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「女性の太もも写真展」開催中止について思ったこと-恥じらいや、後ろめたさと共に-

先日、デパートで開催されるはずだった、「女性の太もも写真展」という催事が中止になったらしい。
中止理由は諸般の事情ということらしいが、ネット上などでは、開催を疑問視する声が上がっていたとのこと。
そして、中止が決定し、そのニュースがツイッター上に出現すると、その中止に対しての意見や、疑問の声を上げ中止に追い込んだ(と思われる)客に対する批判などで、なんだか盛り上がっているように見えた(僕はその時寝起きだったので、寝惚けていて大袈裟にそのように見えたのかもしれない)。
真意は分からないが、開催に批判的な意見に、「未成年を思わせる」や、「色々な人が出入りするデパートで開催するべきではない」などがあるらしい。
だが僕が探した限り、ツイッター上ではそのような批判は見当たらなかった。
まあ、それは当然といえば当然なのだが、僕が見た時には既に中止が決まった後で、その中止になったこと自体がニュースになっていたのだから。
だから、ツイッター上での意見は主に、開催を批判した人への批判がほとんどだった。
だから、その「批判に対する批判」のツイートの中でしか、開催に対する批判がどのようなものだったかを知ることはできなかった。
その中でも、上記でも書いた、「色々な人が出入りするデパートで開催するべきではない」は、僕的には納得できる。ただ、「未成年を思わせる」は、よく分からない。
また、この催事は「卑猥」だ、みたいな批判があったのか、「じゃあ女の子はいつも卑猥なものを曝け出して歩いていることになるのか」などの批判や、「女の子だけの太ももがまずいなら男の太ももも展示すればよかったのか」的なツイート、またフェミニズムに話を繋げだ批判などなど、まあ色々あった。

僕の考えでは、この問題をフェミニズムや、男女差別と絡めて語るのは、単なる問題のすり替えのように思う。この問題の本質はそんなことじゃないと思う。
だから、そういう批判は話をややこしくするだけなので、まともにぶつかっては駄目だと思う。正直その手の批判は無視していいとさえ思う。
だからツイッター上でそれ関係の批判をしているのは、空を掴みにいっているようで、正直不毛だと思ってしまった。
じゃあそんなお前はいったい何が本質だと思うんだ、と問いただされそうだが、それはあとで書くとして、その前に2点ほど書いておきたいことがある。
それは、上記でチラッと書いたのだが、問題をややこしくしてしまう原因として、「問題のすり替え」をやってしまっているのではないか、とういうことだ。
つまり、ある問題が出た時に、それを、「自分の(こだわっている)問題」、または「自分が答えたい問題」に無意識に置き換えてしまっているのではないかということ。
本来の問いを、自分の都合のよい問いに変えてしまい、これはフェミニズムの問題だ、だとか男女差別の問題なんだ、という風に勝手に解釈変更してしまう。
そしてさらにその解釈変更された問いを受けた人が、また自分の問題にすり替え、お門違いな返答をしてしまう。そしてまたその返答を受けた人が・・・、という風にどんどんボタンの掛け違いが起こってくる。だからいつの間にか当初の問題とだいぶズレたことを議論していることにもなりかねない。これは日常会話などでも頻繁に起こっている現象だと思う。
だから、問題設定(本質)を最初にしっかりやらなければならないと思う。また日常会話などにおいては、相手がなにを問題としているのか、相手の「こだわりの問題」とはなんなのか、というのを気にして聞いていると、会話の軋轢などは避けられるのではないかと思う(と言っても結構難しいけどね)。
とまあ、ツイッターを見ていてそんなことを思いました。
あと、問題設定の誤りを誘因するもう一つの原因としては、特にツイッターなどのSNS関連において、それを使用している目的は、なにかを発信するために利用しているのであり(まあ、情報をただ得るだけに利用している人もいるだろうが)、その空間においては、皆なにかを発信して承認されたい病気に侵されているわけで、自分が発信できそうなネタがあれば、たいして問題意識なんて持ってなくても、そして相手の問題意識など考えもせずに、自分なりの解釈で意見を書いてしまう、そこに、問題をずらしてしまう隙間があるのではないかと思う。まあ、僕もやっちゃうんだけどね。
以上のことが、色々問題をややこしくしてしまう原因だと思う。

 

