ハイハイで散歩中

面白いと思ったものをただただ紹介したり、またはただの雑記に成り果てそうです。

ハイハイで散歩中

中島義道著「時間を哲学する-過去はどこへ行ったのか」を紹介する(前半)

この時期になると、「あーもう年末かー」だとか、「1年経つの早いなー」などと、時の流れや、その流れの早さを強く意識することがあると思います。

というかこの時期に限らず、なにかの節目や、ふとした時にでも、ある対象を「振り返る」ことをした瞬間に、時間が流れていることを強く意識するものです。

また、年齢を重ねるにつれ、時間の経過するスピードが増しているような感覚に付きまとわれますが、この仕組みを心理学的見地から理論上説明したものに、「ジャネーの法則」というものがあります。

堅苦しく説明すれば、「時間の心理的長さは年齢に反比例する」(Wikipedia参照)ということですが、平たく説明すれば、

「『50歳の人の1年は、50分の1』、『5歳の人の1年は、5分の1』」だとすれば、「『5歳の人の1年は、50歳の人の10年』に相当し、『5歳の人の1日は、50歳の人の10日』に相当する」、というものです。

理論上これでなんとなく納得できそうですが、重要なのは、上記でも少し触れましたが、「ある地点から、ある対象を『振り返る』ことを前提としている」、ということです。

「振り返る」、つまりこれは「過去」を出現させるための条件みたいなものです。

「過去」、「現在」、「未来」、これらは時間という概念にしつこく纏わりついているお馴染みのワードだと思いますが、はたして本当にこの3つのワードから「時間」という摩訶不思議な概念は成立しているのでしょうか。

いやいやそれは思い込みに過ぎず、実はこの中でも「過去」こそが最も重要な概念なのではないか、いやちょっと待て、そもそも時間とは一体なんなんだ?等々、そんな時間の謎に迫った、時間を哲学した本を今回は紹介したいと思います。

 

紹介するのは哲学者・中島義道さんの著書「時間を哲学する-過去はどこへ行ったのか」(講談社現代新書、初版は1996年発行)です。

本書は、時間(または時間論)というのは「過去」こそが中核をなしており、そして副題にもあるように、その「過去」ははたしてどこへ行くのか。ということを主題とした内容になっています。

少し長くなりそうな予感がするので、前半と後半の2回に分けて書こうと思います。2回に分けて書くものの、かなりざっくりとした紹介しかしないつもりなので、もしこの記事を読んで少しでも興味を持っていただけたなら、ぜひ実際に本書を手に取ってご一読いただければと思います。

それでは、以下内容紹介です。

 

「時間の空間化」と、「過去化された時間」


「時間」を語る上で、切っても切り離せないものが「空間」です。

僕たちは、無意識に時間をなにか直線のようなもの、つまり空間化してその概念を捉えてしまっています。

中島さんによれば、この「時間の空間化」は、かなり人間の習慣に深く根を張らしてしまっていて、ちょっとやそっとじゃ動かない強固な習慣になってしまっているようです。

また、フランスの哲学者・ベルクソンの空間化の発生に関する洞察も中島さんは引用しています。 

それは、時計の「ボン・ボン・ボン」という音を数える時、「何回音が鳴ったかな?」と、過去を振り返り、「ボン」と「ボン」の間に「スペース(space)」を設け、無意識になにか直線上にその「ボン」を並べてしまっている、つまり、なにかを「数える」という行為の際に空間化は生じると述べられています。

つまり、僕たちは日常的に「時間を数える」ことをしてしまうため、時間をなにか空間のようなものだと勘違いしてしまう癖があるようです。

また、大変重要なことですが、時計の音を数える時、必ず「過去を振り返る」ことをしなければなりません。

つまり、時間の空間化とは、「過去時間」の空間化ということになり、もっといえば、通常僕たちが「時間は・・・」と語る時、それは過去化された時間を語っているのです。

このような意味で、「時間」というのは「過去」を中核となし、「時間論」というのは、「過去論」のことだとも言えるのです。

 

印象時間と客観時間

 

