ハイハイで散歩中

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5月6日の日比谷野音でのベイビーレイズJAPANのライブ(ニコ生Ver.)を観て思ったこと。

5月6日(日)、日比谷野音で、ベイビーレイズJAPANのワンマンライブが開催された。それに併せて、ニコ生でもそのライブの模様を配信していて、プレミアム会員なら、期限日までその配信が何度でも視聴可能となっていた(多分)。
僕は、行こうか行くまいか迷いぐずぐずしていた矢先、そのニコ生の情報を入手してしまい、おーこれは便利だ、そうか最悪現場に行けなくてもニコ生で観ればいいのか、と余裕をぶっこき倒していたのだが、ただそれでもやっぱり現場に行かなかったら後悔すると思い、チケットを購入しようとサイトに行ったら、チケット購入期限が過ぎてしまっていて、なんじゃそりゃ、と暫く茫然自失となって、早々に後悔するはめになった。
twitterで見かけて僕も同意するのは、もしかしたら、ニコ生の告知が、行くか迷っていた人達の消極性に拍車をかける要因になってしまったのではないかということ、そして終いには僕のような後悔ルートを辿る人を増やしてしまったんではないか(そんなアホは僕だけかもしれないが)ということだ。
だから、告知のタイミングも難しいと思ったというか、全てのチケット受付が終了してから、「朗報です!ニコ生でも配信することが決定いたしました!」的な救済演出をすればいいのではないかと思ったりした。
あと、当日券も少し出ていたのだが、それはすぐ売り切れてしまうと思い、当日は、完全にニコ生シフトに移行していた。

配信をオンタイムでは観れなかったので、少し間が空いてから観ることになった。
結果から言えば、「やっぱ現場行きゃよかった」、ということに尽きた。
やはりあのエモさは、ダイレクトに皮膚感覚で味わいたくなってくる。
そういう意味ではニコ生の配信は僕に対してすごく効果的であったと言える。

ただ、ニコ生仕様のライブもとても良かった。
画面を流れるコメントから、今、この瞬間のこの場面では、どのような思いなのか、どのように感じているのか、はたまた全く関係のないコメントなども含めて(これはこれで面白い)、ただライブを観ているだけでは見えて来ない、ファンの様々な思いがライブと同時進行して可視化されていた。
だから多種多様で、とてもエンターテインメントな空間になっていたと思う。

ライブの内容的には、まず始めの、登場前のBGMからして絶妙にベビレらしかったと思う。
正確にはバック・グラウンド・ミュージックとは言えないのかもしれない。
流れていたのは音楽ではなく、ベビレが結成された経緯の模様の音声であった。
結成当時から、この模様は、事務所レプロがYouTubeに公式にあげていたので、僕はベビレにハマった当初に観ることができていた(ただ、本ライブでの音声は、恐らくDVDの特典映像からのものだと思う)。
この動画は、テロップや効果音、そして「パイセン菊池亜美」というこれらのギミックにより、ドキュメンタリーなのか、台本があるコント的なものなのか判然としない仕上がりになっている。
ただ、やはりメンバー達の表情や言動をみる限り、これはドキュメンタリーなのだと僕は理解している(というか恐らくそうだろう)。
個人的にこの動画は結構好きで、事務所の先輩菊池亜美の絶妙にグダグダの芝居が、絶妙なクオリティとなって顕れる。なんというか良い意味でのB級感という感じ。
そして、その頃から、まなっちゃんはしっかりとしていて、りおとんの言動は大人びていた(そして2人の過去の話はぐっとくるものがある)。
まあその動画の話はこれくらいにして、本ライブでのBGMの帰着は、パイセン菊池亜美がグループ名をメンバー達に告げる、「みなさんのグループ名は、ベイビーレイズです!」となり、その刹那、メンバー達がステージに入ってくるSE(登場曲)が流れる。という運び。
正直この流れは、賛否両論あるだろう。
なぜなら、ベビレ結成経緯的BGMは、20分くらい流れていたからだ。ニコ生でも「え、長くね?」的なコメントを幾つか見かけた。
だが、僕はこの試みを面白いと思っている。ライブ当日の5月6日は、ベビレの結成日でもあって、故にあのようなBGMを流すのは理解できるし、そして新規のファンにも優しい。
そして、「みなさんのグループ名は、ベイビーレイズです!」と言って、登場してくるというのは、カッコいいのか、ダサいのか、ちょっと言いにくいところでもある。
だがそこがベビレらしいというか、面白いところだな、と僕は思ってしまうので、僕はこのBGMには肯定的である。

