ハイハイで散歩中

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独り言をいうのはおかしなことなのか

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この前電車に乗っていたら、ドアに寄りかかり、外を眺めながら独り言を頻発するおじさんに出くわした。

そのおじさんの独り言を敢えて分類するとすれば、お笑い芸人千鳥のノブ的な、嘆きツッコミならぬ嘆き独り言、つまり嘆きタイプに分類される。当然、クセもすごい。

「あーあ、やだなこんな生活」

「なんでこんなことになるの?」 

「もう誰か助けてー」

「えっ、これって快速なの。なんでこんなことになるの?」

あるタイミングになると概ね上記をローテションさせる。

その独り言の言い方が、子どもが駄々をこねる時のようで、より嘆いているように感じる。

僕は最初その発言を聞いた時、誰かに話しかけているのかと思ったが、外を一貫して眺めているので、そうか、独り言か。と納得した。

だが、これは自分も含めてだが、周囲の人々はその独り言を嘆いている人を、「独り言をいう人」というレッテルを貼り、「独り言をいう人」と「独り言をいわない人(自分)」という、大きな括りで線を引いてしまう傾向があるように思う。

なぜそのような区分けをしてしまうのだろうか(まあ、そのような区分けをしているのは僕だけの可能性もあるが)。

独り言をいうのはおかしなことなのだろうか。

僕だって周囲に人がいない時は、独り言をいう。しかも恐らく結構言う方だと思う。

だがやはり、それは周囲の目がない状況に限られる。

ということは周囲に人がいる時に独り言をいうのは「おかしなこと」という前提が僕にはあるようだ。

だから、「独り言をいう人」というレッテルを貼るのだろう。

では周囲に人がいるのに独り言をいうのはなぜおかしく感じるのか。

以前のブログで再三書いていることだが、それは電車の中で電話をしている人への違和感と同様の構造のような気がする。

人はある対象に対して、なにかを理解しようとしたり、理屈をつけて自分を納得させたい生き物であり、そのためには情報の開示、クリアさが不可欠である。

電車内での携帯電話の会話は、周囲の他人からすれば、誰との会話なのか、また一方的なように聞こえる会話、そしてその内容など、情報が不完全、不透明である。

そのような状態に人は気持ち悪さを感じる。

(因みにこの心理に科学的根拠はなく、ラジオを聴いていたら、あるリスナーさんが言っていた理論に過ぎません。)

その状態は、独り言をいっている状況にも当てはまる。

口から出た言葉というのは、そのまま他者に伝えられるものとして、そもそも生まれてくるような気がする。そしてそれは会話に発展する。

他者と居合せる電車内で言葉を発するということは、概して会話を目的とするものであるだろう。

そのことを乗客は大前提としている。

だから、ある乗客から発せられた言葉は、その他の誰かに向けられたものだと当然周囲は思う。

だが、誰もその言葉を引き取らない場合、人は違和感を抱く。

一体誰に向けられたものなのか。そして、不完全な内容。不十分な情報。一般的な前提の不成立。即ち全容が不透明。

そして、「あーこの人は、独り言をいうタイプの人なんだな」とレッテルを貼り、自分を納得させる。

これが他人が独り言をいっているのを聞いた時の周囲の反応である。

だが、これはあくまでも他人が独り言をいっている場合であり、当然だが自分が言っている場合ではない。

独り言を聞く側、つまり他人の立場で考えれば、それは他者の構造上の論理からして、おかしいと結論付けられるのだろう。

では、自分が独り言をいう場合はどうなるのだろう。

自分自身をおかしいと結論付けることができるだろうか。

上記でも先述したが、口から出た言葉は他者に届けられることを前提としているのだと思う。

僕の例でいえば、誰の目を気にすることなく安心できる場所で独り言をいう場合、あたかも誰かと会話するかのように独り言をいう。

つまり、誰か他者を想定して僕は独り言をいっている。

もしくは、その「誰か」は自分自身であってもいいはずで、自分自身を「他者」にして、自分自身と会話するために言葉を発する。

この考え方は十分可能なように思える。

だから、独り言をいう側で考えれば、周囲に他者がいようがいまいが、そんなの全く関係がなく、どんどん独り言をいっていいし、そういう人で世の中溢れてもいいはずである。

電車の中でも、誰か一人が独り言を発するのではなく、ほとんどの人が各々独り言を発する。独り言をいわない人の方が稀有なほどに。そのような状況があってもいいはず。

だが、そのためにはまず、人は独り言をいう生き物で、それは周囲の人がいても同様であり、おかしなことではないという植え付けを人々にしなければならない。

また、今書いていて少し思ったのが、独り言というのは、内面の吐露であるように思える。

そして内面の吐露というのは、プライバシーの吐露でもあり、それを周囲の人に聞かれるのは、だいぶ抵抗があるのではないか。僕だってそうだ。

また、人は誰かといる時は話すことができるが、1人きりの時に言葉を発するのには勇気が必要な気がする。それは勿論、周囲の人におかしな奴と思われたくないだとか、諸々の理由はあるだろう。

だから、公然と独り言をいうタイプの人は、周りを気にしないことができる人といえるのではないか。

それはある種、特殊能力であり、それをほとんどの人ができるようになるのは中々難しいのかもしれない。

だが僕は、ある電車に乗った時に乗客全員が各々独り言をいっているのを想像すると、ワクワクするので、そのような状況にいつか出会えたらなと思う。

だがそのためには、僕も周囲を気にせず独り言をいえるようになっていないと駄目だし、中々難しいかもしれない。言葉を発するというのは中々労力だって必要にもなるし。

だが、昨夜乗車した電車内ならばそれは可能なことかもしれないという気が今してきた。

目の前には、膝に手を付き首を垂れているオジサン。時折奇声を発するオジサン。周囲のことなど気にしない音量で喋る乗客。そのような終電間際のカオスな電車内なら、全然いけるかもしれない。

昨日は金曜日だったからな。

そういえば、月末のプレミアムフライデーっていつまで続くのだろう。

もはや三四郎のオールナイトニッポンでしか聞かなくなったな(三四郎は勝手にアンバサダーを名乗っている)。

 

唐突ですが、終わりです。