ハイハイで散歩中

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ハイハイで散歩中

周りがスマホに目を落としている人間ばかりの場合ぞっとする、という話から村上春樹の話まで

電車の中でふと気付くと、乗客のほとんどがスマホに目を落としている時があり、その光景を目にするとぞっとする。
これを、乗客が手にしているものを文庫本や新書本、あるいはハードカバーの書籍に変えてみれば、たちまち、みんな勤勉だなー。と感心させられる光景に様変わりすると思う。
これが漫画の類だったらどうだろう。
そんなの読んでないで勉強すればいいのに。と思うか、あるいは僕もその漫画を覗きに行けるポジションに移動してしまうかもしれない。
では何故、スマホの場合、その光景がぞっとするような、気味が悪いような感じがするのだろうか。
以前の記事で、電車の中での乗客同士の会話はスルーできるのに、スマホやガラ系の携帯電話での通話は何故不快に感じてしまうのか?という内容を扱った。
これは、人間は無意識に人の会話を理解しようとする生き物らしく、電話での会話の場合、外からは一方的に話しているように見え、その話の内容を理解することができないことから不快感を抱く、というものだった。
この話しのソース(情報源)は、ラジオのリスナーさんで、さらにそのリスナーさんもうろ覚えらしい。だから極めてエビデンス性の低い話なのだけど、僕は結構、そうかもしれないな、と納得してしまった。

nocafein.hatenablog.com

この理論でいえば、スマホの場合、スマホをいじっているのは分かるが、その先、なんの目的でいじっているのかこちら側には分からない。見えるのは、機械的で(的というか、機械だが)、無機的なスマホ。そしてそのスマホからは表情(情報)が見えない。なにか得体の知れないものに目を伏せていて、そしてその当人も得体の知れないものに見えてくる。だからそのような得体の知れないものへの理解のできなさから、ぞっとさせるような光景に見えるのかもしれない。

このことは、「情報の不透明性」といえることもできる。
そして、その「情報の不透明性」問題は、人間関係にも当てはめることができる。
人間は他者と遭遇した時、その他者から何らかの情報を見つけ、読み取り、理解しようとする。

・笑顔を絶やさない人だったら、陽気な人なんだな。とか。
・ずっとイライラしている人だったら、怒りっぽくて器の小さい人なのかな。とか。
・伏し目がちに話す人は、人見知りなのかな。など。

上に挙げた各例の、表層から導き出される結論の真理はどうあれ、読み取った情報から自分なりの結論が導き出せるということが重要なのだと思う。
これが、仏頂面、あるいは無表情だった場合、いわゆる、「なにを考えているのか分からない」タイプの場合。そこから情報が読み取れず、「~な人」と結論付けることができない。
人間は、輪郭をハッキリさせたい。つまり曖昧なものが嫌なのだ。

脳科学者の茂木健一郎が、村上春樹に関連して、小林秀雄の言葉を引用してこのように言っている。
「人間というものは生きている内は頼りないもので、死んでしまうとハッキリしてくる。そうすると、生きている人間というのは、人間になりつつある一種の動物かな」(小林秀雄引用部分)
「小林秀雄や夏目漱石は死んでいる。だから⦅夏目漱石⦆っていうとハッキリしてる。だけど『村上春樹』っていうと、まだなにやらかすか分からない。まだしっかりした感じにはならない。だから『生きている村上春樹』は、⦅村上春樹⦆になりつつある一種の動物かな」

 と、実際の茂木健一郎の言葉とは若干異なるところもあるかもしれないが、概ね相違ないと思う。

つまり、生きている間の村上春樹に対して、「村上春樹はこういう人間だ」という結論は出せず、死んでから全うな評価が下せるということだろう。
ただ、人間は、生きている間だろうが、死んでからだろうが、その瞬間に結論付けたい生き物だと思う。その瞬間に消化したい。理解したい。だから作品を出す度に色々な意見が飛び交い、そして「村上春樹解読本」系の本が出てきたりするのだと思う。勿論これだけ売れてしまっている作家だということが大前提としてあるが。

少し話が逸れてしまったが、人間というのは、モヤモヤしたものが嫌で、ハッキリ結論付けたい生き物なのだ。
だから人間関係においても、情報を不透明にするより、少しでも情報を開示してあげると、円滑に関係を築くことができるのではないかと思う。
まあその情報が、嘘であれなんであれ、その場においては取り繕うことはできるのではないかと思う。
てへぺろです。