そして、一曲、一曲の感想を書くことは僕にとって結構根気のいる作業なのでやめておくとして、この記事では、全体的な感想と、印象に残ったシーンを幾つかピックアップするに留めておこうと思う。
最も強く思ったのは、僕が気付かなかっただけで、以前からそうだったのかもしれないが、メンバーみんなの歌唱力がとても上がっているというか、発せらている声がとても力強く感じられたということだ。
陳腐なのであまり多用したくはないが、みんな一段と「エモく」なっていた。「エモエモ」、といったところであろうか。
なにより、りおとんが無茶苦茶声が出ていてエモさを感じた。
その他、個人的に、メンバーの特に「エモさ」を感じた場面を列挙してみる。

・「何度でも」の、ラストサビ前の、ソロサビでまなっちゃん→リコピンときて、「何度でも夢を見ようー!」のリコピン。
・「何度でも」のサビ前の、「そうだ!」のでんちゃん。
・「僕らはここにいる」のラップパートの高見。
・「シンデレラじゃいられない」の曲入り前の、まなっちゃんの煽り、「あたし達が全部受け止めるよ!」のリミッター解除の黒まなっちゃん。

以上の他にもまだまだあるというか、全てがエモい、全エモなのでこれくらいにしておく。エモエモ。
また、「シンデレラじゃいられない」が微妙にアレンジが加えられていて、バージョンアップというか、スーパーサイヤ人から、スーパーサイヤ人2になった感じがあってよかった(表現が幼稚で申し訳ないが、本当にそう感じられたのだ)。
他にもガラッとアレンジされた曲もあった。
「涙のち晴れ」と、「ベイビーレボリューション」である。
「ベイビーレボリューション」は、しっとりバラード系にアレンジされていた。この曲は、激しくてカッコよくて、拳を突き上げるのが似合う曲のイメージがあったので、このアレンジには驚いた。たまにはこのようなアレンジも良いと思ったが、やはりベビレボはエモの代表曲であると思うので、僕は原曲のほうが気に入っている。

また、アンコールでのでんちゃんのMCは少しぐっとくるものがあった。
「無限にあるもはなくて、有限だからこそ愛おしい・・・」的な発言は、ファンが勝手に色々想像してしまうワードも含まれていて少し動揺を誘われたが、これは人生においても通ずる、なにか真理めいたものがあって、考えさせるものがあった。
僕はこのライブを観終わって、いや観ている時から、なんか切なくて苦しいような感情が押し寄せてくるのを無視できないでいた。
それは、僕が、ファン歴は浅いにせよ、ある程度ベビレのことを知ってしまっていて、それ故、ベビレに物語性を付与してしまっているからなのだと思う。
その物語というのは、ベビレの歴史とか、ベビレに起こった事件(サイリウムだとか)とかそういう客観的事実も多少含まれてるとは思うが、大部分は僕の個人的な勝手な思いが作り出しているストーリーなのだと思う。
勝手な思いとは例えば、「こんなに歌が上手くて、パフォーマンスもよくて、ライブが最高なのに、なんでもっと売れないんだ!」、だとか、「6年目に入り、年齢も重ねてきて、そろそろ解散も視野に入ってきているんではないか」とか、そういうものだ。
もっと言えば、その物語性を喚起させる要因としては、ライブでの全力パフォーマンス、そして「エモさ」なのだと思う。
「エモさ」は物語性を帯びさせる。そして苦しく、切なくさせる。別の言い方をすれば、「ドラマチック化する」、とも言えるかもしれない。 「物語性」や「ドラマチック」というこれら要素は、アイドルをアイドルたらしめている補完要素なのかもしれない。

