ハイハイで散歩中

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「ポリシー」と「プライド」の違い


先日、平成ノブシコブシの徳井がやっている、「酒と話と徳井と芸人」という、徳井がゲストを招き、お酒を呑みながら、ただただトークする模様を音声のみでお送りするというラジオ風番組をYouTubeで聴いていた。(YouTubeで途中まで聴けて、その後は『JOOKY』で聴ける)

その回は、ゲストにチョコレートプラネットの2人を招いて、色々トークを繰り広げていた。

その中で、チョコレートプラネットの長田が、「ポリシー」と「プライド」の話しをしていた。

その行動を「ポリシー」とするのか、「プライド」とするのかうんぬん・・・

僕は、そもそも「ポリシー」と「プライド」の違いは一体なんなのか気になってしまった。

そこで今回は、「ポリシー」と「プライド」、その2つの言葉の違いを考えてみようと思う。

言葉の意味


まず、2つの言葉の意味から考えてみる。

・ポリシー・・・政策、政略、方針

・プライド・・・誇り、自尊心
「GOOGLE」より

 

上記をみる限り、2つの言葉は、意味においては明確に違うように思う。

またポリシーという言葉の語源は、「都市を統治すること(政治)」、またこれは警察「police」と、同語源だという。

そしてさらに、「police」は、都市国家を意味するギリシャ語の「ポリス」からきている。(※以下を参照しました)

imimatome.com

 

語源を考えるとますます違いがはっきりしてくる。

少し抽象的に表現してみれば、

プライドというのは、自分の内面を表していて、自分とは不可分、切っても切れない関係である。

その点、ポリシーは、自分から出てきたものとはいえ、それは、それ単体で、自分から切り離された独立したものとして、捉えることができる。

もっといえば、「プライド」は、その人自身がいなければ存在できないが、「ポリシー」は、その人がいなくても存在できるし、他人とも共有可能なものである。

この時点で、もう2つの違いの答えは出たように思う。

抽象的にいえば、

「プライド」は、「内面的なもの」

「ポリシー」は、「外面的なもの」

 

だが、ここで気付くのが、僕が求めてる答えは、どうやら上記とは別にあるということである。

確かに、「ポリシー」と「プライド」の違いに対する答えは出たように思う。

だけども、僕が、チョコレートプラネットを契機にして疑問に思った問題の答えは出ていない。

その問題とは、「どうして自分は『ポリシー』で動いているだけなのに、その行動を、他人には『プライドが高い』と思われてしまうのか」というものだ。

徳井の番組では、別にそのような疑問を長田が言っていたわけではない。

だが、この「ポリシー」と「プライド」の関係性を考え進めていくと、結局、この問題に辿り着くというか、本当に重要なのは、この「誤解」の問題なのではないかと思うのだ。

したがって、今度はそのことについて考えてみようと思う。

以下の2つが、その理由であると僕は考えている。

「ポリシー」を「こだわり」と訳してしまう

 

1つ目は、「ポリシー」の意味を、場合によっては「こだわり」と訳してしまうところにあるのではないだろうか。

例えば、「あの人は『ポリシー』がある」と言った場合、「あーあの人には『こだわり』があるのだな」と解釈することも可能であると思う。

なぜ、「こだわり」と訳すことがあるのかといえば、ポリシーに準じているその人の態度そのものが、そうさせているのではないだろうか。

そして、「こだわり」という言葉は、「頑固」「頑な」という言葉を連れてくる。

そして、その言葉から連想される1つの例として、「プライドが高い」という言葉があるのだと思う。

つまり、「ポリシー」という言葉から、「こだわり」という言葉が導き出され、そして、「こだわり」という言葉から、「頑固」や「頑な」という言葉が連想され、そこから、「プライドが高い」という言葉がまた導き出されてしまい、「ポリシー」を貫いている当人と、それを「プライドが高いゆえに」と捉えてしまう他人とのギャップが生じてしまうのだろう。

当人と他人とのギャップ

 

そして2つ目は、上記でも触れたが、それは、「ポリシーを貫いている当人」と、「それを見ている他人」とのギャップである。

当人は、ポリシーという動機からの態度であるはずなのに、それを見ている他人は、「プライドが高い」と捉える(選択する)ことも可能なのである。

それは何故なのか。

恐らく、ポリシーの動きも、プライドの高さゆえの動きも、外からみれば同一の動きとして見えてしまうからだろう。

分かりやすく例を出すと、

ある時から一切「ひな壇」には座らない、そのようなバラエティ番組には一切出演しないと決めた芸人がいたとする。

その行動の原理は、近い将来視聴者は、大型テレビより、スマホの小さい画面でテレビを観ることが主流になると予想し、スマホの画面を意識した番組は、出演人数が多くなる「ひな壇」を必然的に無くす方向にいくだろうから、今の内から「ひな壇」のある番組には出演するのは辞める、というものであり、そのようなポリシーに準じてその芸人は日々行動している。

だが、周囲の芸人達からは、「お前、MCしかやりたくないからって、ひな壇やらないなんて、『プライドが高いな』」と思われてしまっている。

これは、当人は「ポリシー」に準じた行動なのに、結果の、「ひな壇には座らない」、という行動が同一になってしまっているがゆえ、当人と他人とのギャップが生じてしまっているということだ。

両者は、異なる入り口(動機)からスタートしているはずなのに、出口(結果)は一緒になってしまっている。

だから誤解を招きやすい。

 

つまり、今までの考えををまとめると以下になる。

 

まとめ

「ポリシー」と「プライド」の意味自体は、明白なまでに違いがある。

物凄く抽象的に言えばそれは、

「ポリシー=外面的なもの」と、「プライド=内面的なもの」」

だが、重要なのは意味の違いではなく、なぜ「ポリシー」と「プライド」が混同され、他人に誤解されてしまうのか、というのが本当の問題。

そしてその理由は2つある。

1つ目は、「ポリシー」を、「こだわり」と解釈してしまうということ。

2つ目は、当人と他人とではギャップがあり、外からみればその2つは、同一の行動をしているように見えてしまうということ。

この2つが「ポリシー」と「プライド」という言葉を混同させてしまっている原因!!

 

なんか今回は、ホント自分にしか分からないような自己満な記事になってしまっているような気がしてならないが、自分的にはスッキリしているのでご容赦ください。

終わりです。

ありがとうございました。