ハイハイで散歩中

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ハイハイで散歩中

日本文化

海外からの観光客を街中で見かけるのは珍しくない。そして、その海外の観光客が、日本に溶け込もうとしている光景を見るのも珍しくない。
以前僕は電車に乗っている時、ハートフルな場面に立ち会った。
電車内は空いており、僕は長座席の端に座ることができていた。僕の斜向かいの座席は優先席で、そこに海外観光客のカップルが座っていた。電車がある駅に停車すると、開かれたドアから、やや腰を曲げた老夫婦が乗ってきた。それを視認するやいなや、海外観光客の二人はすぐに立ち上がり、カタコトの日本語で、「スイマセン、セキ、ドウゾ」と、老夫婦に歩みより、優先席までガイドして座らせてあげていた。老夫婦はとても嬉しそうに「ありがとう」といい、臆することや、憚ることもなく、自然に行為を受け入れ、着席した。その老夫婦は日向に当たっているように幸せな表情を浮かべていたし、席を譲った観光客も満足気(という表現は微妙にニュアンスが異なるかもしれない)で、嬉しそうであった。
僕も、その光景は心温まったし、なにより観光客の、少しの逡巡もなく老夫婦に声をかけ、そして席まで付き添うという、その健気で殊勝な態度に、心の底から嬉しくなった。
僕は海外観光客が、お年寄りに席を譲る行為や、食事の前に律儀に手を合わせて「いただきます」というポーズをとるのを見かけた時、日本人より、とても日本人らしいなと思う。
恐らく観光客は、そういう日本人の礼儀や作法をとても重要なこととして捉えているんではないかと思う。
では何故、日本人の礼儀作法を重んじているように見えるのか。
大胆な考察になるかもしれないが、それは、「ルール」と「マナー」の違いにある気がする。
僕の解釈では、「ルール」は規律で、「マナー」は礼儀、と考えている。
もう少し具体的に言えば、
・ルールとは・・・普遍的で全員が守らなければならない規律。しかもそれを守らなければ罰を受ける。
・マナーとは・・・各々の価値観、尺度で守っていく相対的な礼儀。守らなくても罰は受けないが、周りの人が不快な思いをする。この不快感も各々の価値観、尺度による相対的なもの。

観光客の問題を、この、「ルール」と「マナー」にあてはめて考えてみる。
観光客は日本の礼儀作法を「ルール」と捉えている節があると思う。「ルール」と捉えているから、その「ルール(礼儀作法)」を守ろうとするため、律儀に行うのかもしれない。
その点、僕ら日本人は、「マナー」と捉えている。それを守らなくても罰は受けない。
ここで、人間の本質が垣間見える。
「ルール」の場合は、守らないと罰を受けるので、「守らなければいけない」と思うが、罰を受けない「マナー」になると、乱暴な表現になるが、「守らなくてもいい」というオプションが追加される。
「守らなくてもいい」というのは、「行動しなくてもいい」に発展するので、そうなると、怠慢を起点とする人間は、必ず、「行動しなくてもいい(そして行動しない)」を選択する人が出てくる。
しかも、ややもすると自分の世界に入り込んでエゴの塊と化す、そんな人たちで溢れかえってしまう電車内なら、尚更その選択をするだろう。
また、先日のブログ内容と重複するかもしれないが、「ルール」を守るのに「勇気」は必要ない。「ルール」に言及しようとした時点において、足元を見れば、僕たち(当然他者も)は、とても頑丈な「ルール」の上に立たされてしまっている。だからどんな行為もそのルール上での行為でしかない。それは、自明(このことは揺るぎない、とても強固なものにする)のことと了解しているので、その自明の強固な「ルール」を守るのに「勇気」なぞ介入できない。
しかし、「マナー」は違う。とても曖昧模糊としている。足元を見たって、自分が立っている世界の現実があるだけだ。直接、自分の足で、世界を歩かなければならない。ここでは、他者とも別の世界の地面を歩いている。だから、世界(他者)に触れようとするには、自分の世界から脱しなければならない。そこに「勇気」が必要となってくる。

周りを気にし過ぎる日本人にとって、「マナー」を守るには、少し勇気が必要だ。
お年寄りに席を譲る行為。
道端に落ちたゴミを拾う行為。
道端に倒れている自転車を起こす行為。

まあ、周りなんか気にしなければいいのだが。
自然にこういう行為ができるような大人になりたいと思う、今日この頃である。