ハイハイで散歩中

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自ら問い、自ら考えること-土屋陽介著「僕らの世界を作りかえる哲学の授業」も後半紹介してます。

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インターネットにこんなに気軽にアクセスできる環境にいなかった頃は、自ら「問い」を見つけ、自らの頭だけで考えるということを必然的にしていたと思う。

ただただ「考える」ことをしに、無闇に家の周りを練り歩くことだってあった。
(「考えることをしに」なんてちょっとカッコつけてしまったが、加えて頻繁にやっていたのが、「妄想」しに行くことだった。ただただ「妄想」しに行く。なんかヤバイ奴ですね。でも最近妄想もめっきりしなくなったな。昔は寝る前なんて必ずしていたのに)

家でじっと考えに耽っていればいいのだが、僕の場合あまりそれは不向きのようで、なにかを「しながら」の方が捗ったりする。

特に歩きながら考えると、いい感じに頭も動いて、いい感じに集中できる。それは結構楽しい。

自ら問いを見つけるので、本を読んでいると、「あ、オレこれもう先に考えてたな」ということがあって、無益に勝ち誇ったりしていた。

だが今は、あまりそういう経験が少なくなってしまった。

時間があまりなくなったということもあるだろうが、別の理由として、「考える」ことより、「知識を吸収したい」という欲望の方が勝ってしまっていることが原因の一端であるように思う。

それは言い換えれば、「現実ではあまり役立ちそうにない営み(考えること)」から、「現実で役立つための営み(知識を吸収したい)」に変わっていった、いわば、「子ども」から「大人」に変わっていってしまった、とも言えるかもしれない。

インターネットに常時アクセスできるので、知りたいと思えば検索してすぐに知識を入手し満足できる。

そこに思考する余地はない。

確かに知的好奇心を満たすことは、それはそれで意味のあることかもしれない。

だがそこには「考える」というアクロバティックな快楽はない。


また、ニュースで取り上げられるような社会問題が起きた時に、インターネット及びSNS界隈、もしくはテレビや新聞等、さまざまなメディアで、さまざまな人がさまざまな意見を言っている。

なにか事件があったのかとその事実を知ろうとすると、漏れなく誰かの意見が付いてくる。

自分の頭で考える前に、大量の他人の意見を目に入れてしまう。そうすると、他人の意見に引っ張られたり、なぞったりするだけになり、本当の自分の意見が、大量の意見・情報によって見えにくくなってしまう。

そもそも、意見が大量に出るような社会問題を視界に入れてしまうと、なにか自分も意見を持たなければならない気になってくる。

しかも、大抵「賛成・反対」の二項対立に陥っている。

本当は、別に意見なんて持たなくたっていいし、持ったとしても、「賛成・反対」に帰着しなくたっていい。

「賛成・反対」以外の別の自分の「問い」を見つけて、考えたりしたっていいと思う。

もしくは、興味が持てなかったら、「へー。こういうこと起きたのか。じゃあとりあえず寝よ。」みたいにスルーしたって構わないだろう。

なにか、「メディア」にいいように煽動されているような、もしくは、「他人」に煽動されているような感覚がする。

まあ、自分がちゃんと、自らに「問い」を見つけられるよう、日頃から癖付けを行っていればいいのだろうが。

 

先日、土屋陽介さん著「僕らの世界を作りかえる哲学の授業」(青春出版社/2019年7月発行)という本を読んだ。   

この本は、全体を通して、「哲学対話」について書かれている。  

哲学対話とはどういうものか、だったり、哲学対話の歴史、哲学対話のやり方、学校での哲学対話の授業風景、哲学と哲学対話の関係、哲学対話の効用、また、街角にある「哲学カフェ」についても語られている。

