ハイハイで散歩中

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すき家での攻防、そして分断と争い-最後は大団円というか、だんご大家族というか-

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僕は物事があまり上手くいっていない時には、イライラしたり、なにかと神経質になってしまう時がある。

そういう状態にある時、ある行為Aをしようと思ったら、そのAに没入しなければ気が済まない。

そのAから少しでも僕を引き剥がそうとするものがあったら、そのものに対する敵対心は凄まじい。

つまり、ひどく排他的になる。

 

先日もそういう状態の中、僕はすき家にご飯を食べに行った。

前述した通り、僕はご飯に没入したく、すき家に行く。ご飯に埋まりに行くのだ。

いや、この表現は正確じゃない。行為Aに没入したいというより、その行為Aを通して、自分の空間、パーソナルスペースを構築し、その中に埋まりたいのだ。

だから、僕がカウンター席に座って暫くして、他にも席は空いていたにも拘らず僕の真横の椅子に着席したおじさんを、秒で敵認定した。

そのおじさんが、僕のパーソナルスペースを脅かす行動を頭の中で列挙してみる。

・これみよがしの咀嚼音。

・不意を突く飛沫。

・酒気帯び願望。

・酒気を帯び、それによる上記2つの頻度増加。

 などなど。

そして完全なこれは僕の偏見なのだが、そのおじさんは見るからに「自分、酒気を帯びに来ました」という風体をしていたので、僕の世界は暗雲立ち込めてしまった。

そしてそのおじさんは、うな牛(うなぎと牛肉の丼)と瓶ビールを頼んだ。

しかも注文時に店員さんが、うな牛のサイズを「並」でいいですか?と聞いたの対し、おじさんは、「え?あ、ああそれでいいよ」と、いやあんた聞こえてなかったろうよ、それが「並」じゃなく「大盛」でも、「ああそれでいいよ」と答えてた雰囲気醸し出してんなよ、このリッチメンが。という、そんな懐の余裕さにも敏感になっていた惨めな自分を再確認する羽目になった。

僕はというと、おろしポン酢牛皿定食を食べている。なぜ商品名を敢えて明記したかと言えば、描写を具体的にすることで、その方が、なんか、なんか面白くなるのではないかと、読者の方が勝手に想像して面白く仕立てあげてくれるのではないかと、そんな他力本願的理由からです。

そして、隣のおじさんも頼んだものがきて、いただき始めた。

僕は黙々と食に勤しんだ。食勤と言ってもいいだろう。いや勤食か。修飾語タイプ、目的語タイプ、勤勉とかあるから勤食か。そんな漢検の勉強を数十年前に放り出して逃走中の僕の前を、ヌッと、おじさんの手が伸びてきた。

おじさんは僕の前にある瓶を取った。そして、うなぎに振りかけていた。

そうか。七味唐辛子をかけるタイプのおじさんか。

なるほど、七味おじさんというわけだな。いい名前だな。なんて考えていたら、隣から、

「あれ?」、という声が聞こえた。

横を見ると、訝しながら瓶を振り続けている七味おじさんがいた。

僕は瞬時に理解した。その瓶は七味の瓶じゃない。

その七味おじさん改め空振りおじさんも自分のうっかりミスに気づいたのか、「あ、そうか」と呟き、また僕の目の前にヌッと手を出し、七味の瓶と取り替えようとした。

その数秒間、ある感情が僕の中で湧き上がり、 蠢(うごめ)き、出口に向かっていて、あとはタイミングさえ合えばその感情は天命を全うしようとしていた。

そしてその時はきた。

僕の前におじさんの手が現れる。そして、僕は口を開く。

「いや、つまようじ!」

そう、僕はつっこんだのだ。

七味の瓶と、つまようじの瓶の取り間違いについて。

 

僕は日常的に、自分の心がポジティブに動き、そしてその原動となったものが近くにある時、そのもの自体に言及しようと努めている。

僕はコミュニケーションが得意な方ではないが、こういうポジティブな、つまり楽しくなりそうな感じの時には、それを顕在化させてあげたい欲動に駆られるのだ。

せっかく楽しくなりそうなのに、それに言及しないだけで、その吉兆は死滅する。それどころか、それが凶兆に取って代わることもある。

つまり、その一手間加えるか加えないかだけで、ボケとツッコミなどのユーモアに昇華できるのか、それともただただ惨めなドンずべり野郎に成り下げてしまうのかが決まるのである。

まあ、悲観的なのより、楽しい方がいいからね。

多分その時、僕はネガティブな精神状態になっていたことにより、より一層そういうモードに転じたかったのかもしれない。

だからその一心により、ただ思いを伝えたいその一心により、そのつっこみが、お世辞にもクオリティが高いとは言えない、よくよくそのフレーズを聞いてみればただ名詞を叫んでいるだけの、幼稚園児でも可能なレベルの出来上がりになっていることは許してほしい。

