ハイハイで散歩中

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泥酔して記憶のない人物と、翌日酔いから醒めた人物は同一人物か

山口達也の一件を見ていて、直接内容とは関係のないことを思った。
それは、泥酔していて色々問題を起こした人物と、酔いが覚めて、泥酔していた時の記憶が失われた人物は、はたして同一人物と言えるのか。というものだ。
僕は以前に、同一性に関する記事を2つほど書いている。

www.teheperow.com

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その時の記事では、同一性は、記憶か、身体かのどちらかに依拠するところが大きくて、そして、僕はどちらかと言えば、記憶の方をより優先する、といった内容を書いた。
そして、さらに付け加えるなら、「連続性」が重要になってくると思う。
「記憶の連続」、「身体の連続」というふうに。

今回の例で言えば、泥酔している人物と、そのことを全く覚えていない人物は、その場にいた第3者から見れば、「同一人物とみなす」方が一般的な思考の持ち主のように思われる。
それは、第3者から見れば、性格の変化は見られても、「身体」は「連続」しているように見えるからだ。
別の言い方をすれば、第3者の「記憶の中の身体」が連続している、とも言えるだろう。

では、第3者ではなく、当事者から見たらどうだろう。
記憶を失くしてしまっているが、どうやら周りの人の話しを聞けば、自分はとんでもないことをしていたらしい。
この場合、手がかりとなるものが、他人の証言の、他人の記憶の「身体の連続」しかない。だから、対抗しようにも当事者にはその武器がない。
だから通常なら、他人が証言している人物と、当事者自身は、「恐らく」同一人物とみなすことになる。
また、仮にその当事者に常習性があり、他人に言われた時、その当時の記憶がなかったとしても、以前にもそのようなケースがあったことを思い出し、その経験をもとに、今回も自分がやったと認めざるをえなくなる可能性も考えられる。
以上の話しは当然といえば当然の帰結だと思う。

しかし、こう考えるのはどうだろう。
当事者の記憶の面から考えれば、その時の記憶が欠落している自分と、第3者の話しの中での「そいつ」は、連続性がないことになる。
よって、自分と「そいつ」は別人である、と。
先日のワイドナショーでの松本人志の発言も興味深かった。

 「『昨日ごめんね』とか『だいぶ酔ってて』とか、酔ってないお前に謝られてもね・・・」
「狼男が、月夜の晩に『絶対噛めへん』って言ったら信じられるけど・・・」

泥酔していた人物は別人。
別にこの考え方が正しいとかそういったことではなく、現実味を帯びてはいないと思うが、単純にこのような考え方もできるよね、といったものだ。
そして、この考え方は、やはり別人を作り出すお酒には注意しなければならないし、飲み過ぎは危険だし、危ないと分かっているのに手を出してしまうその人の精神的ケアを考えていかなければならないよね、となるだろう。

最後に余談だが、同じ電車内でも、朝の電車内の雰囲気と、夜の電車内の雰囲気が全く違ったり、電車内に限らず、街の雰囲気だって、日中と夜では、まるで前編・後編という二部構成のような変貌を遂げたりする。
もちろん、時間帯によってそれを構成する人間が異なっているというのもあるだろうが、その「異なっている」人間の中には、「身体」が異なっている人もいれば、「身体」は同一に見えるのに、「中身」がまるで異なっている人もいると思う。
そういう一日を通して中身が異なる人の同一性を見出すのはなかなか難しいのではないかと思う。
やはりお酒というのは人を変えるのだと思う。
まあ、それが面白い文化との捉え方もできると思うが、他方でやっぱり、げんなりもします。
もちろんお酒だけが人を変えるわけではないし、例えば、当事者自身は普通にしていても、他者からみれば、「あれ、なんか雰囲気変わったね」、「なんか性格変わったね」という「なんか」レベルでの変化は無数に他者は見出せる。
だが、お酒は安易に人を変える。「なんか」レベルまでならよいが、「極端」にまで変えることができてしまう。
自分は、一日のネガティブな二部構成を作り上げてしまう、その構成員の一人にはなりたくないと思って気をつけてはいるのだが、・・・どうだろう。
というわけで、終わります。
ありがとうございました。