんだ、小学生の作文かよ、という声が聞こえてきそうなので良き所で、てへぺろです)

実際、小学生の頃なんか二重跳びや三重跳び、ハヤブサや二重ハヤブサ、そして三重ハヤブサ(はできたかどうか怪しいものだが)、僕はびゅびゅびゅんっ、と縄を回し、びょーーーんと跳びまくっていた。

体育の授業で、課題をクリアしていくと合格印のマルが貰えて次のレベルに進める「縄跳びカード」というものがあって、僕は、学年で2人くらいしか辿り着いていなかったレベルの「縄王カード」という課題をびゅんびゅん跳んでいた。

まあ縄跳びの自慢なんかしていても(しかも小学生の時の)虚しいだけなので、そろそろ本題に入る。

僕の仕事場の近所に小学生の姉弟が住んでいる(多分姉が6年生で弟が3年生)。

その姉弟が縄跳びで遊んでいることがある。僕は最初はそれを心の中で、いーなー。と思っているだけでなにもアクションを起こさなったのだが、だんだん目にする回数が増えてくると、自分の足がムズムズしているのに気づき始め、このままだと日常に支障をきたすのではないかと思われるほど、僕は俗にいう、「びょんびょん病」にかかっていた。(もちろん、そんな病気はないよ。でもなんでも病名付けれる昨今だからね。もしかしたらあるかもしれないね)

靴を履く際、わざとバランスを崩して前屈みになり、そのまま片足でケンケンしていって、そのケンケンがびょんびょんに推移していき、「オレ、子供の時よくキョンシ―ごっこやってたっけ。ナツカシ―なー、ナツオさんだこりゃ」と思って少しセンチメンタルな気分になったり。

駅の階段を1段跳ばしで駆け上がっていって、そのまま上りきっても惰性でびょんびょん跳び跳ねてそのまま宇宙まで駆け上がるをみたり。

金城一紀の小説「GO」の、主人公・杉原の親父が、外でのトレーニング中に、雨の中、芝生区域に入って鯉の滝登りのようにピョンピョンと飛び跳ねる描写をふいに思い出してしまったり(映画版「GO」の窪塚洋介はカッコ良かったし、柴咲コウは、すこぶる可愛かった)。

とにかくそのくらい、僕は縄跳びが跳びたい体になっていた。

そして、とうとう僕はその小学生の姉弟に、「頼む、少しだけでいいから跳ばしてくれ」と言って、水を得た魚、鯉の滝登りのように、ぴょんぴょん、では飽き足らず、びょびょびょーん!!と跳びまくって、暫くの間、縄跳びを離さなかった。

ただ、子供たちは跳んでいる僕を見て、目を瞠るように、そして輝かせて(僕にはそう見えた)、「すげー!」「すごーい!」と、きゃっきゃしていて、僕は少し、恥ずかしくもあり、自慢気でもあった。

かくして、僕はその姉弟に無駄に絡むようになった。

姉弟がドッチボール用のボールで遊んでいたら、「ちょっと貸して」と言って、パスされたボールをキャッチするやいなや、弟君にめがけてボールをぶつけたり(もちろん軽くです)。

姉弟がサッカーボールで遊んでいたら、「ちょっと貸して」と言って、僕の数少ないドリブルテクニックを自慢気に披露してから、そしてボールを持って、弟君にぶつけたり(もちろん手加減してます)

