ハイハイで散歩中

面白いと思ったものをただただ紹介したり、またはただの雑記に成り果てそうです。

ハイハイで散歩中

良い演技とはなにか-観劇を終えて-

少し前に、友人が出演する演劇を観に行った。

その演劇は、普段はBARとして営業している店内をそのまま舞台利用していた。

僕は観劇ど素人なので、そういう舞台(ステージ)のあり方が珍しいのかどうかの判断がつかないのだが、僕にとってはとても興味深い試みのように思えた。(後に出演している友人に聞いたところ、そのような試みはあまりない、ということだった。だが、他の演劇関係の活動をしている知人にも聞いたところ、結構あるよ、と言われたので、実際どうなのかよく分かりません)

開演直前までその場所はBARとして機能しており、普通に演者である友人と椅子に座って談笑することができた。

その後、そろそろ始まるというので、少しレイアウトチェンジし、友人もどこぞに消え、暫く経った後、店内は暗転し、その場所は舞台(ステージ)に変貌を遂げた。

開演中、終始念頭にあったのが、演者と観客の距離が近すぎて全く気が抜けねぇ!ということだった。

それもそのはずで、お世辞にも広いとは言えない店内をそのまま舞台(ステージ)に利用しているので、観客が占有する場所以外は全てステージ(舞台)化している。なので、演者が、長椅子に座って観ている観客の目の前までやってくることも多々ある。

僕の前にきた時など、僕は役者さんを見ることができず、どこか遠くの方を見たり、俯いたりしてしまった。

だが、そのような状況はかえって演者と観客に緊張感をもたらし、無茶苦茶真剣に観なければ!という気にさせられた。

その緊張は、演者と観客の間(極めて0に近い距離)に薄い膜として実感させられた。

少しでも触れたら破裂してしまうような、観客が勝手なマネをしたらその劇の世界観は一瞬で崩壊してしまう、そんな脆弱な薄い膜。

重要なのはその膜は決して観客まで包みこまないということ。

どんなに演者と観客の距離が近くても、観客はその作品の世界の一部にはなれず、その両者の間には一線を画す、深い溝が横たわっている。

観客(みる者)と演者/作品世界(みられる者)がどんな条件下でも、決して交わることはないのではないかと、そんなことを思わされた空間づくりだった。(というか至極当たり前のことを言っている気がするな)

 

あともう1つ思ったのは、果たして、良い演技/悪い演技、というのはなにで決まるのか、というものだった。

正直僕はそこらへんの評価基準が全く分からない。

というのも、劇終了後、一緒に観に行った友人と、どの役者さんの演技が良かったか、という話になった。

その友人は、僕の目から見たら、一番劇団員っぼい、つまり、一番芝居がかった、大げさな演技をしている役者さんを好評価していた。

正直、僕にはその役者さんが、よくいる劇団員の「それ」の真似ををしているだけに見えてしまっていた。

というか、そのような演技はすごくわざとらしく、胡散臭く思えてしまう。

そもそも、劇団員の象徴的演技が、果たして「良い演技」といえるのかどうか、僕にはわからない。

 

平田オリザ著「わかりあえないことから-コミュニケーション能力とは何か-」の中で、なぜ演劇は、わざとらしく、胡散臭い、芝居がかった演技のように感じるのかの一端が述べられている。 

20世紀初頭の日本の近代演劇成立は、チェーホフの戯曲を象徴とする、西洋の近代演劇を輸入してきたことに端を発する。

輸入してきたところまでは問題ないのだが、そのまま全てを模倣してしまったところがマズかった。

つまり、欧米やロシアの言語の、「強弱ある発音」までをも模倣してしまったのだ。

日本語は、強弱ある発音をほとんど使用しない。

日本語の特徴というのは、様々な語順で話しができるというところにある。

そして、言葉を強調させたい場合、その言葉を語順の先頭に持ってきたり、もしくはその言葉を「繰り返し」使用することでそれは可能となる。

これらが日常で使用されている日本語の本来の使い方である。

また、「冗長率」と「対話」についても触れられていた。

「冗長率」とは、平たく言えば文章の中の「無駄の頻度」のことだが、「会話」、「演説」、「スピーチ」、「対話」などの様々なおしゃべりの中で、一番その頻度が多くなるのが、「対話」であるという。

一見すると「会話」の方が「無駄」が多いように思うが、「会話」は、知った仲での気の使わないコンテクストの中で言葉が使われ、「価値観の擦り合わせ」が不必要な場合が多い。

一方「対話」は、「価値観の違う」者同士のコミュニケーションのやりとりのことなので、相手と話す時、「えーと・・・」とか、「あの・・・」、とか「まあ・・・」、とか「つまりその・・・」などの、慎重に話しを進めようすとする際に自然と出てきてしまう、「冗長的言葉」を頻発する。

オリザさんは、本書の「アンドロイド演劇」の章で、人間とロボットの違いをその「冗長性」、つまり「無駄(ノイズ)」にみていて、良い役者というのは、その「無駄(ノイズ)」をいい按配に操作できる人のことだと述べている。

つまりオリザさんの話しを鑑みれば、欧米的な強弱のアクセントをつける演技ではなく、より日本人的な、語順に重きを置いた台詞回し(まあこれは脚本家に左右されると思うが)、また、「無駄(ノイズ)」を適度にコントロールできる(これは「新鮮さ」にも繋がるので、胡散臭さを脱臭できる効果をもたらす)人が良い役者ということになる。

僕はパッとはまだそのような役者さんを思い浮かべることができない。

というか、オリザさんの作品を一度観てみようと思う。

そうすれば少しはこの演技に対する疑問が解消されるかもしれない。

中途半端ですが、このあたりで終わります。ありがとうございました。