「P4radioあなたが主役の哲学」という哲学対話のYouTubeチャンネルがある。
そのチャンネルの、先日の放送回、「愚痴を言ってはいけないのか」の中で、「愚痴」の定義を考える場面があった。
そして、「愚痴」の定義を考えるにあたり、「愚痴」と似た言葉、「文句」と「悪口」をさらに加え、「愚痴」・「文句」・「悪口」、この3つの違いはそもそも何なのか、という話になった。
僕は、「愚痴を言ってはいけないのか」、というテーマよりも、その3つの言葉の違いの方に興味が惹かれた。
なので、僕なりに、動画の内容も参考にしつつ、その3つの言葉の違い、そして「愚痴」という言葉の本質を考えてみることにした。
まず、それぞれの意味を調べてみる
・愚痴・・・言ってもしかたがないことを言って嘆くこと。
・文句・・・相手に対する言い分や苦情。不服。
・悪口・・・他人を悪く言うこと。また、その言葉。あっこう。
「goo辞書」より
まあ、このように意味だけを書き連ねたところで、個々の意味は理解できるが、3つの違いは見えてこない。いや、僕が馬鹿なだけかも知れないが、このような意味だけに注目するのは、実感に即していないような気がする。
言葉を理解するには、その言葉に纏わり付いている、類似する言葉達を排除し、その言葉を浮き上がらせることで、その輪郭を明確にすることができるのではないだろうか。
それを行うためには、どのような時にその言葉を使用するか、という、実感を伴ったやり方が効果的だと思う。
なので、以下、僕なりの実感を伴ったやり方で、浮き上がらせていこうと思う。
まずは「悪口」から考えてみる
「悪口」は僕の感覚からすれば以下の表現になる。
「文脈なき悪意ある言葉の表出」
勿論敢えてカッコつけた表現にしている。なぜなら僕はカッコつけたがりだからだ。
という冗談はさて置いて、例えば、「あいつは、デブだ」、「あいつは、バカだ」、「あいつはブスだ」、「あいつはノロマだ」など、文脈を持たない、ただただ悪意ある言葉を口から出す行為のこと。
そしてその行為は、その悪口の対象者に直接言っても構わないし、関係のない第三者に言っても構わない。
ではそこに、文脈を持たせてみる。しかも「不満的」文脈だ。
・「あいつはバカだ」に、不満的文脈を持たせる。
「あいつはバカだから、仕事ができない。そのせいでオレに皺寄せがきて困ってるんだよ」
・「あいつはノロマだ」に不満的文脈を持たせる。
「あいつはノロマだから、仕事が遅い。そのせいで仕事の効率が悪くなり、捗らなくて困っている」
このように、「不満的文脈」を持たせると、その文章は、単なる悪口では無くなり、その人は、「不満を言っている人」になる。
このことにより、「悪口」と、「文句・愚痴」に線を引くことができる。
次は「文句」と「愚痴」の違いを考える
では次に、「文句」と「愚痴」の違いである。
分かりやすいところで言えば、「文句」は、不満を感じる対象者に「直接」言えることができるが、「愚痴」の場合は、必ず「第三者」に向けてか、もしくは「独り」で言わなければならなく、不満の対象者に対しては決して言うことができない、というところだろう。
例えば、とある飲食店での接客に不満があった場合に、店員に、
「もう少し丁寧に接客いただけますか?」
と言う。
これを「愚痴」と、捉える人はまずいないだろう。
この時点で、「文句」と「愚痴」の大きな違いを明らかにしたように見えるが、しかし「文句」も、「愚痴」と同様、場合によっては、「第三者」に言える場合があるように思う。
上記の飲食店を例にすれば、接客に対する不満を、その店員にではなく、その店のクレームセンター(第三者)に直接言う場合などは、文句になるだろう。
また、全く関係のない、例えば、友人(第三者)などにその不満を言う場合も、文句と捉えることができる。
例
