今回は、劇作家の平田オリザさん著「わかりあえないことから -コミュニケーション能力とは何か」(講談社現代新書)を紹介します。
僕がこの本を手に取った理由は、自分の圧倒的なコミュ力の無さを改善したいと常々切望していたのだ!ということではなく、単純に、「わかりあえないこと」という一見するとネガティブフレーズにも映る書名が目に止まったからに過ぎない。
加えてページを繰れば、「コミュニケーション」を、「演劇」という観点から捉え、関係させ、そして役立たせているという内容が書かれてあると分かった点も、僕を扇情的にさせる要因となった。
結果から言えばとても面白かった。
この本は決して、コミュニケーション能力が必須!と言われている昨今に倣って、早々にコミュ障から脱却して高いコミュ力を身につけよ!という自己啓発本ではない。
そうではなく、「コミュニケーション能力」などと大上段に構えることをせず、そんなに肩肘張らずに、たかが「コミュ力」程度に捉える。
そして、だからと言ってグローバル社会に突入している時代に「コミュ力なんていらねえんだ!」とは冗談でも言えないので、それではそんなに大した技術でないんなら基本的な技術くらいは身につけてもいいんじゃね?くらいの軽い気持ちが前提になっている本である。
今しがた、技術とか、軽い気持ちと書いたが、別にコミュニケーションのハウツー本では決してない。そうではなく、重要なのは、気付くことだったり、色々自覚すべきことだったり、まずはそこから出発しようという趣旨の本である。
また、単純に様々な知識をも提供してくれているので、知的好奇心を刺激される本でもある。
では早速、以下、僕がいくつか気になった要点を紹介します。
(※本書は初版が2012年発行となっているので、現在の時代背景とは異なる点も出てきてしまうかもしれませんので、その点はご注意の上、お読みいただければと思います)
「コミュニケーション能力」とは
まず第1章で、昨今やたらと叫ばれている「コミュニケーション能力の必要性」に疑問を呈している。
具体的には、社会は「ダブルバインド」状態になっているという。
「ダブルバインド」とは、例えば、親が子供に、「勉強なんてできなくたってなんとかなるよ」と教えているのにも拘らず、子供がテストで悪い点を取って帰ってきたら、「なんでこんな問題も解けないの!ちゃんと勉強しなさい!」と、矛盾したことを言って、子供を身動きできなくさせる。
このような二重拘束の状態をダブルバインドという。
因みに、仮説段階だが、このような状態が続くと、「自分が自分でない感覚」、「乖離感」などから、統合失調症になる子供もいるということだ。
これがコミュニケーション能力が達者な人材を強く求める企業にも起きている。
「自主性が大事」と言っておきながら、「会社のいう通りにしなければならない」という上意下達システムに放り込まれている社員。
例えば、部下が上司に仕事のやり方を教え請うたら、「そんなことも分からないのか!それ位自分で考えろ!」と怒られ、部下がミスをすると、「なんでオレに聞かなかったんだ!」と怒る。
企業が求めるコミュニケーション能力というのは、「異文化理解能力」のことで、
異なる文化、異なる価値観を持った人に対しても、きちんと自分の主張を伝えることができる。文化的な背景の違う人の意見も、その背景(コンテクスト)を理解し、時間をかけて説得・納得し、妥協点を見いだすことができる。そして、そのような能力を以て、グローバルな経済環境でも、存分に力を発揮できる。(本書P.16)
このような素晴らしい能力を求める企業が、一方で、上記の例のような、トップダウン型の、上司のいうことが絶対的であり、もっと言えば、その会社の色に染め上げてしまう、そしてそうされても歯向かわない、そんな従順な社員をも求めている。
こんなダブルバインドの中で、社員はどう動けばいいというのだろう。
企業はこのような状態に気づくべきであると、オリザさんは述べている。
ただ、こういう日本的な文化はある種仕方のないことなのかもしれない。
明治以降100年、日本は大きな国家目標があり、その国家目標に従って生きていれば、たいていの人が幸せになれるような社会を目指してきた。(省略)
こどもは親や大人の言うことを聞き、できるだけいい学校に入り、できるだけ安定した企業に入ることを目指す。企業に入ってからは上司の言うことを聞いていれば、給料が上がりボーナスが出て、車が買えて家が買えた。私たちは、そういう世の中を作ってきたつもりだった。(本書p.202)
つまり、現状の日本社会は、高度経済成長期などの成長型の社会が必然的に作り上げてしまった文化であるということだ。
だがしかし、とうに日本は成長型の社会は終わり、成熟型の社会に移行している。
成熟型の社会に訪れるのは決まって多様な価値観・文化、つまりグローバルな社会である。
