ハイハイで散歩中

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妄信という病-吉本の問題、あいちトリエンナーレ2019関連のツイートから思うこと-

いやー最近、家の周りに棲みつく猫達に癒しを求めてしまっているお盆なこの頃。

僕が横を通り過ぎても地面にべたーっとだらーっと周囲を気にしないニャンコスタイルを貫いているのがいい。

また、だらーっとしているだけかと思いきや、ある時など、探求するようにただただ純粋に遠くを見つめていて、ある種の気品さも漂わせている。

総じて、そんなおニャンコなスタイルに純真無垢さを見出しては癒されているというわけだ。

 

別に癒しを求めているからといって、自分が病んでいるわけではない。

ただこの頃のツイッター状況を見ていると、少し、溜息がちになるのは否めない。

吉本の問題、日韓関係、あいちトリエンナーレ2019。。。

好きなことを書くのがツイッターで、ポジティブなものもあればネガティブなものもある。

ツイッターはユーザーごとに見ている世界が違う、と津田大介氏か誰かが言っていた。

だから、ポジティブなツイートだけが溢れる世界を構築することだって可能だと思う。

だが、毎日トレンドに上がってくるキーワードから、なにが書かれているのか知りたい欲望にも駆られる。

その欲望を推し進めれば、自分の知らない外の世界に足を踏み入れることができる。多様性の世界に。ポジティブもネガティブも混在する世界に。

別に僕はポジティブな世界だけのツイートに身を置いていない。

気になる著名人をフォローしていれば、その著名人のツイートに対するネガティブなリプライがくっついてくるし、どこからともなくリツイートだって回ってくる。

だから別にネガティブなツイートに触れることは日常茶飯事だった。

しかし、最近やたらネガティブなツイートばかりが目につく。

恐らく、僕が賛否ある問題のキーワードばかり追っているからだろう。

あと、賛否性を多く抱える著名人をフォローしているというのもある。

にしてもポジティブよりネガティブなツイートの方が多く氾濫している気がする。僕の錯覚に過ぎないのかもしれないが。

論理的で相対化させたツイート(ポジティブ)ならいいのだが、論理性を欠き、一方的で、ただ石をぶつけ合うツイート(ネガティブ)は見ていて気分を落ち込ませる。

 

だけど一方でこうも思う。

一方的で、そのツイートから感情的になっているのが丸分かりなネガティブなツイートをしている人は、その問題となっている対象物への関心や思い入れが非常に強く、当事者意識があるのだと思う。

たとえば今回のことでいえば、「表現の不自由展・その後(あいちトリエンナーレ2019)」の問題となっている展示物、慰安婦を象徴する少女像、昭和天皇と思しき人物をコラージュした作品を燃やす映像。

従軍慰安婦問題に精通していたり、日韓問題に興味を持っていたり、それに関係するなんらかの確固たるイデオロギーを持っている人。同じく昭和天皇の場合も、昭和天皇を敬愛する人、それに関係する確固たるイデオロギーを持っている人。

つまり、自分の持つ強いイデオロギーに、今回の問題がなにかしらネガティブな形で関係してしまったのが、アレルギーにも似た反発意識を喚起させてしまった要因なのだと思う。

ひろゆき著「論破力」で、みんな物事に思い入れが強すぎる、的なことが書かれていた。

物事に思い入れが強すぎると、事実や論理を欠きやすくなり、主観的で感情的な発言になってしまうと。

そうは言っても人間なにかしらには思いを入れ込んでしまうものではないかと思う。

僕だって、大事な人が危険な目に遭いそうになったら理性とか常識なんて忘却の彼方に吹っ飛ばして、感情的になり、色々法を飛び越えたことをやってしまうかもしれない。

ふと思い出したが、昔、ロックバンドの毛皮のマリーズの志磨遼平(現・ドレスコーズ)が、「普段平和だ、愛だ、とか叫んでいるけど、いざ自分の彼女が攻撃されたら、そりゃ戦争するよね」的なことを雑誌のインタビューで語っていた気がする。超うろ覚えなので間違ってたらすみません。

つまり、その対象への熱量がすさまじいのだと思う。

僕は、今回の件は、特段思い入れも無ければ熱量も無い。もっと言えば、それを語るための知識も無い。

なので、そんな無い無いづくしのシブがき隊野郎は傍観者に徹してろこのモックンが!と言われれば、うーん、まあ、僕は全然世代ではないから悩みどころですが敢えて誰か選べと言われれば、はなまるマーケットを観ていた者としては、まあ、モックンっていうよりヤックンかな。と返すのが関の山、というか僕なりの定石となろう。フックンごめん。

