ハイハイで散歩中

面白いと思ったものをただただ紹介したり、またはただの雑記に成り果てそうです。

ハイハイで散歩中

先入観は遠いものほど生まれやすい。概念的観念や、観念的観念というよく分からない言葉を使って考える

先入観は、自分とその対象の距離が遠いものほど生まれやすい。
これは前提条件と言ってもいいと思う。
そして、距離を縮めていけば、つまり、その対象の情報などを知ることを始めれば、先入観は、崩れていく。
崩れていく代わりに、その対象の、「観念」が生まれる。
観念が、概念(先入観)を侵食し始める。(※概念=先入観としているのは、この場において、概念が観念より上位のものとして捉えているからである)

ここで少しカッコつけてみる。
仮に、先入観を、「概念的観念」と呼ぶ。(「固定概念」でもよさそうなものだが、僕はあまりしっくりこない)
そして、距離を縮めた対象から生まれたものを、「観念的観念」と呼ぶ。
もう少し具体的に言えば、最初の段階が、「概念的観念」で、距離を縮めればそれは、「観念的観念」になり、それを継続させればそれは、「固定観念化」する。(※この「固定観念化」は、「概念的観念」の場合でも、それをそのまま継続させれば当然のことながら「固定観念化」することになる)

①「概念的観念」
    ↓(情報などを知って距離を縮める)
②「観念的観念」
    ↓(そのまま継続)
③「固定観念化」

という流れだ。

例を出して考えてみる。
自分があまり興味のない女性タレントがお尻にタイキックを食らったというネットニュースを見かけたとする。
そのニュースに対する大方のコメントが、「可哀そう」、「やり過ぎだ」、などというネガティブなものであるとする。

ここで、先述した言葉を当てはめてみる。
あまり興味のないタレントということは、自分との距離が遠いことになるので、この段階では、「概念的観念」ということになる。
この「概念的観念」の段階の場合、このニュースに対する自分の反応はきっと、「確かに可哀そうだ、確かにやり過ぎてる」と、なると思う。

今度は、その女性タレントのことを長年気にして追っていて、ある程度の情報(例えば、「彼女はバラエティが好きだ」、など)を知っていた場合、その女性タレントと自分の距離は縮まっていることになり、その段階においては、「観念的観念」ということになる。
その「観念的観念」の段階の場合、そのニュースに対する自分の反応はきっと、「いや、彼女は元々バラエティ好きなんだし、お尻蹴られたことによってオイシクなってるから、彼女的には有難い結果になっているんじゃないのか」、となると思う。

以上のことから、「概念的観念」より、「観念的観念」の段階の方が、より重要で、より、なにやら真理に近づけているような気がする。

ところが、である。

自分事なのだが、最近になって、わりと自分と近しい人物だと思っていた人達に対する印象が、なんらかのきっかけで、ここにきて変わってしまった、ということがあった。
段階的に説明すると、まず、ある他人に対して、「あいつはこういう時、こういう行動に出るよな」、というような、数年、いや数十年と関わってきて構築された、経験に基づくパターンが自分の中にはある。
つまり、他人を自分なりにタイプ化させている。
そして、僕は結構そのタイプ化させたものを信望している。何故かといえば、他者を予測したり推測したりするうえで、信望するに値する結果を出してきたからだし、他者となんらか関係を持とうとする時には、そのタイプ化させたものに依拠せざるをえないとも思うからだ。
今まではそれでよかったのだが、ここ最近になって、それが崩壊しつつある。
それが上記で述べた話で、最近になって長年関わっている何人かの、ある出来事に対する反応が、自分の予測の範疇を超えた予想外のものとして表れてくることが度々あった、ということなのだ。
今まで、その人物達とは、最初の出会ったばかりの段階、「概念的観念」から、徐々に距離を縮めていった段階、「観念的観念」、そしてそれをタイプ化、つまり「固定観念化」してきたつもりである。

なのに昔と比べて、明らかに知っていることが増えたのに、今の他者の方が、「分からない」。
と、書くのは大袈裟かもしれない。なぜなら、その人物について、今でも予想して、その予想通りだったことはたくさんあるからだ。
ただ、昔より、予想外のことが増えてきた、ということだ。ただ、一事が万事、一つの予想が外れただけでも、その疑念は全体にまで広がったりする。そういう意味で、「分からない」、と言いたくなってしまう。
ただ、もしかすると、返って、距離が縮まるとその分、分からないことも増えてくるのかもしれない。
その対象について「分からない」、というのは、「知らない」ことが出現した、とも言えるのかもしれない。
そりゃあ長年付き合っていたら、知らないことも出てきそうなものである。だってこの世界知らないことだらけだからだ。
そして、その知らないことが一旦現実に表れたなら、それは既成事実として認識される。
起こったことは、もうすでに起こったこと。
こう認識したなら人間は、元々あった、例えば固定観念とかに、なんとかうまいこと辻褄合わせをして、そして、これは「ありうる」、「起こりうる」など、自分を納得させてしまうのだろう。
僕自身も、古くから付き合いのある人物が「分からない」としながらも、「でも、確かによく考えれば、昔からその片鱗はあったような気がする」、など、新しく出現した事実の色に染めて、自分を納得させる作業を始めてしまった。

だがその一方で、やはり、「分からない」とも脳裏に浮かんでくる。固定観念やら、前提が崩されるイメージ。そしてまたそれを構築していき、また壊す。ループのイメージ。

「概念的観念」→「観念的観念」→「固定観念化」→「概念的観念」→「観念的観念」→「固定観念化」→「概念的観念」→「観念的観念」→「固定観念化」→・・・・・

結局ずーとその繰り返しなのではないかと。
もっと言えば、「概念的観念」というか、ずーっと、「先入観」のままなのではないかと。
他者とは、先入観でしか捉えられない。
自己と他者の間には、圧倒的な隔たり、断絶がある。
他者を捉えることは、その二人を挟む大海原の先の、対岸を見るようなもの。
先入観は、遠いものほど生まれやすい。
他者とは、どこまでいっても先入観。一生先入観。
自己とは、どこまでいっても主観。一生主観。

だが、「知らない」、「分からない」、だからこそ、「知りたくなる」、「考えたくなる」。
それが他者というもの。
こういう風に思うと、なんだか世界というのは、うまくできているなー。なんて思えてくる。
今回この記事を書くきっかけになったのは、ぜーた (id:zetakun)さんの、 

www.chishikiyoku.com

を以前に読んだのをたまたま思い出したからです。きっかけを与えてくれてありがとうございました。

結局毎回、「他者とは・・・」みたいなことを最後に書いて終わりになっている気もするが、そして、この記事を書いて、いったいなにが分かったのか、はたまた分からなかったのか、まだ時間がかかりそうな気もします。
すみません。終わりにします。ありがとうございました。