ハイハイで散歩中

面白いと思ったものをただただ紹介したり、またはただの雑記に成り果てそうです。

ハイハイで散歩中

コンテクストの重要性

今回はコンテクストについて書きます。

 

先日のエントリーで書籍、平田オリザ著「わかりあえないということ-コミュニケーション能力とは何か」を紹介した。

www.teheperow.com

その中で、「コンテクスト(文脈・背景)」を理解することの重要性について触れた。

例えば、とある誰かが、「旅行ですか?」と相手に聞いたとする。

その質問者のたった一言「旅行ですか?」の背後には、様々なコンテクストが想像できる。

例えばその質問者が一夏のアバンチュール目的を前提とした遊びたい欲求強めの男性だとして、質問相手が自分のタイプの女性であるとしたら、その「旅行ですか?」という問いかけの内容にはそもそも意味はなく、会話の取っかかりとして発したアイスブレイクのような空虚な言葉の器に過ぎなくなる。

または別の例。質問者がその問いかける相手に話しかける前に、10人ほど同じ質問「旅行ですか?」を聞いて回っていた熱心な旅行研究者であったなら、その質問「旅行ですか?」は、言外の意味を持たない、純度100パーセント混じりっけなしの、まさにその旅行研究者のために存在するような言葉に変貌を遂げる。

つまり、発話者(そして受け手も)ごとに、その言葉のコンテクストは存在するということだ。

そして、相手によっては、しばしばそのコンテクストはズレを生じさせる。

質問者の意図するところの「旅行ですか?」が、受け手には全く違う意味合いに変わって伝わることもある。

そしてそのズレに気づかずそのまま会話を続けていくと、争いに発展しかねることもある。

 

もう一つ、これまた以前のエントリーで、ひろゆき著「論破力」という書籍を紹介した。

www.teheperow.com

そこでは触れなかったが、上記で述べたオリザ氏のコンテクストの話しに通じる項目があった。

それは、「好き・嫌いは論破できるか」という章で、「好き・嫌い」は言わば主観なので論破するのは難しく、そもそもそれについて議論すること自体不毛、という旨のことが書かれていた。

だがそれに補足するかたちで、その「好き・嫌い」の理由について考えることは大事なことではないかとも述べられている。

たとえば、誰でも食べ物について「まずい」と言いますよね。でも、じつは「まずい」という味はないわけです。よく考えると「しょっぱい」とか「辛い」とか「味が薄い」とか、別の言葉で説明できるのですよ。(「論破力」p.43)

 

例えば商品開発において、単に「まずい」の一言の味の感想だと、どのような改善をすればよいかが分からない。

だが、その言葉を深掘りしていき、「しょっぱい」から「まずい」、「味が薄い」から「まずい」、というようにその理由を具体的にすることで、「しょっぱい」なら塩分を抑えよう、とか、「味が薄い」ならもっと濃くしよう、とかの対応ができ、商品開発に役立てることができる。

このような理由により、「好き」・「嫌い」の理由を考えることは重要だというわけだ。

これは言わば、「『まずい』という発話者のコンテクストを考える」、と言い換えることもできると思う。

「まずい」という言葉の背景を深掘り・分解していく。

「しょっぱい(からまずい)」、「味が薄い(からまずい)」、「辛い(からまずい)」。

言葉とコンテクストは切り離せない。

いや、言葉を使用するのは人間なので、人間こそコンテクストと切り離せない。

したがって、そのコンテクストを考える、理解することは重要になるということだ。

 

このことは、これまた以前のエントリーでも書いたが、「似ている・似てない」、「かっこいい・かわいい」のような、わりとデリケートな問題にも勿論通じる。

www.teheperow.com

この記事では、ロックバンド・グリムスパンキーのボーカル松尾レミと、ユーミンこと松任谷由実の声が似ていると僕が思ったことを契機に、友人といささかモメてしまったこと、そしてそこから僕なりに考察したことを書いている。

ここでも様々なコンテクストが存在している。

まず、「似ている・似ていない」の問題となっている、「楽曲中のボーカルの歌声」というものは、「声」・「音程」・「抑揚」・「リズム」などなど幾つかの要素(コンテクスト)によって構成されている。

そして、聴き手はそれを一緒くたにして「歌声」と認識、または発話している。

だからよくよくどこが似ている、または似ていないのか話しあってみると、その相手は、松尾レミは「抑揚があってエモい」、ユーミンは「機械的で無機質」という風に思っていることが分かり、ああ、この人は「歌い方」を重視して聴いているんだな、ということが導き出せ、その人のコンテクストが見えてくる。

つまり、最初に「似ているよな?」と聞いた段階では、各々前提となるコンテクストを省略して「似ている・似ていない」という結論を述べてしまっている。

そして、そのままそのコンテクストを確認しないで「似ている・似ていない」という言葉を使用し議論するから、お互いの衝突が不可避になってしまうのではないだろうか。


また、誰々が「カッコイイ・カワイイ」というのも同じで、その言葉にも当然コンテクストはある。

「目がカッコイイ/カワイイ」、「口がカッコイイ/カワイイ」、「鼻がカッコイイ/カワイイ」、「輪郭がカッコイイ/カワイイ」、「表情がカッコイイ/カワイイ」などなど。

発話の段階では自分達のこだわり(コンテクスト)を省略して「カッコイイ/カワイイ」と述べている。

そして、そのまま独自のコンテクストを含んでいるにも拘らず、外観は同じに見える言葉「カッコイイ/カワイイ」を継続して使用し議論を進めようとするので、

A君「あの子カワイイ(A君のコンテクスト)よね」

B君「え、あんまカワイク(B君のコンテクスト)なくない?」

A君「は?カワイイ(A君のコンテクスト)だろ」

B君「カワイク(B君のコンテクスト)ねえよ」

A君「あ!?

B君「あ!!?」

みたいな展開になってしまうんではないだろうか。

つまり、早い段階でキーになる言葉のお互いのコンテクストを確認し合うことが重要だということだ。


勿論、コンテクストは言葉(上記で上げた短い単語)だけに宿っているのではない。

よく問題になっていることだが、芸能人が番組で発言した内容の一部分だけを切り取ってネットの記事にし、本来の意味合いと異なる印象を読者に与えたりしてしまう。

これも、コンテクスト(文脈)を排除した結果、元々芸能人が意図していたコンテクストと、一場面のみを認識した読者とのコンテクストのズレが原因となっている。

ツイッターの投稿も同様である。

誰かの連続投稿(コンテクスト)の一場面だけを読んで、その投稿を自分のコンテクストの色で染め上げ誤った理解をしてしまう。

そしてそのまま誤ったリプライを飛ばす。

結構よくみる光景だと思う。

 

あと、日常で僕がよく出くわすのが、誰かに質問を受けて、それを答えると、相手があまり納得していないことがある。

よく考えてみると、それは僕の答えを拒否しているのではなく、そもそも質問のコンテクストの認識がお互いズレていて、僕のズレた答えに相手は違和感を示しているのだ。

勿論逆のパターンもあったりする。

だから、早合点するのではなく、日常的に相手のコンテクストを理解する癖付けを行っていければいいなと、「進撃の巨人」の最新刊を読み終えた時にふと思いました。

いや、ほんとはそんなこと全く思ってなくて、なんでいつも先が気になる終わり方すんだよ。早く次巻が読みたいよー。と、思った次第です。

最後ぐにゃっとした終わり方になってしまって申し訳ないですが、

終わります。

ありがとうございました。