ハイハイで散歩中

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自分であったら、「エンドレスエイト」から脱出しようと思うか、を考える

 

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前回に引き続き、涼宮ハルヒの「エンドレスエイト」関係の話を書きたいと思う。

因みに前回は、ループ世界からの脱出の仕方を踏まえた上で、要は日々の積み重ねって重要だよね。って話だった。

今回は、「エンドレスエイト」を材料にして、別の視点から、とある問いかけをしてみようと思う。

それは、「もし自分がこのループ世界に入り込んでいたら、そこから脱出したいと思うだろうか」、という問いだ。

このお話しの中では、主人公達がたまたまループしていることに気付き、そして「長門」が初回からの夏休みの記憶を全て記憶しているということ、また、「朝比奈みくる」という未来人がこのままだと未来に帰れなくなることを知っているからこそ(この2つの要因は大きい)、なんとかループ世界から脱出したいと思ったのではないだろうか。

では、幾つか条件を変えて考えてみる。

・「長門」や「みくる」の存在は考慮しない。

・記憶はリセットしない。

・その夏休みはとても充実した夏休みになっている。

以上の3点を踏まえた上で、もう1度自分に問うてみる。

「このループ世界から脱出したいと思うだろうか」

・・・僕は脱出を試みるだろう。

なぜか。

どんなにその夏休みが充実したものだったとしても、それを何度も経験していく内、徐々に味がしなくなって飽きてしまう、というのが人間だと思うからだ。

それは記憶がリセットされても同じことだ。

あくまで、ループから脱出するかどうか決断するのは、「ループに気付いた時点から、8月31日までの限定された僕」なのであって、その限定期間中は、記憶がリセットされようがされまいが関係ない。

「充実した経験」と感じるのは、それが1度きりだからこそ、そう思うのではないだろうか。

だから、それを何度も繰り返せると思った途端、その充実の色はにわかに色褪せ始める。

人生1度きりだからこそ、生きようと思う。

僕はそう思う。

 

では今度は、少し意地悪な問いかけをしてみる。

「自分が死ぬ間際だったとしたら、ループから脱出したいだろうか」

この問いかけに答えるには少し躊躇してしまう。

仮に、記憶はリセットされないまま、連続性を保ったままループされるのだとしたら、

うーん・・・やはり、脱出する方を選ぶと思う。

でも1回はループしてみるかもしれない。その後、やっぱり同じ内容を繰り返す人生は嫌だと感じ、それから脱出する方に傾くかもしれない。

何度も同じ内容なのは、やはり飽きるし、気が狂いそうになると思う。

それだったら、「ループから脱出する」という新しい目的、つまりまだ見ぬ未来への希望を、その先、死ぬことが直近で約束されていようと、僕は選ぶ。

そしてそれは記憶がリセットされる場合でも、先述したように、決断するのは「限定的な僕」なのだから、そのような理由で、ループからの脱出を望むだろう。

 

最後に、そもそもの疑問なのだが、記憶がリセットされて、再び夏休みを繰り返すことになったとして、では、記憶がリセットされる前の僕と、された後の僕は、はたして同一人物といえるのだろうか。

この記事では詳しく述べることはしないが、僕の考えでは、同一性には、「記憶」の連続性がとても重要になっていると思う。

また、誰が、その記憶をリセットされた人間を同一人物と判断するかにも大きく左右されると思う。

今回のこの記事でいえば、記憶をリセットされるのは僕で、しかもそれが同一人物かどうか判断するのも僕だ。

そのような条件のもと、僕は記憶がリセットされてしまったら、もはやその人物は僕ではないと言いたい。

やはり記憶が連続していないということは致命的で、仮に、記憶が連続している誰かに、

「あなたは記憶がリセットされていて、既に夏休みを何万回もループしています。ホントです」

と、頼りない根拠性を末尾に付属させた発言をされたとしても、僕の記憶上にそのループしているという事実がない以上、僕はそれを信用しないし、同一を認めることは不可能なような気がする。

このことから、いかに、自分たらしめるもの、または他人たらしめるものを、記憶という頼りないものに頼っているかが分かる。

まあこの同一人物かどうかの問題は、またいつかの記事で、深く考えてみたいと思うので、今回はこの位でやめさせていただきます。

失礼します。