ハイハイで散歩中

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「他人に迷惑をかけてはいけない」というのは本当か?を考える

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この前ツイッターをぼーっと見ていたら、とあるフォロワーさんが、以下のような問いを発していた。

「『人に迷惑をかけてはいけない』というのは本当か?」

そして、とある例を付け加えていた。

「大学受験の際、他の受験生より高い得点をとることは迷惑にはならないのか。かと言って、じゃあ他人より低い点をとろうとは思わないのではないだろうか」

原文そのままではないが、概ねそのようなことが書かれていた。
僕は考えてみることにした。
そのツイートに「いいね」を押し、とりあえずもう一眠りしたあとでゆっくりと。
そしてそのまま1週間以上放置した。
このままではずっと考えなさそうだったので、ブログの題材にしてしまえばいやでも考えるだろうと思ったので、今、こんな感じで書いてます。

以下、僕なりの考えである。

 

様々な論理、そして共存・並存

この社会は様々な論理で溢れている。
例えば、

・学校の廊下は走ってはいけない。なぜなら転ぶ危険性や事故の元になるから。

・犬や猫や人間は哺乳類である。なぜなら、母乳で育つから。

・生ビールは、酵母菌を熱処理していないことから、ビールに「生」と冠している。

などなど無数にある。
そしてそれらは共存している。

そして、「大学受験の際、他の受験生より高い得点をとることは迷惑にはならないのか。」についての論理だが、ここにはおおまかに2つの論理が共存している。

1つ目は、「他人に迷惑をかけてはいけない」の論理。「他人に迷惑をかけてはいけない。なぜなら人の嫌がることをするのは悪だから。または自分が迷惑をかけられたら嫌だから、他人にもしてはいけない」とまあこんな感じになるだろう。

そして2つ目、受験の論理。これは「競争の論理」とも言い換えることが可能だと思う。
「競争」とは、誰かが勝ち、誰かが負けることであり、そこに平等はない。これが「競争」の論理、または「競争」の意味だろう。
したがって、この問題には少なくとも2つの論理が共存、または並存しているのだ。
そしてこれらは全く別の、畑が違う論理である。
この論理の共存・並存は、例えば、「功利主義」の倫理的問題にもみてとれる。

例えば、功利主義の倫理的問題

まず功利主義とは、平たくいえば、「最大多数の最大幸福」のことで、より多くの人がより多くの幸福を享受し、そして苦痛は最小の方が善だよね。といった感じのことである。
このような功利主義を元にしてとある例を出してみる。

5人を乗せた沈没しそうな船があり、1人を海から放り出せばその船は沈没せずに他の4人は助かるが、これを実行すれば倫理的にどうなんだ、というものだ。

ここでも2つの論理が共存している。

1つ目の論理、4人が助かれば、量的に幸福が増えるし、経済面からみても損失は少なくすむ。

2つ目の論理、倫理面からみて、いかなる場合であっても人を殺すことは悪である。また殺された遺族からしてみれば、殺した人達は劣悪極まりなく、遺族当人達は絶望この上ない。ゆえに、1人を犠牲にするべきではない。

この2つの論理は共存・並存しているだけで交わらない。交わらないからこそ2つとも理解できる。ゆえに、2つをまとめて答えを出すことはできない。

受験のケースも同様である。
「他人より高得点をとることは、他人に迷惑をかけているのでいけない」という論理と、「受験=競争」の論理は共存・並存しているだけで交わらない。そもそも畑が違うのだ。ゆえにこの2つをまとめて答えを出すことはできない。
つまり、「人に迷惑をかけてはいけないというのは本当か?」に対して、答えを出すことはできない。

問い方の間違い、そして嘘の論理

このような結果になった場合、じゃあ答えが出ないっていうことは行き止まりでそれまでなのかよ!となりそうだが、その時有効な方法がある。
それは、一旦その問いから出てみることである。出てみて、別の問い方を考えてみるのだ。
つまり、「人に迷惑をかけてはいけないというのは本当か?」という問いから出て、この問い方自体を疑ってみる。
この問い方をしてしまうと、他の論理、例えば「受験=競争」などの論理を引き合いに出されてしまい、答えは袋小路になる。
ではこのような問い方はどうか。

「『人に迷惑をかけてはいけない』という常識はいかにして生まれたのか。また、いかにして人々の生活に刷り込まれていったのか」

というものだ。
まず、「『人に迷惑をかけてはいけない』という常識はいかにして生まれたかのか」を考えてみる。
恐らく、この世界で快適に生きていくためには、自分が嫌がることをされないようにしなければならなく、そのためには、他人に嫌がることをしないことがとりあえずベターだという処世術がどこかの時代、どこかの地点で生まれたのではないかと思う。
そしてこの論理は、大方察しがつくと思うが、極めて脆弱な、根拠のない論理である。いってしまえば後付けの論理というか、正当化の論理で、つまり嘘の論理だ。
だからこの論理を深く追求しようとすると、実は中身が空っぽであり、元々実体のない空虚な論理であることに気がつく。

次に、「いかにして人々の生活に刷り込まれていったのか」だが、僕達は子供の時なんとなく、「他人に迷惑をかけてはいけない」と教わり、それを破ると親から怒られる。そのような経験が反復され、染みついてしまい(これは一種の洗脳と言ってもいいだろう)、「他人に迷惑をかけてはいけない」ことが無根拠に善とされ、そしてそれを盲信してしまっている。
子供にそのような無根拠な教えを強いている親も同様、子供の頃そのような教育を受けたのではないだろうか。
みな空虚な論理を盲信し、それを疑わずに子供に教え、そしてそれをまた次の世代に教える。いわば空虚な循環である。
このようにして、恐らく刷り込まれていったのではないだろうか。

ではこの空虚な論理は必要ないのだろうか。否、そんなことはない。この社会は、この空虚な論理がなければ恐らく崩壊するだろう。
空虚な論理、後付けの論理、正当化の論理、嘘の論理こそ、この社会の秩序を保つ楔なのだ。
だから、「他人に迷惑をかけてはいけない」というこの常識的文句は、実は嘘の論理であるということにまず気づき、そしてそこから、嘘の論理ゆえに、この社会には必要なのだと、さらに自覚的になるべきなのだろう。(偉そうに述べてしまって恐縮です)

最後に

最後に、ネットでほんの少し調べていたら、以下の記事を見つけた。

 

select.mamastar.jp

その記事の中で、子供に、「他人に迷惑をかけてはいけない」と教えるのではなく、「人に迷惑をかけてしまった後どう対応するかを教えたい」と書いてあって、なるほどな。と思わされた。

恐らく、この世の中には様々なおかしな常識が存在していると思う。
そのような常識を、たまにはじっくり考えてみるのもいいのではないかと、まあ、そんなことを思いました。
記事を書くきっかけを与えてくれたフォロワーさん、ありがとうございました。

終わります。