ハイハイで散歩中

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ポリシーVSプライド-ポリシーに勝ち目がない理由-

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今回は、前回の記事(だいぶ期間が空いてしまったが)の補足のような形になる。

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前回の記事の終盤で、「ポリシーで動く当人」と、「それを判断する他人」とではギャップが生じてしまう可能性があると書いた。

何故なら、その行動の入り口(動機)は違っても、その出口(行動の結果)は同じに見えてしまうからだ。

例えば、とある若手芸人が、ある時から、ひな壇のあるバラエティ番組には出演しないという決断をした。

その理由は、今後のテレビ番組は、ひな壇のあるバラエティ番組が減少していくだろうと予想し、そのようなバラエティ番組で頑張るより、もっと自分が頑張れる番組だったり、仕事の方にだったりと重点を置きたいと考えたからだ。

これはこの若手芸人の「ポリシー」ということになる。

だが、ひな壇があるバラエティ番組に出演しないという行動は、他の芸人からしたら、どこか尖っていて、俗っぽい番組にただ出演したくないだけの、つまらない「プライド」にすがっている行動だけに見えてしまう。

この若手芸人の行動の入り口(動機)と、他の芸人の入り口は異なるものなのに、バラエティ番組に出演しないという結果(出口)が同一なため、そのような、他人とのギャップが生じてしまうということだった。

 

そして、今回はここから話を進めていきたい。

では、どうすればそのギャップを解消できるのだろうか。

それは、ポリシーVSプライドという、対立構造を作らないことではないだろうか

つまり、「いや、それはプライドじゃなくて、ポリシーなんです」、と反論することをしないということ。

僕の考えでは、ポリシーVSプライドでは、ポリシーに勝ち目はほぼないと思っている。

なぜなら、「プライド」という言葉のカバーの広さは尋常ではないので、どこまでも屁理屈をこねられてお終いという帰結に至るからだ。

「プライド」という言葉の意味は、誇り、自尊心、だ。

これらの意味は、人間が行う全ての行動に付きものの、ある種の条件みたいなものと考えてはいいのではないだろうか。

自分の行動は全て、自分の意志で行なっているとすると、それは、自分自信がそうあるべきだと思うからそうするのであって、その瞬間の自分を肯定的に捉えているからこそ可能な行動なのだ。

「自分自信を肯定する=自尊心を保とうとする」

つまり、「なにかを行動する=プライドを保つ」

ことになりはしないだろうか。

しかし、ただの「ポリシー」という言葉の意味だけでは、そのプライドの範囲には該当しない。

「ポリシー」という言葉の意味は、政策、政略、方針、であるから、それらはまだプライドの範囲外だ。

だが、それを実行しようとする際、人間は自分の意志を働かせている。

つまり、ポリシーを実行しようとしたその時に、それはプライドの範囲内、プライドのテリトリーに内包されてしまうのだ。

だから、重要になるのは、「ポリシー」ではなく、そのポリシーを「実行する人間」で、プライドの側は、批判する際、「実行する人間」を攻撃してくるのだ。

上記の芸人の例でいえば、

プライド派「お前はまだ若いからプライドも高くて尖ってるのかもしれないけど、そんなんじゃテレビに出れなくなるぞ。そんなちっぽけなプライドなんか捨てろよ」

ポリシー派「いや、プライドの問題じゃなくて、番組に出ないのは、僕のポリシーに沿って行動しただけなので」

プライド派「そのポリシーに沿って行動したのは、お前の意志でそうしたんだよな。自分が決めた意志で、その意志通りに行動したということは、自分が自分であるための証明みたいなものだろ?そのポリシーを守らなければ、自分が自分じゃなくなるとか思ってるんだろ?それは自尊心の保持じゃないのか。つまりプライドの保持ということだ」

ポリシー派「・・・」


僕がポリシー派だったら、恐らくこんな風になってしまう。

では、どうすればこの流れを回避できるのだろうか。

とりあえず、「ポリシーVSプライド」にしないことだろう。

つまり、相手が「プライド」という言葉を出しても、こちらはムキになって「ポリシー」という言葉を使って反論しなということだ。

さらに具体的にいえば、「ポリシーVSプライド」ではなく、「意見VS意見」、または「価値観VS価値観」の対立構造にしてしまえばいい。

恐らく、ポリシーVSプライドになってしまう、これらの問題の本質は、意見(価値観)の相違から起こるものだと考えられるからだ。

上記の芸人の例でいうなら以下になる。

若手芸人がひな壇のあるバラエティ番組に出ないと決めたのは、未来のバラエティ番組にはひな壇が存在しなくなると想定したからであり、その上で、じゃあ自分ができることに重点を置こうと考えての、行動・決断だ。これは、この若手芸人の意見・価値観からの決断と言い換えることもできる。

一方で、プライド派の芸人は、ひな壇のあるバラエティ番組に出演した方がいい理由として、ひな壇のあるバラエティ番組に限らず、色々な番組に若いうちから出演することによって、経験にもなるし、業界スタッフとの関係も作られるので、若手のうちからそんなに出演番組を吟味していたら、使いづらい、気難しいタレントというレッテルを貼られ、スタッフ受けが悪くなり、かえってこの先のバラエティ番組に出演できなくなるのではないかというのが意見、考えである。


したがって、これら両者意見の相違を、お互いに確認し合い、話し合えばいいのではないだろうか。

プライド派「そんなちっぼけなプライドなんて捨てちまえよ」

意見の相違派「いや、プライドとかそういうのではなくて、単純に意見、価値観があなたとは異なるようなので、そこを話し合いましょうよ」

こんな感じで。

「ポリシー」や「プライド」という相手を逆撫でするような言葉を使用するからややこしくなる。

問題の本質はそこじゃないのに。

もしかしたら、そのような言葉を使用して攻撃してくる人は、単純に相手に嫌がらせしたい人なのかもしれない。

そういう人の言葉をいちいち聞いているのはアホなので、聞き流して、自分のやるべきことに取り組むのが得策だと思う。

今回はこの辺で終わります。

ありがとうございました。