荷物をたくさん携えながら不恰好に全速力で駆ける冴えなそうな青年。それを見て冷ややかに嘲笑する女子高生達や若いサラリーマン達。各人が自分を世界の中心と考えるならば、嘲笑した奴らは間違いなく彼を世界の端っこに位置付けるだろう。
そんな目立ち方しかしない人達に照明を当てた映画も数多く存在する。榮倉奈々や谷村美月、他若手俳優が主演している「檸檬のころ」もそうだ。そしてその映画の中で、普段は目立たない谷村美月演じる女子高生が、想いを寄せている男の子の元へ全速力で廊下を駆けるシーンがある。そして周囲の高校生達はそれを見て嘲笑する。
僕達観客は彼女が全速力で廊下を駆けるに至ったプロセス、ドラマを知っているが、劇中世界の高校生達はその側面しか見ていない。その少女にはとても感動的なドラマがあるのに周りの奴らはそのことに気づいていない。僕はこのシーンがとても好きだ。
この映画的考え方を現実世界に当てはめてみる。すると、僕達は自分以外の人間(あるいは森羅万象)の側面しか見ていない、見ることができないことに気づく。このことは、人間関係の下らない「いざこざ」だったり、カッとなって人を殺してしまう事件やらに役立てることができる。
側面しか見れないのなら、冷静な客観の中でその人のプロセスを想像してみればいい。過失の原因は早合点と想像力の欠如だ。そして今見ている人全員は、色々なプロセスを経た、その人の最新版なのだ。そしてそれが常に更新されていく。そして僕がつまりなにを言いたいかというと、
たまには映画的見方で世界を捉えてみるのも良いということと、可愛いのに走り方が変な女の子を見た時は、結構がっかりする、ということ。