冗談はさておくとして、僕は別にこの問題について賛否を述べようとしているのではない(すぐに「賛成」・「反対」と二元論に帰着させたり、必ず誰かを悪者認定してそいつを攻撃しまくるのもまた別の問題として考えなければならないのだろうが)。

知識や熱量がなくても、このツイートは論理性がないなとか、感情的になっているなとか、これはお粗末なツイートだなとか、その程度の判断はつく。

というかむしろ、返って知識や熱量がない方が、そのような判断力は上がるのではないだろうか。

実際、だいぶ熱を上げていると思しきユーザーで、とある著名人に対し、全く論旨を無視して自分の都合の良いように解釈したリプライを見かけたこともある。

また、この人はただ憂さ晴らししたいだけではないか、とか、単にこの著名人が前から気にくわないから叩いるだけではないか、とかのツイートも見かける。

まあ、そういうツイートは排除するとして、本当に思い入れが強い場合は、盲目的になりがちなので気をつけなければならないだろう。

しかし、上記でも述べたが、僕だって、大事な人が危険な目に遭えば盲目になってしまうかもしれない。

大事な人が危険な目に遭っているのに、冷静に、論理的に行動しようとは到底思えないと思う。

当事者のジレンマである。

客観的に考えたら、物事を相対化して俯瞰的に捉え、冷静に対応しなければならないのに、当事者となると中々そうはいかない。

そう考えると、今回の件のような、感情的に石を投げる人達のことを簡単には否定できないような気になってくるし、状況が違えば、僕だってそっち側に回ることだって十分ありえるのだ。

それでも、恐らく、冷静に、理性を保たなければならないのだろう。きっと。

 

あと、個人的な問題として、先述したとおり、今回のアイトリ2019に関して僕は充分な知識を持ち合わせていない。

だから、この問題が持ち上がった当初から、色々自分なりに考えていたのだが、なかなかどうも自分の意見というものが持てないでいた。

それでも誰かのツイートだったり、ネットの記事だったりを見ていたりしたが、それでもよく分からなかった。

だが僕は薄々気づいていた。

自分が、ある著名人がツイートするのを待っているのを。

僕はその著名人が好きで、その著名人が提出する意見を、きっと全肯定し、よく咀嚼もせずに鵜呑みにしてしまうんだろう。そんな危うい予感。

これは僕に知識がないのが一因であるように思う。

だがしかし、仮に今よりも知識が増し、よく考えられるようになったところで、やはり彼に期待してしまう、彼の意見を、まるで答えかのように切望してしまうんではないだろうか。

いや、もしかしたら彼に限らないのかもしれない。彼ではなく、別の誰かに、だがやはり結局は誰かに答えを求めてしまうのだろう。

これは宗教だったり、あるいは今流行のオンラインサロンだったりにも関係していることだと思う。というか多分直結しているんではないだろうか。

答えのない世界で、やはり答えを求めてしまう。または誰かに答え合わせをしてもらいたい、そんな欲望。

これは根深い問題だ。

 

アイトレ2019にアドバイザーとして関わっていた(具体的には津田大介氏の相談役で、微力にしか関わっていないらしいが)東浩紀氏が数日前、謝罪文をツイートした。

僕はこのツイートを読んで、とても真摯的だと思い、感動さえした。

だが、不可解というべきか、いや、やはりというべきか、東浩紀のツイート界隈は荒れていた。

当然、肯定的に捉えていた人も多かったと思うが、否定的に捉える人も多かった。

立場が違えばこんなにも捉え方が変わるのかと、結構愕然としたというか、やるせなくなった。

中には元々東浩紀を嫌い故にただただ叩く人だったり、熱くなって盲目になり、文章を自身の都合のいいように解釈して、誤ったリプライを飛ばしている人もいた。

そういうものを見ると、ほんとに、やるせない気になった。

だが、くどいようだが、今後もしかしたら僕も感情に身を任せたリプライを飛ばす側になるのかもしれない。その可能性は十分にある。

もしくは、現時点で、東浩紀を妄信的に全肯定してしまうそんなバイアスの病に、侵されている可能性もある。

いったいどうやったら自分が妄信的になっていると気付けるのか。はたまたそこから脱出できるのか。脱出できたところで、それは既に次の妄信対象の中なのではないのか。

妄信から出ることはできるのだろうか。

うーん、分からん。

猫に癒されよう。

終わります。