ハイハイで散歩中

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ネット通販から考える、購入者と出品者の相対化

僕は某大手ネット通販サイトで、古書・CD・DVD/BDなどのメディア商品を出品している。いわゆる、出品者、seller(セラー)である。
今年の世界長者番付で、初めてマイクロソフト創業者ビルゲイツを抜いて、1位に君臨した、なんとかベゾフ、いやベゾフなんとか、いやジェフなんとかという創業者のその某大手ネット通販サイトで最近起こった、この手のWEBサービスに付き物の購入者との悶着について書きたいと思う。

amazonは顧客(購入者/お客様)至上主義なので、購入者とのトラブルは、amazonが介入した時点で、結局はセラーがなんらかの負担をする場合がほとんどだと経験上認識している。
また、そのようなトラブルと真面目に付き合うのは非常に効率が悪く、そこで負担する費用はネット通販で商売するにあたっては必要経費だと思っている。

全てが悪質な場合では勿論ないが、中にはそのようなタチの悪いケースも勿論ある。
悪質なクレームや詐欺行為を働く輩はこの世に蔓延っており、恐らくそのような輩は罪悪感など抱かず、「購入者と出品者」などのように相対的に物事をみることをしないのだろうなと、そのような愚痴を吐きつつ、トラブルに出くわしたらせっせとその問題を処理する方向に気持ちを持っていくようにしている。

だが、たまになんの気の迷いか、流れ作業的にその問題を処理しようとはせず、こちらも言われっぱなしは癪だなと思い、少し言い返してしまう場合もある。
それは愚行も愚行で時間の無駄なのだが、まあ、そう、大変無駄なのである。
だからやはり僕には、このような商売は向いていないのだろうと、常々思っている。

だが悶着は勿論悪質なケースばかりではない。
別に悪気なく、こちらに文句を言ってくるケースもある。
例えばこちらの商品説明不足による手落ちだったり、または相手による説明文の見落とし、早合点による思い込みなどもある。
だがここで重要なのは、相手から文句を言われた瞬間、その直後の第一印象は、「うわ、めんどくせえクレーマーがきやがった」と、相手を悪人だと位置づけてしまうところから始まるということである。
そしてこの位置づけてしまうという行為の絶対条件として、「こちらが正当性を持って出品している」というその「正当性」が大前提なければならないだろう。
なぜならだからこそ、相手を悪人呼ばわりできるのであり、仮にこちらが詐欺行為や非の感を持っていて、その部分を購入者が指摘してきたら、それは至極真っ当な指摘であるな、と思うだろうからだ。
この、前提となる「こちらの出品の正当性」を押さえておいて、先日起こった悶着の場合について書いていこうと思う。

ここのところ、クレームが来ていなかったので、突然「商品違いによる返品希望」という件名のメールがamazonから届いたのには少し驚いた(このようなメールは決まって油断している時に、または忘れた時に不意にやってくるものである)。
そこで僕は、正直、「うわ、なんだよ、めんどくせえな、厄介な客がきたよ」と思ってしまった。
というのも、その購入者のメールの書き方が、明らかに怒っている表現をしていて、それは末尾の感嘆符によく表れていた。

僕はほとんどの物事は、表現の仕方や伝え方しだいでなんとかなるんじゃないかとさえ思う。
ほんとに聞いて欲しかったり、伝えたい時は、いきなり怒鳴ったりしないで、相手が聞いてくれるよう伝え方の工夫をするべきだ。
勿論、心のこもった怒鳴り方もあろうから、それはそれで伝わったりもするだろう。しかし、自分の意見だけを言いたかったり、なにかを発散させたかったり、つまり自分だけで完結させることがそもそも前提となっている人は、闇雲に怒鳴りちらしたりする表現へと帰結するのだろうと思う。
今回の人も、こちら側のことなんかは露ほどにも考えてはいないんだろうな、と思わせる表現であった。
だから、僕はその相手に好感を持ちたかったのだが、相手の印象は甚だ悪く、めんどくせえクレーマーという入り口からスタートさせてしまうこととなった。

そしてそんな気持ちのままそのメール内容を確認してみると、「国内盤CDを注文したはずなのに、輸入盤CDが送られてきたので返品を希望したい」との旨の内容が書いてあった。
そしてそこにはさらに、「カテゴリーページにも、貴店の商品説明文にも、どこにも輸入盤とは明記されていない」という旨の文が付け加えられていた。
この後者の文は、瑕疵(かし)箇所を指摘することで、返品の正当性を証明するための意図が読み取れる。
このような文は、攻撃性を帯びており、相手は敵意剥き出し、あーこの人はこちらを悪人だと決めてかかってるなー。と思わせる節がある。
僕はそれでさらにムカムカしてしまった。
だから、その論点となるであろう瑕疵箇所に対してこう思ってしまった。

「輸入盤とは明記していないが、国内盤とも明記していないけどな」

と。
だが、正直今回の件でいえば、僕は色々商品の説明が不十分であったと、すぐに思い至った。
通常なら、商品の規格(品番)、発売年、そして外観写真を明記、添付するのだが、その時ばかりは規格(品番)と発売年を記入し忘れていた。
これは完全にこちらが悪い。そして、この商品が輸入盤なのか国内盤なのかの確認も怠っていた。
特に、そのCDのジャンルはJAZZで、アーティストはUK発の若手トリオバンドのものであり、わりと珍しいタイプのCDであった。
僕はそのことをあまり注視せず、ただ淡々と、いや少し気を緩めて入力していたのだろう。

amazonには商品ごとにその商品のおおまかな説明ページがあり、そこには発売年やレーベル、アーティスト名など記載されている。
しかし、Amazon内のその膨大な商品の数、そしてそれごとにある商品説明ページの内容が、全て満足のいくものかといったら、そうではない。
不十分なものも結構確認してきた。
人気の商品や有名な商品ならいいのだが、今回のようなあまり知られていない商品となると、かなりの頻度で情報は不十分で心許ないものとなっている。