日本社会は、成長型社会を下地にしたまま、成熟型社会に移行しそのまま継続、そして下地の更新もしないまま成熟型社会(グローバル社会)に必要な、コミュニケーション能力/異文化理解能力を求めてしまっている。
このようなダブルバインドの社会を作り上げてしまっている大人達が、昨今の若い奴らはコミュニケーション能力が足りないとか、企業が、コミュニケーション能力のある人材を求む、とかを喧伝するのは少々おかしいのではないか、ということだ。
だから、まずは色々な人がこのような現状であることに気付くべきだし、 成熟型の社会に合ったコミュニケーション教育を若い人達に行うべきだということである。
そしてオリザさんは、そのような教育を目指し、劇作家の立場から、コミュニケーション教育の現場に携わっているというわけだ。
演劇とコミュニケーション
海外ではわりと言語教育やコミュニケーション教育に「演劇」が取り入れられるのは珍しくないらしい。
僕は全く知らなかったが、日本でも、以前から芸術家がそのような現場に介入し活動を広げている(2010年度からは国家予算約2億円が付いているらしい)。
コミュニケーション教育に「演劇」のなにが役立つのか。
それは、
演劇は、常に他者を演じることができる。
実際の体験教育ほどの効果はないかもしれないが、異文化、他者への接触をフィクションの力を借りてシュミレート(疑似体験)することができる。(省略)
そしてもう一点、演劇は自分を出発点とすることができる。無理に自己を変えるのではなく、自分と、演じるべき役柄の共有できる部分を見つけていくことによって、世間と折りあいをつける術を、子どもたちは学んでいく。(本書pp.26-27)
オリザさんは、大学の授業やワークショップなどで、学生や子どもに「演劇」を通してコミュニケーション教育を行っている。
授業の内容は、生徒自身に台本を作成させたり、その台本の劇をみんなの前で披露させたりしている。
そうすることによって、上記のような、異文化だったり、もっと大きく括れば、「他者」との接し方を自身の頭で深く考えることができるようになる。
その他、より具体的に本書で紹介されている授業で僕が面白いと思ったのは、高校生を相手にした授業の内、旅行中の列車の中で同席した初対面の人に向かって、「旅行ですか?」と話しかける寸劇の授業がある。
たった一言話しかけるだけなのに、高校生達は意外にも苦戦する。
苦戦する大きな要因は、高校生くらいの年齢の段階では、初対面の人に話しかけるという経験があまり少ないということだ。
だから、どう話しかけていいか分からず、どこかおかしな話しかけ方になってしまう。
加えて、「旅行ですか?」と話しかける自分の役柄をどうしたらいいか。相手はどんなタイプの人なのか。そう考え出すと、より演技はぎこちのないものになっていく。
この役柄の設定に付随して、オリザさんは興味深い知識を教えてくれる。
当然だが、人種によって様々な文化がある。例えば、イギリスの上流階級の立場の人なら、自ら話しかけるということがあまりないらしい。それは「人から紹介されない限り他人とは話してならない」というマナーがあるからだそうだ(全ての上流階級者について適応可能なマナーなのかは判然としないが、確かにこのようなマナーは事実としてあるらしい)。
また、アメリカの場合。
ホテルのエレベーターで他人と居合わせた場合、ほとんどの人が声をかけたり、または会釈をしたりして、コミュニケーションをとるそうだ。
だがこのアメリカの文化は必然ともいえると、オリザさんは指摘する。
アメリカは多民族国家であり、それは、民族ごとに異なる文脈を生きているということでもある。そういう空間の中で、早い段階で自分が他人に対して悪意(好意ではなく)を持っていないとアピールしなければ、緊張感が募り、お互いストレスが溜まってしまうのではないか、ということだ。
また、儒教社会が長く続いた韓国では、年齢の上下で敬語を使い分けなければならない。日本と違うのは、日本は年齢というより、社会的関係で敬語が決定する。
両国とも敬語が発達しているという点は同じで、相手によって話しかけ方は異なる。
そう。相手によって話しかけ方は異なるのだ。
だから例えば、演劇の台本に、列車の中で、「イギリスの上流階級」の人が、相席になった他人に「旅行ですか?」と気さくに話しかけるという場面があったなら、それは、その「上流階級」の人がなんらかの理由によりその「上流階級」のマナーを学んでいなかったかもしれないし、はたまた、そのような上流階級が嫌になって反抗のつもりで「あえて」そのような態度を取っているのかもしれない。
また、今度は話しかける役が日本人の高校生ならば、それは一般的な高校生よりも少し積極的な人物と考えることもできる。
