ハイハイで散歩中

面白いと思ったものをただただ紹介したり、またはただの雑記に成り果てそうです。

ハイハイで散歩中

善い行いだろうがなんだろうが、そのように思うんだったら、思い立ったが吉日だよね。って話

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やはり電車内は、日頃どのように生活しているかが試される場所であるように思う。

先日、僕は電車内の自動ドア付近に立ってブログを読んでいた。
やがて電車がとある駅に停車し、また出発しようとした時に、僕の背後で、
「ちょっと、お兄さん!落としましたよ!」
という、おばあさんの声がした。
僕が後ろを振り返った時には、通路の床に、持ち主を見失った財布が違和感を纏いながら落ちていた。
その直後、反対側から、ガコン、というなにかがぶつかる音がした。
僕は音のした方に顔を向けると、車両から車両へと移動しようとしている子供連れの女性がいた。
その女性は、刹那前に自分で開けたはずなのに、言うことを聞かずに再び元の位置に戻ろうとしている閉まりかけのドアに、乳母車をぶつけながら進んでいる最中であった。
もう少し具体的に書くと、5歳くらいの子供2人を連れ、おまけに1人の赤ん坊を片手で抱えているので、必然的にもう一方の手で乳母車を押すハメになっている。
しかも、その近くの座席には旅行者の大きなキャリーケースが通路を占有しており、母親の行く手を絶妙に阻んでいた。

一方、反対側のお財布事件は、「お兄さん、落としましたよ!」と、誰よりも先に財布について言及したために、その財布の第一発見者にされ、暗黙の内になにか責任感を付与されてしまったおばあさんが、
「これ、どうしましょうかね。車掌さんいらっしゃらないかしら」と、同席していたおばあさんの家族に協力を要請していた。

その間も、絶賛車両横断中の家族ご一行は、ドアに乳母車をぶつけながらも牛歩のごとく、移動を進展させていた。

ところで僕はというと、両者のイベントに挟まれていて、次の一手を決めかねている最中であった。
自身の立ち位置をどうしたものか、と。
ご多分にもれず、無関心を決め込み、スマホに目を落とすことで外界と無理矢理遮断しているように見える、他の乗客と一緒の立ち位置にいくのがいいのか。

つまり、僕は出遅れてしまっている。
そして、とっくに了解もしている。
本当は、乳母車を、そして子供を引き連れている女性にさっさと救いの手を差し伸べるべきだということを。
ただ、さっさと動き出さなかったがゆえ、怠慢と、自分を正当化させる言い訳ばかりが膨張し始めており、
「いや、女性を助けようにも、一方では財布の落し物問題やってるし、そっちに気を取られて、いまや、にっちもさっちもいかないんだよ!」
「それに乳母車の女性にしたって、ああやって自力でなんとか(ぶつけながらとは言え)移動できているじゃないか。もし助けてもらいたきゃ、そのようにあの女性自身が言い出せばいいんだ!」
みたいな言い訳が無限のように出てくる。
結局、僕が最終的に下した決断は、周りの無関心を装っているようにみえる乗客と一緒になるのは嫌だったため、その女性に関心だけは示すという、もはや、「周りの乗客とは僕は違うんだ、僕はそんなシティボーイなんかにはなりたくない」、という即席のポリシーに反さなければ今回のところはオッケー。という罪悪感を抱かせない正当化の言い訳のもと、僕はその女性の一挙手一投足に目を集中させ、なにかあった時にはすぐ助けに行きます、という前提を武器に、ただただ傍観する、という立ち位置に徹する決断をするに至った。

僕が正当化するための、言い訳の牙城を建設するのに必死になっている間に、とうとう乳母車を押していた女性は、隣の車両へ移るというミッションを見事に完遂させた。
僕は半ば安堵し、建設中の牙城も破壊し、そして先ほどとは幾分軽い気持ちでお財布問題の現場を見やった。
すると、通路床には相変わらず財布が落ちたままになっており、第一発見者のおばあさんはと言えば、同席していた家族と世間話に花を咲かせていて、第一発見者の責任を放棄していた。
そしてそのままおばあさんが降りる駅になったら、ぞろぞろとその家族ごと、降りていってしまった。

財布は落ちたままである。

僕はその家族が座っていた椅子に腰を下ろし、その財布を見つめながら果たしてどうしたものかと思案していた。財布の近くに座っている若い女性は我関せずスマホに目を落としている。

どうしたものか。

電車が次の駅に停車した。

すると、駅員が、隣の車両から勢いよく駆けてきた。
そして落ちている財布を見つけ、スマホに目を落としている女性に、
「この財布、あなたのですか?」と、聞いた。
「いいえ、違います」
僕は転機がきた、と思った。先ほどまで罪悪感のせいでモヤモヤしていた気持ちを吹っ飛ばせるチャンスがきたのだと思った。
「それ、さっき〇〇駅でお兄さんが落とされていったんです」
「そうでしたか。実はさっき〇〇駅で財布を落としたという方から連絡が入ったんです。ご協力ありがとうございます」
と、僕に軽くお辞儀をして、財布を持ち、軽やかに駅に消えていった。
僕はなんだかすごく解放された気持ちになり、清々しささえ出てきた。
今の行いで、先ほどまでの罪悪が帳消しにできたと思った。
そして、駅員の対応早いな、とも思った。
きっと持ち主のお兄さんは、改札を出る際に気付いたのだろう。そしてすぐに駅員に連絡して、先ほどの駅員の軽やかな対応へと繋がったのだ。
ということは、あの第一発見者のおばあさんの、責任を放棄して財布をそのままにしておくという対応は結果的に正しかったということになるのだろうか。
いや、今回は落とした当人、そして対応に当たった駅員の行動が素早かったから良かったものの、もしかしたら財布を放置している間に、誰かに盗まれるという可能性もあるだろう。
だからなんらかの行動をとりさえすれば、例えば仮に、あのおばあさんが財布を自分の降りる駅に落とし物として届けた場合、少なくとも誰かに盗まれるということはなくなるだろう。
恐らく今回は運が良かったのではないだろうか。

また、こういう時に、コミュニケーション能力というのは大事だな、と思う。
手っ取り早く、周りにいる乗客とどうするか話しあえば、簡単に万事うまくいったのではないだろうか。
みんなこういう時、コミュ障を発揮してしまう。勿論僕だってそれに含まれる。
そして僕はこういう時、日頃の訓練が足りていないんだな、と思う。
普段から困っている人がいたら躊躇せずに行動することを心掛けていたら、こういう時も、またこれよりももっと大事な局面で、行動できる人間になれているんではないのだろうか。
その時、動き出さないで、罪悪感に悩まされ、後悔する人に成り下がらないで済むような、そんな堂々とした男に。
善いことをした後に、見返りがなかった時、一体なんのために善いことをするんだろう、と思うことがあるかもしれない。
だがそのような日々の善行は、大事な時にすぐ動き出すことを可能にする訓練なのだ、と思うようにすればいいのではないだろうか。
実際、そのような訓練をしていないと、いざという時に動かす体や頭が鈍いのが分かる。
だから、後悔したくないのなら、助けたいと思ったのなら、すぐに行動すること。
これは道徳の話しだけではなく、もっと広い意味でも、とても大事なことだと思う。
つまり、思い立ったが吉日、ということだ。
今回はこのへんにしときます。
てへぺろです。