僕「この間、飲食店での店員の態度がめっちゃ悪かったんだけど、どうにかして欲しいもんだよ」
友人「いや、オレに文句言われてもな。オレその店員じゃないし」
と、友人は返答することが可能である。
以上のことを踏まえると、「誰」に向かって言うかは、「文句」と「愚痴」の明確な線引きにはならないというか、本質に近づいてはいないように思う。
僕が重要だと思うのは、「誰に」ということよりも、「なぜ」そのような不満を言ったのか、その「目的」のような気がする。
文句の場合の「目的」を考えてみると、自分が感じた不満を、その対象に「伝えたい」、そして、「改善してもらいたい」という、「能動的意志」が感じられるように思う。
飲食店の場合で考えてみると、「店員の態度が悪かった」という文句は、「悪かったので、改善してほしい」という、その人の願望が、意志が含まれている。
では、「愚痴」はどうだろう。
「愚痴」は、決して不満の対象者に直接言うことがないことから鑑みるに、その対象者に伝える意志はまずない、そしてもっと言えば、その「愚痴」を言っている間は、「改善してもらいたい」とも思っていない。
もし、それらの意志があるならば、それは「文句」になるだろう。
では、「愚痴」はなんの「目的」で言うのか?
それは、「ストレス発散」のためではないだろうか。
取り合えず、自分の中にある不満、モヤモヤを言語化して吐き出したい。ただただ身勝手な感情の吐露、まさにストレスの発散。
これは極めて利己的な、自己満足的な行いである。
最初に調べた愚痴の意味、「言ってもしかたがないことを嘆くこと」は、一見すると、なんだかとても冷たい表現に感じる(動画内でもそのような感想を言っていた)。
しかし、以上の、「ストレス発散」や、「利己的・自己満足」という言葉、もっと言えば、「改善するつもりのないことをただ自己満足的に口から出す、それだけの虚しい作業」。これらを踏まえてから捉え直すと、その冷たい表現も少し納得してしまうところがあるのではないだろうか。
そしてそれ故に、本動画でも、「愚痴を言ってはいけないのか」という、どこか後ろめたさのあるテーマが持ち上がってきてしまうのかもしれない。
以上で概ね、「悪口」・「文句」・「愚痴」の違いを説明でき、そして「愚痴」という言葉を浮き上がらせることができたように思う。
まとめ
・「悪口」・・・文脈のない、ただただ悪意のある言葉の表出
・「文句」・・・不満的文脈を持った、対象者へ向けての、「能動的意志」を持った言葉の表出。苦情。
・「愚痴」・・・不満的文脈を持った、決して対象へ言うことはない、利己的・自己満足的性質を持った、不満の吐露。ストレス発散行為。
最後に
僕の意見としては、「愚痴を言ってはいけないのか」に対しては、「別に言ってもいいと思う」という立場だ。
ストレスを無理に溜め込むのは良くない。吐き出したければ、好きなだけ吐き出せばいいと思う。
しかし、吐き出すのは自由だが、その吐き出されたものを受け取る第三者もいる。
大抵の人は、その全く関係のない不満を快くは受け入れないだろう。
僕は感情は伝染すると思っている。
なので、愚痴を吐く人は、せっかく聞いてくれている人を、自分と同じような感情にさせてしまうこともある、ということを念頭に置いて、存分に愚痴を吐けばいいのではないかと思います(冗談です)。
それにしても、この哲学対話のYouTubeチャンネルは面白かった。
内容がどうこうではなく、自分も一緒になってそのテーマを考えることができるという、そのシステムが良い。
しかもその動画が終わった後でも、なおそのことを考え続けることができ、長時間知的遊戯を体感できる。
このようなYouTubeチャネルは、知的エンターテインメントとして、今後流行るのではないかと、そんな風に思いました。
みなさんも、ぜひ聴いてみてください。
ありがとうございました。