ハイハイで散歩中

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「言葉」という頼りないものへの依存、そして「洗脳」について

歩を進めている際、道が交差する場所において、脇から車が現れ、歩行を促すために待機しているその車を横目に小走りで道を渡る際、どんなに粋がっていてもこうやって社会の大きな波に流されて(または呑まれて)しまうんだとメタファー的に思ってしまう今日この頃、「洗脳」について思ったことがあった。(この『「洗脳」について〜』の一文のすぐ手前の見出しの文章『歩を進めている際〜今日この頃』と、「洗脳」についての話しとの因果関係は現時点で見つかっていないので、独立したロジックで発生し、あるいは、しばしば進行中にナンセンスなボケを理不尽に挿入してくる、話しを脱線させる形式の漫才のそれのように思っていただいて一向に構わない。つまり本題に入る前のアイスブレイクだ。なんかオレうざいな)

「洗脳」についてイメージすることと言えば、宗教関係であったり、占い関係であったり、なにかそのような、日本的に言えば「胡散臭い」(全てがそうだとは勿論言っていない。ただ、日本では《宗教》や《占い》などの言葉を使用する際、しばしば軽蔑のニュアンスを含んで-僕も含めて-言うことがあることは確かだ)類のものによって、ある特定の人が、ある時点を基軸とし、それ以前、それ以後、のように、人が変わってしまったように見える事象のことを想起すると思う。
そして、大抵の場合、人が変わったように見える「行い」を理由に「洗脳」という言葉を導き出し、そしてその言葉は、多数派と少数派という善悪の判断の構図を孕んでいる。
「洗脳」されたと思われている人は、少数派に位置付けられ、そしてその人は善と悪で言えば、悪となる。
一旦そのようなレッテルを貼られてしまった人は、ある一定期間、もうそのような人にしか見えなくなる。
正直、自力でこの印象を剥がすのは不可能のように思われてくる。幾らそのことを否定したところで、全ての言動は、「洗脳されているように見える者」から発されているのであり、結局「洗脳されているように見える者」へと帰着する。
これを脱却するには第3者の証言が必要になるが、よっぽどその第3者が世間から信頼されていないとそのイメージは払拭されないし、もしくはその第3者を持ってしても難しいかもしれない。
そもそも言葉というものは頼りないもので、真実を証明するには不向き極まりない。まごうことなき真実を語っていたとしても、受け手次第で簡単に虚言にされてしまう。
そんな脆弱なものに僕らは依存している。言葉は絶対的なもの、つまり真実に辿り着けない。だから厄介なのだ。
「善悪」についても同じである。本当の善悪などない。今のところは、その対立している問題の外から見た場合(メタ見地)は、多数決に依拠しているように思える。
だからもし、現在少数派の意見が、なにかの変化(例えばパラダイムシフト的な)により多数派になった場合、その多数派は善とされうる。
ただ、その対立の当事者、枠内から見た場合、その当事者が善と思っているなら、もう一方は悪とされる(する)。当事者見地からは多数決ではなく、本人の感情、本人の恣意的な意志により判断される。
ただ、自分から離れ、客観視(メタ)し始めた途端、多数決に依拠してしまう。
これは、他人の意見をエビデンスにしているという、つまり客観的な(真実的な)善悪などないことが原因で、結局人間が後から勝手に作り出してしまった概念(言葉)であり、結局のところこれもまた頼りない、脆弱な言葉ということになる。
つまり真実には辿り着けない。

以上を踏まえた上で、僕が思うことは、「洗脳」されたように見える人の言動が少数派で悪とされていたとしても、本当のところそれが悪とは客観的(メタ的)には判断できない。とすれば、多数派の善とされている側も悪と解釈し直される可能性がある。
そしてメタ的に考えれば、多数派の善とされている側が、そもそも何者かによって既に「洗脳」されていると考えることもできる。
つまり、別人になった相手が洗脳されたのではなく、むしろその相手は、今までかかっていた洗脳が解けたとも考えることができる。
僕が言いたいのは、全ての物事は懐疑の目で見ることができるということだ。
なぜそれは善いこととされているのか。または悪いこととされているのか。
重要なのは、問いの立て方だ。
「なぜそれは善いのか」では答えは出ない。
「なぜそれは善いこととされているのか」だ。
この考え方は、小浜逸郎著「なぜ人を殺してはいけないのか(羊泉社)」から学んだ。
興味のある方は読んでいただきたい。
とにかく、自明のことを、新鮮に捉え直し、そして考えてみると、なかなかどうして自明とは言い切れないことも、この世界にはあるということだ。
なんだこの締めは。

了です。