この本は、ソクラテス、プラトン、デカルト、カント、ニーチェ、ハイデガーその他多数の、いわゆる「哲学史」についてはほとんど言及されていない。

書かれているのは、「哲学対話」についてのみだ。

だから、僕は最初、なにか物足りない気持ちのままページを繰っていたのだが、読み進めていく内に、この本は、哲学の根本にあるもの、「自ら問い、考える」ことはどういうことなのか、そしてそのことの重要性、もしくは考えることの楽しさについて書かれた、そういった意味では、「哲学書」なのだということに気がついた。

哲学対話というのは、「問い(テーマ)」を15人~20人くらいで考える営みで、1人で思考を深めることもいいのだが、みんなで協力して考えることによって、自分では思い付かなかった考えに出会えたり、思いもよらない所へ思考が飛翔できたりするそうだ。

また、自分の意見に対し反論された時、または、みんなで話し合っていく内に露呈してくる、知っているつもりになっている事柄、「そもそも」とか「前提」とかに対する「無知の気づき」にも出会えるという。

古代ギリシャ哲学者「ソクラテス」も、「無知の気づき」の重要性を説いているし、そもそもソクラテスは、「対話」を重んじていたそうだから、そのような意味でも、「哲学対話」という営みはまさに、「哲学している」ということなのだろう。

また、僕が意外に思ったのは、主張するよりも、他人の意見をよく「聞く」こと、または「質問」することの方が重要だと、土屋さんが述べていることだ。

哲学対話は議論ではなく、純粋に「問い(テーマ)」についてただただ思考を深めるためにある。

その人の職業・年齢など関係なく、その「問い」にのみ思考を働かせる。

他人の意見を素直に聞き入れ、分からないことがあったら素直に質問する。

そうすることで、より一層、その問いを掘り下げられるし、思考を深められるし、本書の言葉を借りれば、「概念の洗練化」ができる。

哲学対話で、その問いの結論は出ない。

哲学対話の目的は、結論を出すことではなく、思考を深めること、ただただじっくり考え、考えること自体に悦びを感じることにある。

だから、哲学対話の持ち時間がきたら、そこで考えがまとまっていなくても、ハイ終了、となるらしい。

そして各々、その対話をもとに、また思考を深める。

重要なのは、自ら問い、自ら考えること。


土屋さんが勤務している学校では、授業のカリキュラムに哲学対話を入れているらしい。

僕も中・高校生だったなら、ぜひとも土屋さんの学校に入学したかったななんて、読んでいて思ったりした。

まあ、全国各地に大人向けの「哲学カフェ」があるらしいので、気が向いたら参加するのもいいな、なんて思った次第です。

 

最後に、関係ないが、僕は小学校の頃将棋クラブに入っていた。

僕は全然強くなくて、おまけに一手指すのに無茶苦茶時間を要してしまい、よく相手をイラつかせていた。

普通にやっていたら持ち時間オーバーで僕の負けになっていたかもしれないが、対局の前に必ず、「時間無制限ね」と断りをいれて指すようにしていたので、そのことで負けになることはなかった。

一手指すこどに10分、15分、長い時には30分くらい要するので、相手はイライラしながら、「トイレ行ってくるわ」、とか、なにか他のことに精を出し始めたりしていて、かなり迷惑をかけていたと思う。だけど、何十敗しているクラブの部長に、上記のやり方で一回だけ勝つことができた時には、粘り強く考え食らいついていくことは無駄じゃなかったと、なんだか報われた気持ちになった。

また、その時1番印象に残っていることは、一手ごとに無茶苦茶時間を要し、思考に潜りまくることは、無茶苦茶楽しく、知的快楽を得られるのだ、ということだった。

よく考えることは楽しいのだ、ということにその時気づけたのだ。

この前、久々に知人と将棋を指したら、未だに僕は指すのが遅くて相手をイラつかせたが、やっぱり楽しかった。僕が負けましたが。

将棋の経験は、哲学対話とは少しズレてしまうのかもしれないが、それでも、自分のペースでじっくり考えるということは、やはりとても重要なのだと思った。

自ら問い、自ら考える。

忘れないでいきたいです。

ありがとうございました。