別にクオリティが目的じゃない。

そのタイミングでそのことに言及するかどうかが大事なのだ。

今その瞬間に動けるか、それが重要なんです。

 

一方、そのおじさんの反応はというと、

「すみません。間違えてしまいました」と自嘲気味に照れ笑いを浮かべながら応えてくれた。

これにより、僕たちのユーモアは完成した。

そう、僕たち2人のユーモアだ。

発信者と受け手の共同作業。

僕たちはこれにより共犯者となったのだ。

そしてそれにより、僕の世界の霧は晴れた。

分断されていた世界が、いまや1つの世界となった。

国境などなかったのだ。

もう、僕は隣のおじさんを敵認定していない。先ほどまでの危険要素が、まるで気にならなくなった。

それどころか、そのおじさんの反応、「すみません。間違えてしまいました」が可愛くさえ思えてくる。

we are the world!ユーモア最高!

見知らぬ人の段階から、少し距離を縮めることができただけで、こんなにも相手の印象が変わる。

なにも知らない、「自分の憶測」だけの段階の時に、その人との距離が近いと嫌悪感や警戒心が生まれる。

だが、少しのユーモアの力を借りるだけで、こんなにも関係がポジティブなものになる。

個人と個人の付き合いならば、これが容易く可能になる。

 

地理的に距離が近い隣国とは、良好な関係を築くのは中々難しい。近親憎悪なんて言われたりする。

国対国だったり、人種対人種、男対女、マクロの視点レベルになると、分断が始まる。

分断した時点で、つまり、なにかを分けた時点で、対立は生まれる。それが「分ける」ということの意味だろうから。

そして、対立は争いを生む。

 

対立させないで、1つの、同じカテゴリーの中に収めれば、そこには「友情」が生まれるだろう。

友人同士だって、仲違いする。

だが、また仲直りできる。

友情というものは、互いに許せたり、妥協できたりするものだ。

それは、お互いどこかしらに共通できるもの、共感できるものがあるからだろう。

これは個人だから可能なのだ。

 

マクロであると、それ1つの支柱を軸にして動かなければならない。そのことが、それであることの意味、アイデンティティだからだ。

だが、個人であるならば、色々動きやすい。趣味だったり、価値観だったり、人格だったり、ユーモアのセンスだったり、芸術センスだったりと、共感できる要素はいくらでもあるだろう。

その共通できる部分を探して、友人になれはしないのだろうか。

そもそも友人になる気などないのだろうか。

一体僕はなにを誰に向けてこんなことを言っているのだろうか。

そもそも、すき屋で端を発したこの話を、なんか政治っぽい話にしてしまうのが、分断の原因というか、「友情」というものから離れていく要因なのかもしれない。

やめよう。違う話にしよう。

 

僕はこの記事を書いている途中から、あるBGMが頭の中で流れていた。

だんご、だんご、だんご。。。

そう、知っている人も多いと思うが、美少女ゲームの中でも「泣きゲー」のジャンルを築きあげた「key」ブランドの代表作品であり、その後、京アニ制作でアニメ化もされた、「CLANNAD(クラナド)」から生まれた名曲「だんご大家族」である。

とはいえ僕はゲームはやっていなく、アニメしか観ていない、しかも最近観たという、にわか中のにわかで超々恐縮なのだが、いや、もう、年甲斐もなく本当に泣きじゃくってしまいました。京アニさん、ほんと感謝ですね。

 

とまあ、最後にすき屋の話に戻ると、僕がおじさんにつっこんだあと、おじさんも反応してくれて一件落着の大団円になると思ったが、そのあと、中途半端に意識してしまって、このあとなにか世間話をしたらいいものかどうか気にしながらご飯を食べる羽目になってしまい、結局そのあと何も話すことなくその場を後にしたという顛末。

次の段階にいくと、それはそれでまた問題が発生するという、まあなかなか難しいというか、それが人生というか、つまり、だんご大家族ですね。

あと、この記事「すき家での攻防」とか書いているけど、おじさんは特になにか僕にしているわけではなく、僕は僕の都合で勝手に追い込まれているだけで、おじさんはなにも悪くなかった。いかに自分の気持ちに余裕がないと周りに迷惑をかける危険性があるかが分かった。僕の方がおじさんより危険要素があったのだ。おじさん、なんか、すみませんでした。

そして最後にこれだけは書いときたいのだが、僕がよく行くすき家は、20時くらいに行くと、有線でソフト・ロックが流れていて、なかなか落ち着きます。

みなさんも、すき家、行ってみてはいかがでしょうか。

以上、すき家の宣伝でした。

ありがとうございました。