清水富美加さんのことで、メディアは連日騒ぎ、扇情的な放送をしている。だから僕もそれにあやかって、記事を書かせてもらう。
恐らくこのような記事を書く時は、結論を書かず、その内容の趣旨から少し外れた事柄について書くことが得策のように思われる。
というより、今回のような問題は、結論が出るようなものでもないし(少なくとも現時点では)、ワイドショーなどを観ていると、結局なにが問題なのだろうか?と、一体自分はなにを観させられている(あるいは観ている)のだろうと、ある種、茫然としてしまう。
色々な事象が表面化されている。発信者側はそれを言葉で捉えて表現する。そして受け手側もあるイメージを持ってその言葉を受容する。
例えば「電撃引退」、「宗教」、「体調不良」、「幸福の科学」、「清水富美加」など。
人間は、コンテクスト(文脈)上の言葉を、あるイメージを持って受け取る。この場合の「引退」や「宗教」、「体調不良」は、ある種の憶測を呼ぶようなニュアンスを伴って受け取る人が多いだろうし、このような言葉に1度肩を並べてしまった「清水富美加」は、今回のコンテクスト以外で、もはや単体それだけでも、当面の間、そのようなニュアンスを伴うことは不可避だと思われる。
つまり、僕達は言葉を使用して、あらゆる事柄を捉えている。
そして、メディア、とりわけワイドショーなどで(センセーショナルに)取り上げられると、そのような独特なコンテクストが作り上げられ、全ての言葉たちはその土台の上で語られなければならない。
そして、その言葉達を囲うように芸能人達が様々な意見を述べ、闘わせたりする。
これらを観ていると、あたかも結論のようなものがあって、それに辿り着こうとしているように見え、アカの他人なのに、なんだか深刻な問題を抱え込まされたかのような神妙な空気を作りあげているように見える。
そして、観ている僕達もなんだか深刻な問題なんだな、という気分にさせられる。
だが、そんなものは錯覚である。
何故なら、この問題にそもそも結論などないし、というより、これは少なくとも僕達の問題ではないからだ。
演繹的に結論を導き出そうにも、まず前提の「Aが真であるならば〜」の前提が強引にでも立てることが不可能なほどに、僕達の手に真実がない。全くもって不透明である。真実は当人同士にしか分からない。だから当人同士が揃って初めて「問題」になるのであり、そして「結論」に辿り着くことができる。
したがって、アカの他人によるワイドショーなのでこのような問題を取り扱うこと自体、僕はおかしいと思っている。
実際観ていて、坂上忍あたりがなにか意見を言って、それに対して小島慶子あたりが一応なにか言ったあと、「でも具体的には全然わからないから判断できない」のようなことを言っていて、これは一体何なのだろう?と思ったりした。
思ったりしたが、その中でも、小島慶子や、高橋真麻の発言には好感が持てるものもあった。
特に高橋真麻の、「事務所側の言い分と、教団側の言い分、つまり両者の言い分が仮に全く同じでも、(本当は)違うかもしれない。だから結局真実はない・・・」
僕も真実はない、厳密に言えば、辿り着くことはできないと思っている。
つまり、当人同士以外の第3者・外野の人間には、いわば懐疑論者的に、どこまでもそれを(とりわけ言葉なら尚のこと)疑うことができてしまう。それに、当人の場合だって(遠い昔の記憶を歪曲してしまうことがあるように)、それを真実と思い込んでいるに過ぎない可能性を否定することができない。まあ、それは究極的な可能性なので話が飛び過ぎているかもしれないが、少なくともスタジオで議論しているだけでは真実には辿り着けないと思う。
だからもし、少しでも近づきたいのであれば、本人に直接会って、言葉ではなく、表情や、目に見える動作など、理屈ではない、皮膚感覚的に受け取ることができるその「なにか」を求めに会いに行くしかないように思われる。当然、それもとても曖昧模糊として頼りないものに変わりはないのだが、言葉よりは、信用できるように思う。
結局、僕らは、あるどこかの時点で踏ん切りをつけ、「信じる」ことをしなければならない。それは、ほとんどの人が、目の前のコップが本当にそこにあるのかどうかを気にすることなく盲信しているのと同じような意味で。
話を戻すが、あと一つ、バイキング内で気になった発言があるのだが、ヒロミが「(事務所側と教団側、そして清水富美加側に対して)絶対もっとやりようがあった。もっといいベストな落とし所があったと思うんだよな」というようなことを言っていた。
これは、別にヒロミの意見を否定するつもりはないし、正直僕も良いとは思っていない。だが敢えて思考を広げるために言うが、「ベストな落とし所」というのは、つまり妥協点ということだが、これはヒロミが思う「ベストな落とし所」ということになる。もしかしたら、現状起こってしまっている事象が、当人同士にとっては「ベストな落とし所」であるのかもしれない。
ここで思ったのが、何故か僕達は、両者が円満に、またはお互いが譲歩して、少しでも円満に近づくことを、「良い落とし所」と考えている節があるのではないかと思う。
その円満さを構成する要素は、礼儀だったり、社会的常識だったり、あるいは不文律だったり、芸能界のルールだったりするだろう。
小島慶子が、「もし仮に(清水富美加の)言っていることが本当だとしたら、芸能界での働き方や、まかり通っている独特なルールを考え直さなければならない」、と言っており、これは、今回の清水富美加騒動とは関係のない、社会一般の話に敷衍させて考えてみると、誠に興味深い意見であると思った。
というのは、通念や観念は不変ではなく、その都度変わる。だから芸能界のルールも、坂上忍やヒロミが言っていたことも、あと数年後にはガラッと変わっているかもしれない。
また、同じような意味で、礼儀や社会常識も変わる。
僕達は大人になるに連れて、礼儀や常識を身につけてしまう。だがそれは、実は社会にそのように洗脳されてしまっているのかもしれない。それが良いことである、と洗脳されているに過ぎないのかもしれない。もしかしたらそれはいつの日か、そのかけられた洗脳が解けるのかもしれない。
だから大人になるということは、深く深く洗脳されていくこと、という風に言えることもできるかもしれない(かもしれないを頻発し過ぎているかもしれない)。
ただ、ここまで書いてきて思ったことがある。それぞれにはそれぞれの立場というものがある。
例えばテレビで言えば視聴率を稼ぐこと。そしてそのテレビ番組に出ている出演者は、その番組に出ている以上なにかを発信しなければならない。そうすることでお金を稼いでいる訳だから。
人は生き続けている(存在している)限り、物理的にどこかの場所を必ず占有しなければならない(確か、ある小説家がそのようなことを言っていたと思う)。これは無形的に考えると、人は生存するため、またはアイデンティティを確立するためには、必ずある立場を取らなければならないとも考えることができる。
テレビは視聴率を取らなければならない立場、出演者は、番組を盛り上げ、それによりお金を稼ぐ立場、そして、僕にしたって、別に書かなくてもよい筈なのに、この記事を書く立場を占有してしまっているし、おまけにワイドショーを不毛な議論というふうに批判しているクセに、それを利用し記事を書いてしまっている。
そして、この記事を書くことにより、誰かをどこかに追いやっている可能性もある。
そのように考えると、この世界は、椅子取りゲームのようなものなのかもしれない。
そして、どうも僕達は、対岸の火事を見ることが、つまり第3者的な野次馬の立場を占有することが好きなようだ。
という、清水富美加騒動から少し外れた事柄の感想を述べ、僕の落とし所とさせていただく。
てへぺろです。
っていうか暴露本出たんかい。