もう少し過去化された時間を掘り下げてみましょう。

過去化された時間には、「印象(主観)」時間」と、「客観時間」の2つがあります。

この2つの時間は、時間の早さ(速さ)と重要な関係があります。

冒頭でも少し触れましたが、僕たちは時折、「あーもう年末かー」とか、「1年経つの早い(速い)なー」などと「時間の早さ(速さ)」を感じることが多々あります。

上記の例でいえば、「あーもう年末かー(1年って早いなー)」というのが印象時間です。

他方、「1年経つの早いなー」の「1年」が客観時間になります。

この印象時間と、客観時間の「差異」が、時間の流れの早さ(速さ)になるというわけです。

つまり、「印象時間」と「客観時間」、この2つを認識していなければ、時間の早さ(速さ)は実感できないことになり、もっといえば、過去時間を了解しているとも言えないのです。

中島さんは、なぜ人間は「客観時間」を獲得してしまったのかの仮説として、「生死」に関係していると述べています。

例えば、広い意味での「仕事」も、生死に関わってくるといえます。

簡単な作業を例に出してみます。水を2時間汲み続ければ、1時間汲んだ時の2倍の量の水を汲むことができ、石を持って2時間歩き続ければ、1時間歩いた時の2倍の距離を歩くことができます。

「できます」と、今し方書きましたが、通常、上記をそのまま達成することはほぼ不可能といえます。

なぜなら、人間の体力は無限には持たないですし、物事はスムーズに進まないことがほとんどだからです。

だから、水を見事に2時間一定に汲み続けることはほぼ不可能だし、石を持ちながら歩き続けると、人間は体力を消耗するので、一定の速度で歩き続けることはほぼ不可能というわけです。

ですが、学校なのではそのような「疲れない人間」を導入し学ぶようになっています。

それはなぜか?

僕達人間は、「一定」の仕事の成果を「時間」と結びつけているからです。

歩く時の、その都度変化する「気分」や「印象」ではなく、不変で一定の「成果」こそ、人間の生死に関わってくるのです。

また、これは「空間」の場合も同様です。

例えば、遠くにイノシシが見えます。そのイノシシは現地点から見れば点ほどの大きさにしか見えません。ですが、「実際」にイノシシの大きさが点ほどにしかなかったら、獲って食べようなどとは思いません。

僕たちは、イノシシの「実際」の大きさを知っているからこそ、それを獲って食べようと思うのです。

また、イノシシが遠くからこちらに突進してくる場合も同様です。遠くから見えている点ほどの大きさだと本気で思っていたら、僕たちは突進され、命の危険にさらされる可能性があります。

それらを回避するために、僕たちは、現に見えているそのままの大きさ「以外」に、イノシシの客観的(実際)な大きさを「つくりあげる」のです。

以上のような理由で、「客観的な時間」、「客観的な空間」を人間は獲得せざるをえなかったというわけです。(あくまで中島さんの仮説に過ぎないのですが)


そして、その客観的時間は、人間に不幸をもたらしたとも言えます。

人間は、人間にとって都合よく生きるために客観的時間を獲得したわけですが、皮肉なことに、それと同時に、「死」までの時間(距離)を、及びその儚さを、人間は知ることになってしまったというわけです。

「儚さ」は、過去を振り返った時に、「あっという間だった」というふうに感じられるところに生じてきます。

ですから、100年生きようが、200年生きようが、単に長く生きれば虚しさや儚さから逃げられるかといえばそうではなく、何年生きようが、その過去を振り返った瞬間に訪れる「あっという間だった」というその感じを払拭しない限り、儚さや虚しさは僕たちからは消えることはないのだと思います。

まあ、その儚さや虚しさがあってこそ人生、ともいえるのでしょうけど。


前半は、この辺で終わりにしときます。次回後半は、本書の主題「過去はどこへ行ったのか」を中心に書きたいと思います。

最後に、僕が印象に残った中島さんの文章を引用して、終わりにします。

もしアダムとイヴのお話が真実なら、われわれの先祖であるアダムそしてイヴは本当に罪なことをしてくれたと思います。「知恵の木の実」とは具体的には「言葉」なのですが、それは「時間」でもあります。つまり、言葉を知った瞬間に時間を知ったのです。自分が死ぬことを知ったのです。もう楽園に戻ることはできない。われわれは時間を知ってしまったことにより楽園から永遠に追放されてしまったわけです。

 

 

f:id:nocafein:20191219020815j:plain

 

 続く。