つまり、人種や民族、はたまた同じ国籍の中でさえ、その「旅行ですか?」と話しかける前の文脈、背景は多種多様にあるということだ。
オリザさんは、この「コンテクスト(文脈や背景)」を本書ではもっと広い意味で、「そのひとがどんなつもりでその言葉を使っているかの全体像」として使用している。
どんな人物かで「旅行ですか?」のコンテクストは変わってくる。
演劇の場合、役者はそのコンテクストを知ろうと、その台本を作った作家の意図を共有しようと努める。
だがそれは中々難しいらしい。
単純に文化の違いだけなら分かりやすいのだが、例えば「砂漠」という言葉ひとつにしたって、各々イメージする「砂漠」は違ってきたりする。
つまり同じ言葉でも各々イメージするものが違うのだ。
それをオリザさんは、「コンテクストの『ズレ』」と言っている。
文化のような分かりやすい「違い」ではなく、パッと見ただけではとても分かりにくい微妙な、「ズレ」だ。
だから「旅行ですか?」というとても単純な言葉でも、そこには様々な見えないコンテクストがあり、その「ズレ」に、高校生達もハマっていたともいえる。
演劇を通す、体験することで、そういうものに気づけたりする。
役(他者)を演じる行為というのは、そのプロセスにおいて、その役に「なりきる」ということではなく、自分を発端として、その役と自分との「共通部分を見出す」作業なのだ。
そういう体験をするとしないでは、物事の見え方・捉え方も変わってくるのではないだろうか。
シンパシーからエンパシーへ
オリザさんは、僕たちは、「他者とは分かり合えることはできない」時代に生きているという。
先述したが、稲作の時代や、高度成長期の成長型の時代などは、国民が一つの大きな目標に向かって生きていたのに対し、成熟した時代では、多種多様の価値観が生まれ、僕らのゴールは一つではなく、もはやバラバラの道を目指して、バラバラに生きている。
そのような時代では、「分かり合う」ことは困難で、むしろ、僕らは「分かり合えない」ということを前提として生きる必要がある。
しかし、じゃあ「分かり合えない」から、誰ともコミュニケーションをとらず1人で生きていくしかないのか、もしくは「分かり合えそう」な人とのみコミュニケーションをとって生きていけばいいのかというと、勿論そんなことはシステム的に無理である。
この世界は、嫌な人とも接しなければならないし、価値感が全く違う人とも接しなければならない。
そういう時に、上記で述べた、演劇的コミュニケーションが有効となる。
「僕らは分かり合えない」ということを前提とする。そこから出発する。
そして、じゃあ「分かり合えない」のなら、自分と共感・共有できる部分を、「全て」ではなく、「部分的」に共感・共有できる箇所を探し、折り合いをつけていく。
このことをオリザさんは、「『シンパシー(同情)』から『エンパシー(共感)』へ」という言葉で表現している。
同情は無理だが、自分の「中にあるもの」から、他者と「同じようなもの」を探していく。
「なりきる」のではなく、「共通部分を見出す」作業、つまり「演じる」作業というわけだ。
「完全一致」を目指そうとするから難しく感じるし、時には衝突する。そもそも完全一致は無理だし、それができると思うのは、思い上がりというものだろう。
自分の中から、自分のできる範囲の中からでいいのだ。というかそれが個人の限界なのだと思う。
最後に
この先、否応なく異文化・多文化共生の世界で生きていかなければならない。
その世界では分かり合えることは難しい。
だが、逆説的に考えれば、分かり合えないからこそ、技術的なコミュニケーションが必要となる。
「分かり合えるコミュニケーション」ではない。「分かり合える」ことをゴールと設定してしまうと、気が遠くなるような、なんだかとても深刻な感じがする。
だが、「分かり合えないからこそのコミュニケーション」と表現すると、割り切っていて、潔く、必要最低限感があり、なんだか軽い感じがし、少しの技術でなんとかなりそうな気がしてこないだろうか。
つまり、社会から求められている「コミュニケーション能力」とはその程度の、そんな大したことのない、どうってことのないスキルということなのだと思う。
コミュニケーション教育に、過度な期待をしてはならない。
その程度のものだ。
その程度のもであることが重要だ。(本書p.32)
上記の引用は、子どものコミュニケーション教育のページで述べられているものだ。
だが、いい年齢の大人でもコミュニケーションが苦手な人はたくさんいると思う(僕だってそうだ)。
そこで、コミュニケーションなんて重要なものではなく、「必要最低限できればいい」、たかだかその程度、そう思うと、気が随分楽になりはしないだろうか。
とても長々書いてきてしまったが、単純に本書は面白かったです。
興味のある方は一度読んでみてください。
ありがとうございました。