ハイハイで散歩中

面白いと思ったものをただただ紹介したり、またはただの雑記に成り果てそうです。

ハイハイで散歩中

抜粋、抜粋、抜粋、それは側面。

僕の家にはテレビがない。
なので、主に情報はネットで知ることになる。
そしてこの前、ツイッターで、某バラエティ番組の企画の芸人に対するドッキリの内容が載ったツイートが流れていて、僕はそれを見て、ちょっとやり過ぎなんじゃないかと思って笑えなかった。

その旨を、友人に話したら、
「確かにその番組は笑えない企画もあるが、他方で、ドッキリをかけられるまでの過程があって、そしてそれを経た上でのドッキリのリアクションだから面白い、そういう企画もある」
と、言われた。
僕はその時、気付かされた。
僕はもしかしたら、とんだクレーマーになりかけているんじゃないかと。
ネットに溢れている情報、とりわけネットニュースなどは一部分を切り取った、抜粋されたものが多かったりする。
それは、短い文章で素早く手軽に読めるようにするためだったり、ツイッターなどのSNS関連などは、最初から内容が膨大にならないように設計されている。
そして、勝手に視界に入ってくる、自らの意志で調べにいくつもりのなかった、つまり、自分があまり興味のなかった情報(その中には見出しを派手に化粧させた扇情的なものもある)などは、ぱっと目を通して、エビデンスや、そこに至った経緯をよくよく確認しないで、つまり、よく咀嚼もせずに流し込むか吐き出すかしてしまう。
冒頭で述べた、ツイッターで流れてきた某バラエティ番組の情報も、知りたくもないのに、勝手に僕の視界に入ってきて、まじかー。やり過ぎだろー。イジメじゃねーの。とか、その抜粋された部分だけを見て、判断してしまった。
もちろん、そのドッキリが行われた経緯、過程を仮に把握したとしても、僕はやっぱり笑うことはできないかもしれない。
だが、「やり過ぎ」だとか、「イジメ」だとかまでは思わなかったかもしれない。
 
年末にやった「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!」の恒例企画「笑ってはいけないシリーズ」で、ベッキーがタイキックを食らったシーンが問題になった。
これもツイッターで流れてきていて、賛否両論のあーだこーだを目にした。
僕は年越しはテレビのある場所で過ごしていたので、この場面をリアルタイムで観ていた。
僕はその場面を観ても全く不快な気持になどならず、むしろベッキーのリアクションの良さに感心してしまった。
この時のベッキーは、元々ココリコ田中にドッキリを仕掛ける側で終わるはずだったのが、最後にベッキー自身もドッキリを仕掛けられる側へと遷移し、発覚後からのベッキーのリアクションを楽しむ、そこに笑い所があるように思う(こんなこと説明するのは野暮だと思うが)。
だから、最初に田中に仕掛ける経緯があって初めてベッキーのリアクションが意味を持つ。
これが、ただベッキーが嫌がる所から始まり、タイキックを受けて悶絶する場面だけを観たって意味がない。
また、もっと大局観で捉えれば、もう15年以上前にやっていたウッチャンナンチャンMCの番組「笑う犬シリーズ」にベッキーがコントに挑戦していたのを観て、こいつはバラエティが好きなんだなと思ったし、最近復帰したのも、やはりバラエティの世界で生きていたいと思ってのことだとも思うので、今回のタイキック問題はむしろベッキーにとってオイシイのではないかと思う。
だから物事の過程を知ることは重要なことのように思う。
また、人は往々にして、自分の見たいように物事を解釈してしまう傾向にあるように思う。
ベッキー問題も、ベッキー自身そう言ったわけではないのに、あれは嫌がってるんだ。本当はやりたくないんだ。等々、自分なりの色に染めて対象を見てしまう。
だが、それはそれで仕方のないことだとも思う。
自己から逃れることのできる人などいない。
どこまで行ったってそこは自己の中なのであり、そこから世界(外界)を眺めるしかない。
そして、その対象を、きっとそうであろう(場合によっては、そうであってほしい)という蓋然性を孕んだもと、捉える。時に、自分の立場を、その可能性の範疇であることを失念し、確実にそうだと思い込んでしまい、捉えてしまう。
「自分が正しい。絶対正しい」、と。
僕達は、その対象物、「もの自体」に辿り着くことは決してない。
だから、真実(もの自体)は決して分からない。
ベッキーは、本当は嫌がっていたのかもしれないし、嬉々としていたのかもしれない。
それはベッキーにしか分からない。
たが、過程の中でその対象を捉えれば、過ちを少なくすることはできるかもしれない。
真実に届くことはできなくとも、近付くことはできる。
全ての物事は流れている。その物事、対象物を流れの中で捉えてみる。その流れ、コンテクスト(文脈)の中で初めてその対象が意味を持つ。
また、その対象の前後の文脈、情報を知ることで、多方面から捉えることができるようになる。
ある方面から見ていた面が、少し移動して見た時には、まるで異なる面に見えたりする。正面だと思っていたものが、側面に変貌をとげる。
そもそも、ある意味では自分以外の人間、つまり他者を見るということは、常にその人間の側面を見ているに過ぎない。これは人間の構造上、そうならざるをえない。人間のアーキテクチャ(構造・建築様式)と言ってもよいかもしれない。
ある他者に初めて会った印象が第一側面で、次に少し話すようになった時の印象が第二側面になり、また、次会った印象が第三側面と、その人の情報だったり、一緒に過ごす時間だったりで、側面が変わり、また側面が増えていったりもする。
そういう、側面が変わったり、増えたりすることが、他者というものの魅力とも言えるし、怖さだとも言える。
でもそれが他者というものなんだと思う。決して、他者(真実/もの自体)には辿り着けない。だからこそ、近付こうとする。近付きたくなる。辿り着こうとする。そして考える。その対象について考えようとする。
僕は、とくにこの先の時代、「自ら考える」、そして「考え抜く」ということが非常に大事なことになるんだと思う(というか常にいつの時代もそうであろうが)。大事だし、そしてなにより楽しいとも思う。
ただ、気を付けなきゃならないのは、メディアのコメンテーターの意見を聞いて、それがあたかも自分の意見のように錯覚してしまうことだ。それは自分で考えているとは言わない。
今や、いたるところに意見が転がっている。自分で考える前に、その意見を視界に入れてしまい、僕は時々、自分の意見はどこにあるのだろうか、また、僕の最初の意見というものはあったのだろうか、などと思ったりする。そのことについて少し書いた記事があるので、よかったら併せて読んでもらえると嬉しいです。

www.teheperow.com

だから、冒頭のツイッターの話もそうだが、油断すると、すぐその情報を鵜呑みにしてしまうので、その情報をまず疑い、そして自ら考えるようにする。そのことを意識していくことが大事だと思う。
最後に一つだけ書いて終わりにするが、以上文中で、流れの中で捉えることが重要と書いたが、それはベイビーレイズJAPANのライブ映像を観ていても思った。
同じ楽曲でも、チャプター(一部分を切り取った楽曲)で観た時と、ライブの流れ、「ALLPLAY」で観た時とはその楽曲の見え方がまるで違った。
やはり流れ、経緯というのはとても重要なんだなと思った。
それだけ最後に書きたかったです。
前々回からベビレ引きずってます。
いや、だって良いんだもん。ベビレ。
終わりです。
ありがとうございました。