そして、でんちゃんMCの、「無限なものはなくて、有限だから愛おしい」というのと、前にももクロの有安が卒業するという際に、高見がTwitterで、
「アイドルとは尊いもので、 いずれは何かが変わらなければ 世間から忘れられそうになるわけで、 今応援してるアイドルが活動出来てるのも、 あたりまえじゃねぇからなぁ!!!!!」
というのを肝に銘じて、次は、ライブの現場に直接行って、皮膚感覚で享受しようと思った。

また、直接ベビレのライブとは関係ないのだが、ニコ生のライブを観ていて思ったことがあった。
それは、流れてくるコメントを先に視界に入れてしまい、自分がその場面について本当はどのように思っていたかが永久に分からなくなるということ、そして自分の頭で考えることが困難になるということ、だ。または、思考が中断してしまうと言ってもいいかもしれない。
例えば、あるメンバーのパフォーマンスにおいてコメントで、「これはエモい。エモ過ぎる」というコメントを視界に入れてしまったら、自分は、「あー確かにエモい。エモ過ぎるなこれは」となってしまいがちだということ。そのコメントを視界に入れていなかったら、もしかしたら、そこまでエモいとは思っていなかったかもしれない。
そして、その直後に、「いや、そこまでエモくなくね?」という他のコメントを見つけたら自分は、「確かに。言うほどエモくはないかもな」となってしまうかもしれない。
この時、この2つのコメントに揺さぶられてしまうということは、基準になるもの、つまり元々の自分の感想・意見がないということが露呈している。
これは、自分で考える前に他人のコメントを視界に入れてしまう、コメントが流れてくるというニコ生の構造上起こるシステム的問題で、そしてそれは僕にとって、結構重要な問題として立ち上がってくる。
もちろん、良い面もある。コメントが解説の役割になり、その場面においての新たな知識、知見を増やせたりできる。そういうのも踏まえると、だから結構良し悪しだと思う。
まあ、単純にコメント付を解除すればいい話なのだが、せっかくニコ生で観ているのだから、という思いと、エンタメ的に面白いではないか、という思いとで、やはりコメント付で観たいと思ってしまう。
誰かが、「やべえ、めっちゃエモい」というコメントをしているかと思えば、すぐ下に、「トイレ行ってくる」、とか「え、俺プレミアム会員じゃないけどなった方がいいのかな」とか、無茶苦茶私的なことをコメントしている人もいて、すごいカオスな空間だなと思うし、それが実に面白いと思ってしまう。
だから、まあ、良し悪しです。

また、これはニコ生に限った話ではない。スポーツ観戦の番組だって解説や実況は付き物だ。戦略の解説なら知識が増えるからいいのだが、もっと抽象的な、「今のは良いプレイだ」、「今日は不調ですね」みたいなレベルのコメントは、注意が必要になると思う。
こういうのを打破するためには、音声を消して、自分だけで一回観るか、または色々観たり、色々な意見を仕入れたり、また解説を疑いながら聞くなどし、たくさん経験を重ねるのがいいと思う。
そして、自分の頭で考える癖を付けることが結構重要なのではないかと思う。
ニコ生の場合でも、最初に視界に入れたコメント「エモ過ぎる」のに対して、「あー確かにエモい。エモ過ぎるなこれは」程度の反応は、たいして集中して観ておらず、なんとなく観ていて、なにも考えてないとても鈍感な状態になっている。
そうではなく、最初のコメントに対して自分が自信をもって「同感。エモ過ぎる」と即反応でき、次に視界に入れた「いやそれほどエモくないだろ」には、自分は「いや、エモ過ぎるだろ」と、即反応できるくらいに集中して観ておけばよいのだと思う。
しかし、こんなになんかストイックに「考える癖を付ける」とか「集中」がなんだとか書いてはいるが、僕自体そんな疲れる観方は能力的に無理というか、もっと楽に観たい。
だから、実は、自分の思考が中断してしまっていることや、自分の意見は最初からない状態で物事を見ていることが多いということを自覚するだけでもよいのではないかと、そういう甘えた、自分に都合のよい考え方へ帰結させることにする。

話が逸れてしまったが、日比谷のライブは、動画でしか観ていないが、エモくてとても良かった。やっぱり、現場に行くのが一番だと思った。
無限・永遠なものはく、有限だからこそ、愛おしくて尊い。
それがアイドル。
という帰結。

終わりです。