ハイハイで散歩中

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NBAオールスター関連の話から、妄信とか上位とかの話

 僕は中高生時代バスケ部に属していて、その時期NBAに興味を示すことは自然な成り行きだったわけだが、高校卒業と同時にバスケから距離を少しずつ置いていく過程で、NBAの興味も薄れてしまっていた。
だが、2年ほど前にNBA好きの人と知り合って、それきっかけで、ちょっとyoutubeでNBAの動画でも観てみるかと思い、検索してみたところ、なにやらこの選手は「凄そう」というのだけは伝わってくるタイトルの動画に引っかかってしまい、気軽に観てみた。
しかし、タイトルは単なる釣りではなかった。
動画内でプレイする選手は、僕がNBAに興味を持っていた中高生時代には観たことがないタイプの、というより、全く新しい概念が出現したような、そんな新種のプレイをしていた。
そのプレイヤーは「ステフィン・カリー」という、超スーパースターであったが(今でもそうだが)、まるで漫画から出てきたような、規格外の選手であった。
まあ、カリーにハマるというのは誠にミーハーな流れであるのだが、そんな俗気など嫌悪している暇などないくらい夢中にさせられるプレイだった。
実際、カリーのプレイや、カリーが属するウォリアーズの強さに魅了され、NBA離れしていた人が、再びNBAを観始めるという僕のような視聴者が結構いるみたいだった。

そしてここからが本題なのだが、NBAシーズン半ばに開催されるオールスターというものがある。これは、お祭り的なものだが、ダンクコンテストや、3Pコンテスト、スキルチャレンジなど様々な企画があり、そしてなにより注目されるのが、投票によって選ばれた、スター選手で構成されたチーム同士の試合である。
しかし、お祭り的であること、そしてまだシーズン中であるがゆえケガを恐れてあまり激しいプレイは控えたいという考えにより、この試合、かなり遊び半分グダグダになっていることは否めないだろう。
だから僕はオールスターゲームがあまり好きではなかった。
その旨を、NBA好きな知り合いに話すと、まるで見当違いのことを言ってしまったような、そんなリアクションをされ、オールスターを侮辱するなんて言語道断といった雰囲気であった(いや、この表現は僕が誇張している可能性がある。本当はもっと穏やかな反応であったかもしれない。何故ならこの人はとても優しい人だからだ。まあでも、この記事を進めるためには多少の誇張もやむ負えないか。すみません。忘れてください。なんだそりゃ)。
この時、僕は素直にその人のことを受け入れた。そうか、オールスターにはオールスターなりの良さがあるんだと。NBA好きな人が言うんだから間違いないと。
そしてその気持ちのまま、翌年(つまり去年の)のオールスターを観てみた。
すると、特有のグダグダ感は継続されていたが、僕はなんだかそれを素直に受け入れていて、なんというか、「グダグダ感」が、「和気あいあい感」に見えてきて、おう、これがオールスターの醍醐味かぁ。などと思い、オールスターの良さが分かった気がして嬉しかった。
しかし、オールスター後、僕なりに色々NBAを追って行く中で、オールスターが嫌いだという意見を度々耳にするようになった。
どういうことだろう。
しまいには、今年のオールスター(つい先日行われた)では、大きくシステムを変更し、選ばれた選手達は、真剣にプレイしていて、白熱した試合になっているようにも見えた。
実際、選手自身も試合後のインタビューで、「序盤からディフェンスを激しくした」、や、「試合全般競争的だった」などなど発言しており、そして、試合間際、カリーが同点3Pを狙おうとした際の、相手チームのレブロンジェームズとケビンデュラントのガチディフェンスや、惜敗した直後のカリーの悔しそうな表情などを見るに、前年までのオールスターとは明らかに違う、活気に満ちた、真剣な彼らがコート上にいた。
そして視聴者の評価も概ね好評のようだった。
結果として、NBA好きの人にオールスターを指南される前の、つまり最初の、NBAへの情報が乏しかった頃の僕の見方(印象)は、正しかったといえる。まあ、この場合正しいという表現が適切かどうか分からないが。

つまり、僕がなにを言いたいのかと言うと、当初の対象物への「悪い印象」が、信用している人からの意見によって、暫定期間ではあるにせよ、「良い印象」に変えられてしまった、ということである。
これは、僕が無意識に、僕より上位の立場(NBA好きの人)を盲信していて、このNBA好きの人の意見は絶対に正しいというバイアス(偏見)が働いたと言っていいと思う。
もう少しこの対象物への印象の変更(「悪い印象」→「良い印象」)を、具体的に分析してみると、選手達の動き自体は、相変わらず「グダグダ」に見える。ただ、そのグダグダの合間に垣間見える選手達のおどけた動作や楽しそうな笑顔が、「和気あいあい」という言葉というか、概念を想起させ、僕は、「グダグダ」を「和気あいあい」で覆い隠し、「グダグダ」を、いつの間にか無かったものにしてしまったようだ。
つまり、対象物をよりポジティブな解釈にするためには(NBA好きな人の意見を肯定化させるためには)、対象物の中のポジティブな現象、ここで該当する「和気あいあい」という要素を重点的に捉えることが必要だったということだろう。

以上のような、他者を妄信してしまう例は他にもあると思う。
僕に限っていえば例えば、社会問題、またはネットニュースの類でもよいが、それに対する意見を、自分が尊敬する人物に求めてしまっている、というものだ。
しかも、「意見」を求めるというより、もはや「答え・正解」を求めていると言っても過言ではない。
たとえその尊敬する人物の意見を聞く前に自分なりに意見を考えていたとしても、その尊敬する人物が自分と異なっている意見だった場合、その意見があたかも正解であるかのように、解を求めるかのようにその意見を読解しようとしてしまう。
これもバイアスがかかっているといえるだろう。
もしかすると僕たちは、尊敬・信頼する人物、つまり上位のなにかを設定せずにはいられないのかもしれない。
ただそれは必然のようにも思える。
この世界のしくみを誰一人として理解している者はいない。だからその恐怖の穴を補うために絶対的ななにかを置いて穴埋めしたり、自分一人だけだとどこを歩けばいいのか不安になり、他者を道しるべに歩き出したりする。
古くから神の概念があるように、これは人間の性なのかもしれない。
だが、時に妄信は言わずもがな危険である。
どんなに尊敬している人物でも、その人の意見には疑いの目を持って見てみることも必要だと思う。
最終的には自分自身で考えて決めるようにする。
ネットから、情報から解放されて、ただただ黙々と歩きながら考えに耽るなんていう、そんな少しカッコつけた時間を増やしたいものだ。
なんだそりゃっていう着地ですが、
終わりです。