やはり姉弟が縄跳びをしていたら、「ちょっと貸して」と言って、隠し持っていたボールを弟君にぶつけたり(大丈夫いじめてません)。

その姉弟は、僕がそのようなアプローチをすると、毎回新鮮に目をキラキラさせて、本当に嬉しそうに、きゃっきゃ言いながら、僕に戯れてくる。

僕がボールをぶつけようものなら、姉弟で協力して僕にボールを当ててくるし。

僕が縄跳びをぶん取って、隠し持っていたボールをぶつけても、きゃっきゃ言いながら僕を返り討ちにするし(僕はちゃんと、1回はやられてあげる)。

つい先日なんて、お姉ちゃんの方が、すごく楽しそうに「びょ~ん」と言って、スライム状のものを伸ばして僕に見せびらかしてきて、僕が「自分で作ったの?」と聞いたら、「そう。洗濯ノリをコネコネして・・・」と言いながらスライムをちぎってどんどん僕にぶつけてきてキャッキャ言っていたり、とにかく最近は向こうから僕に攻撃を仕掛けてくるようになってきている。

ただ、彼(彼女)らは、僕がなんらかのリアクションをすると、本当に楽しそうに、嬉しそうにキャッキャする。

僕はこの子達を見て、なんて素直に、僕と接してくれているんだろうと思い、そりゃあ僕も嬉しくもある。

と、同時に、僕がこの子達の歳の頃、このように素直に大人と絡むことができていただろうか、という思いに駆られる。

僕は子供のころはシャイボーイで、やや人見知りの気があったので(今はあまりそうならないように気をつけてはいる)、大人からしてみれば、とっつきにくい子供だったのではないかと思うし、僕は結構、そのような大人の反応を見て態度を決めていたことがあったので、なかなかお互いにやりづらかっただろうなと思う(実際、僕は小学生時代は神経が摩耗し過ぎていた感があり、あまり良い時期だったとはいえない)。

ただ、子供の頃僕が大人たちの顔色を見て態度を決めていたように、大人達の方だって、子供の顔色を見て態度を決めているということがあったと思う。

僕がとっつきにくい態度を取っていたから、大人達は僕をとっつきにくい子として扱ったのかもしれないし、それは逆もまた然りである。

それは大人と子供の関係性だけに収まらない。

家族、友人、恋人、ありとあらゆる人間関係に適応する。

人間は、なんだかよく分からないものに対しては不信感を抱く。

ハッキリと、分かりやすいものが好まれたりする(正直僕はこの風潮はそんなに好きではないのだが)。

仏頂面や、無表情だと、何を考えているか分からないと判断され、それに対面する人は、その対面者の情報があまりにも乏しいためどう接していいかが分からなくなる。

だからなるべく情報開示(心を開いたり、感情を出したり、話題を提供したり、挨拶するだけもいい)することにより、相手との距離を縮めることを可能にする。

しかし、別に無理して、誰にでもそのような態度をとる必要はないと思う。この世界合う人、合わない人なんてゴマンといるだろう。

だから、距離を縮めたい人にそれをやればいいと思う。

そして、そのように思う人に出会ったなら、なるべくこちらから開示してあげる。

待っているのでななく、こちらから行く。

愛されたいのであれば、まず愛そう。これは、id:plagmaticjamさんの記事(良い記事でした)から共鳴し、学びました。

plagmaticjam.hatenablog.com

親が、子供に無償の愛を注ぐ。それを受けた子供は愛されている実感を持つ。そして子供は親を愛するようになる。

愛は返ってくる。

本当にその人に愛を持って、「愛する」のであれば、必ずその人に無償の愛として愛は届く。そして愛を受けた人は、それに応えるように、その人を愛す。僕はそう信じている。

すこぶる気持ち悪い展開になってしまった。まだGW気分が抜けていないようだ(まあそんなに僕はGWを味わうことはなかったのだが。少しはあったけど)。

最後に、僕が子供時代に、僕が素直に心を開示できる大人は果たしていたのかと思い出してみたのだけど、やはり何人かいた。

その人たちは、僕を決して子供扱いせず、対等に接してくれた(ように僕には感じた)。

子供の時、そのようにされたことが心根に染み込んでいて、年月を経た僕は、同じように、近所の姉弟に接しようとしているのかもしれない。

愛は継承されていくし、輪廻するのかもしれない。

最後まで気持ちわるいですね。マジでごめんなさい。

てへぺろです。