では、僕が思うこの問題の本質とは、それは、「この催事の開催意義とは何なのか」、ということである。
つまり、「女性の太もも写真展」を、「公共的な芸術」として捉えるのか、それとも「フェティシズム的な芸術、もしくはエンタメ」と捉えるのか、ということだ。
「公共的な芸術」と捉えるならば、恐らく、女性の太ももは「神秘的」だとか、「無垢的」とか、そのような言葉が紡がれそうである(漠然的なイメージです)。
一方、「フェティシズム的な芸術、もしくはエンタメ」と捉えるならば、性的魅力、または性的欲望とは不可分な気もする。
一体、主催者、写真家はどのような立場だったのだろう。
もし、僕が考える、「公共的な芸術」の立場ならば、開催にクレームが寄せられたとしても、その信念を持ったまま開催を決行するべきだったと思う。
また、「フェティシズム的な芸術、またはエンタメ」の立場でも、そのクレームは逆に狙い通りだとして、やはり、開催を決行すべきだったと思う。(僕はかなり無責任に言っているので、やはり、そのまま押し切るというのは難しいのだろうか。というか、クレームが来るという状況は想定していなかったのか。そのあたりもよく分からない)

僕の立場はというと、もし開催するなら、「フェティシズム的なエンタメ」とするべきだと思う。
申し訳ないが、それを「芸術」とは思えない。立錐の余地などないくらい、「性的」なものと捉えてしまう傾向が僕にはある。ただ、内容によっては、「性的」なものであろうともそれを「芸術」と捉える向きもあるだろう。しかし、「女性の太もも」においては芸術と捉えることは今のところできそうにない。あまりにも性的魅力の方が優ってしまう。
そしてこのまま「女性の太もも」をフェティシズムの範疇として話を進めていくが、この催事は、公の場でやらない方がいいと思う。やるならもっと小規模、もっと言えば、このような催事にするのではなく、写真集などにして書籍化、そしてもし仮に僕が購入するとしたら、その入手手段は、誰の目にも止まらないようにネットで注文して家で一人きりの享受タイムである。
そもそも僕の考えでは、「フェティシズム」というのは、極めて個人的で、そして人に知られるのが恥ずかしく、後ろめたさもあり、そして背徳的なものであると思う。
だから、公の場で観賞するのではなく、写真集という個人的享受物、そして恥らいからのネット注文である。もしくは、ツイッターによくある「画像BOT」でそれを眺めながら一人の世界に没入だろう。(※例えばの話です)
そのような形式のほうが、「フェティシズム」に合っているのではないかと思う。
一体どうやって、デパートの中の催事で享受できるというのだ。
周りに客がいる中で、盗み見るのではなく、それ目的で訪れているのだから隠れようもなく、目の前にある、まごうことなき太もも写真と対峙しなければならない。どうしても見るとなると、どこか吹っ切って、堂々と観賞しなければならない。
ただ、堂々と観賞するようになってしまったらそれは「フェティシズム」ではない。
恥じらいながら盗み見たい。こっそり見たい。どこかの店の覗き部屋のように(行ったことないけど)。それこそが「フェティシズム」の醍醐味、魅力ではないだろうか。
とにかく、「フェティシズム」には「フェティシズム」の相応しい場所というものがあると思うのだ。
なんでもかんでも市民権を獲得しようとすればいいってもんじゃない。中には、恥じらいながら、後ろめたい気持ちを抱えながら、享受したいものもあるのだ。

まあ、以上で述べたことは、この催事を「フェティシズム」展と捉えた場合の話だ。
そして僕が述べてきたことは「(男の)僕」からの目線に過ぎない。これが女性であったらどのような目線で捉えるのだろう。性的なものは介入させず、芸術として捉えるのかもしれない。実際そのような例も恐らくは多いだろう。
仮に、今回の催事を「公共的な芸術」として開催しようと思っていたとしてみる。だとしたらもっと、「芸術」だということを明確に表すべきだったのではないだろうか。そして、そのように捉える客層に女性が多いのだとしたら、女性が入りやすい空間作りを徹底すべきだとも思う。ツイッターで見かけた意見に、入場を「女性限定」にしたらどうか、というのがあったが、それも一つの手段だと思う。そのことについて中々男性は差別だなんて意見は言えないだろう。
この催事を「芸術」としての正当性を持たせたいのなら、そして、それが公共的なデパートでやる意義なのだとしたら、徹底的に、戦略的にでも、誰もが文句を言えない空間を作りあげないといけないと思う。
だからそのようなことも踏まえて、今回のニュースで議論されるべき問題は、「この催事の意義、そしてデパートでやる意義とはなんなのか」ということと、「芸術(アート)やエロやフェティシズムを表現する相応しい場所はどこなのだろうか」ということのように感じた。倫理問題に結び付けるのではなくて。

僕の意見を最後にまとめておくと、
・「フェティシズム」が趣旨の開催目的なら公共的な場所でやるのは悲観的ということ。
芸術(アート)的な趣旨の開催ならば、徹底的にそのような空間づくりをすること(偏見を持って訪れる客までもそれをアートとして捉えてしまうような)。そしてよく分からないクレームに負けて(実際どのようなものが来ているかは分からないが)中止にしないこと。中止にすると、開催意義がよく分からないものになってしまう。
という感じです。

因みに僕は太ももフェチです。

すみません。終わりにします。ありがとうございました。