ハイハイで散歩中

面白いと思ったものをただただ紹介したり、またはただの雑記に成り果てそうです。

ハイハイで散歩中

深夜のコンビニは夢心地-「道徳」や「義憤」がわからない-

f:id:nocafein:20200217023915j:plain

 

深夜帯に家の近所のコンビニに行くと、決まって70歳代と思しきおばあさんが接客をしている。

そのおばあさんは、深夜ということもあってか、いつも眠そうに接客をしている。

というか、僕がレジに商品を持ってくるまで、立ちながら眠っている。ギリギリまで睡眠を摂りたいタイプなのかもしれない。僕と同じだ。

その寝方は、様々だ。

レジのキーに手を掛けながら眠っていたり、頭を抱えながら悩ましそうに眠っていたり、「今年は何センチいきました?」と聞きたくなるような、頭が膝に付きそうになるくらい腰を曲げている立位体前屈スタイルだったり。また、レジに誰もいないと思って見回してみると、隅っこの方で立位体前屈をしていたり。そのバラエティの豊富さはまるで幕の内弁当や。


そして「すいません」と僕が声をかけると、「あっ」と言って、商品をスキャンし始める。

もう僕はその光景に慣れっこになってしまった。

そのおばあさんは、直前まで居眠りはしているものの、ミスなく仕事はちゃんとこなしてくれる。しかも老婆心で持って、とても親切で、丁寧に、真摯に対応してくれる。

だから、僕はいくら居眠ろうが、全く気にしない。

しかし心配なのは、その時間帯に決まって一緒にシフトに入っている青年に、いびられていたり、または上司にチクられたりして、クビになってしまうんじゃないかということだ。

客として接している時には見えてこないが、いざ一緒になって働いてみると見えてきたり感じてきたりすることだってあるだろう。

青年がストレスを爆発させないことを祈る。

                 
                  

                  



ところで、初めておばあさんのその居眠りスタイルの接客を受けた時、僕は驚いたというのもあって、少々高揚した。

そして高揚ついでに、コミュ力も少しUPしていたのか、僕はおばあさんを起こすついでに、超直近の状況を聞いてみた。

「この時間帯は、眠くなりますか?」

すると、

「はい、特にこの時間はね。本当に辛いですよ」

 

僕は意外な答えが返ってきたと思った。

というのは、僕は当然のごとく第一声に、「すいません」だとか「ごめんなさい」的な、眠っていたことに対する謝罪の言葉を聞けるものだと思っていた。

勿論僕は、そのために話しかけたのではない。皮肉ではなく、純粋に、というか、少しユーモアのニュアンスを含めつつ、おばあさんを労いたかったのが本心だ。

まあ、だからと言って、そのおばあさんに対する気持ちは変わらず、そのまま僕は、「そうですか。大変ですね。この時間帯に働くというのも」そして、別れ際に中島みゆきの「ファイト」的な言葉をかけて、その場をあとにした。

 

これが、おばあさんではなく、若い青年だったら僕は同じような感情を保てていただろうか。

僕が青年に同様の質問を投げる。すると、

「そうっすねー。この時間帯が一番きちーっすわ。マジ吉之助っすわ」

そんな風に返されたら、持っていたチャーハンおにぎりを投げつけそうになるかもしれない。

ここで重要なのは、いくらその青年が寝ていようが、ミスなく対応してくれれば、僕は全くの無害であるということだ。

なのに僕は、その返答に、チャーハンおにぎり及びオムライスおにぎりを投げつけそうになってしまう。

 

これは、「義憤」というやつだろうか。

 

義憤・・・道義に外れたこと、不公正なことに対する憤り。「goo辞書」より

 

 

 

恐らく違うと思う。

 

僕はそんな、「仕事中に居眠りしていた=道義に外れたこと」に憤りなど感じていない。

だってその行為は、全く僕に無関係だからだ。

ではなぜ、チャーハン・オムライス・そばめしおにぎりを投げつけたくなるのか。

それは、その青年の「鈍感さ」、「無神経さ」に腹が立つからだと思う。

ということは、おばあさんの時には純粋に労いのつもりでかけた言葉も、青年の場合は、若干の皮肉も込めて「この時間帯は眠くなりますか?」と問うてしまうということかもしれない。

だから、その皮肉に気付かずに「マジ吉之助っすわ」と言った彼の鈍感さ、無神経さに腹が立つのだろう。

 

違う場面で考えてみる。

例えば、タバコのポイ捨てだったり、禁煙区域で吸っている人を目撃した場合。

そのルールを犯しているそのことに向けて憤るのだろうか。

いや、恐らく、ポイ捨てするそいつの無神経さだったり、禁煙区域で我が者顔で吸っているそいつの「顔」だったり、そのようなフィルターを通してみる「容姿」、その「雰囲気」、その「感じ」に対して腹が立つのではないだろうか。

または、こういう場合もあるだろう。

自分がちゃんと守っているルールを、ある人にいとも簡単に破られてしまった時などは、自分が今までやってきた行いの無駄さ、徒労を埋め合わせるために、その人を憎むということもあるだろう。

つまり、道義に外れる行為、または道徳に外れる行為そのもの自体に憤ることなんて、果たしてあるのだろうか、ということだ。

 

さらにもっと言えば、「道徳」というもの自体、世の中にあるのだろうか。僕は今一つその言葉を認識できないでいる。

「道で老人が困っていたら助けようと思う」

この文章だけ見たら、それは「道徳」的行為なのかもしれない。

しかし、その中身を覗けば、老人を助けようと思った動機が様々現れる。

それは、優しさで助けようとしたり、または哀れみで助けようとしたり、または助けなければ自分が自分でないような気がしたり、または助けなければ「ならない」という自分のポリシーに準じているだけだったり、または助けなければ冷酷な人と周りから思われてしまのではないかという不安からだったり、または助けなかった時の罪悪感に苛まれるのが嫌なだけだったり。その動機は様々だ。

この動機を一切無視して、ただその結果の「助けた」という行為のみに着目して、それを「道徳的行為」と呼ぶのだろうか。

なんだか、「道徳」とは、単なる器の言葉でしかないような気がしてくる。

「道徳」とは一体なんだろう。

いまひとつ、わからない。

まあ、今僕にわかっていることは、おにぎりは投げない方がいい。ということです。


終わりです。

ありがとうございました。