だからこそ僕は注意深く入力するべきだったのだ。
通常の輸入盤のCDなら、その商品ページに「import」と表記されているのに、そこにはその文字がなかった。
そして大抵「import」の表記がない場合、その商品は「国内盤」と見なされてしまうことが常である。
ということは、完全にこちら側が悪いではないか。

そのように色々反省している内に、印象最悪だったその購入者への不満、怒りも下火になり、僕はそのお客様にこちらが悪い前提の雰囲気で、謝罪のメールを送り、まあ、なんとか収束し、終息した。

しかしである。
なにか腑に落ちない。
なぜなら、僕はCDを入力する際、ほとんどの商品には外観写真を添付させている。
今回の場合も例外ではない。
そしてそこには、説明文には記載されていない、規格(品番)、発売年、レーベルがしっかり写っている。
なぜそれを確認してくれなかったのだろう。
ただでさえ情報不十分なページの上に、僕以外の出品者の説明文も、かなりお粗末なものとなっている。
そして僕の経験上、注意深い購入者は、注文を確定させる前に、こちらにその商品の詳細を聞いてくる(恐らく今までに何度かトラブルを経験した上でのこともあるのだろう)。

僕はいつもこういうトラブルが起こった場合(しかも当事者に悪意のない場合のトラブル)、出品者側も責任を持って提供しなければならないが、購入者の側だってそれなりに覚悟を持って利用するべきなのではないかと思っている。
こんなこと言ってはならないのだろうが、購入者にも、その商品を買ってしまった責任があるのではないかと、思ってしまうのも正直なところである。
だがそんなことを言っていては商売はどうも成り立たないようなので、なるべくクレームがこないよう商品の説明は詳細に記載するよう努めている。
そして、その一環として写真を添付しているのだ。
だからなぜ、それを確認してくれなかったのかが腑に落ちないのだ。

ここまで書いてきて気づいたことだが、というか結構前に実は気づいていたのだが、僕がなぜここまでイライラし、腑に落ちなくなってしまうのかといえば、それはやはり、常日頃からクレーマー対策のため商品説明を堅固のものとし、外観写真も添付しているという、出品における自分の「正当性」を自負しているからであるに違いない。
こんなにやっているのになぜそこを確認せず、または隙間をかいくぐってクレームをつけてきて、あたかもこちらを悪人認定してしまうのか。と、そのような怒りである。
そしてその怒りは、悪あがきにも似た僕のメールの返信に現れ出た。

つまりその購入者になぜ写真を確認してくれなかったのか問いただしてみたのだ。
しかし購入者は、そのことには触れず、話を逸らし、結局出品者側が悪いという後味の帰結をした。

いや、こっちが悪いというのは分かっている。それは認めているんだ。
そうじゃなく、なぜあなたも、ほんの少しでも、自分にも非があると、認めることをしてくれないんだ。
「自分も注文する前に確認しとけばよかったですね」程度の認め方でいいのに。そうすればこんな気持ちにならずに済んでいるのに。
灯台下暗しなのだろうか。認める以前にそれに気付けないのだろうか。思い込みの呪縛から逃れられないのだろうか。

相対化させることが重要だと思う。
自分のことだけを考えるのではなく、相手のことも考えてみる。
僕の方だって悪い。
「なぜ説明文や写真を確認しないのだろう」というのは出品者の驕りだ。傲慢だ。

そう、実はここに出品者としての落とし穴がある。
購入するより、出品する方でamazonを利用することが断然多い出品者は、知らず知らずの内に出品者としての目線、世界、論理を構築しており、購入者側の目線を失念しやすい。
だから、なんでこんなことが確認できないのだ?なんて、驕った考え方になってしまう。

そしてさらに相対化を進めて気づくことがある。それは、
「購入者の側も相対化することが必要なのではないか」、ということである。
そうすることで、自分の至らなかった点などが見えてきて、それを自覚することができるのではないかと思う。
そして、自覚できれば、それはなんらかの表現に表れてくると思う。
優しい物言いになったり、譲歩する考えが出てきたり。
僕はただ、自分の非を自覚をしてほしいだけなのだ。
僕を敵と思わないでほしいだけなのだ。
なんなら友達になりたいとさえ思う。
それは言い過ぎたが、とにかく良好な関係でいたいのだ。
だが、中々それは難しい。出品者と友達になりたくて注文してくる奴なんていないだろう。
購入者は商品が欲しくて注文するのであって、出品者はただの仲介役でしかない。
でも僕は、なるべく良好な関係を保ちたいと思い、これからも親切丁寧な取引を心掛けていこうと思う。

久し振りに書いたら、だらだら長くなってしまった。
こんな無駄に長い文章誰が読むのだろうか。ブログも、読者との相対化をするべきなんだろうな。

全く関係ないことですが、今日の帰り道に感じたことを書いて終わりにします。

めっきり寒くなり、ひんやりした今宵、夜空を見上げたら、月がくっきり見えました。

終わります。