邂逅①
例えば、自動販売機オジサンなるものがいたとする。
自動販売機の両側面から手が、底面から二足が、天面からそれなりのオジサンの顔がニョキッと生えている。
そのオジサンは親切なのか、世話焼きなのか、こちらが飲み物を買う模様を逐一実況してくる。
「ほら、小銭を取ったぞ。間違えんなよ。120円じゃない、130円だぞ。もうあの時代は終わったんだ。なんだか懐かしいじゃねえか。なあ、相棒」
とにかく、喋ってくる。
「ほら、どれを押すんだ。おすすめは、おしるこだな。いや、コーンスープなんてのもいいな。意外性をきかせてミネストローネ缶なんてのもいい。お、なんだ、缶コーヒーにするのか」
ミネストローネに限らず、嗜好そのものが意外性に満ちているそのオジサンは、商品のボタンを押す時だけ、寡黙に、押されるのを待つ。
「・・・おーし、よくやった。大したもんだ。ほら、商品がもう下に落ちてるぞ。良かったな」
商品を取り出す。それは意外性に満ちた、ミネストローネ缶だった。
僕は胴体にドロップキックを入れたい衝動を抑え、間違いを指摘した。
「お、良かったな。当たりのミネストローネじゃねぇか。なんか良いことあるぞ」
確かに既に悪いことが起こっているのだから、良いことが起こってくれないと困る。
僕は二度と自動販売機オジサンの元で飲み物を買わないよう誓い、その場を離れた。
すると、僕の背中に声がかけられる。
「お疲れさん」
今度は、電子マネーで買うことにするか。ただ、オレはあんたの相棒ではないぞ。
邂逅②
自動販売機オジサンの仕様は異なっていたっていい。
例えば、見た目はただの自動販売機なのだが、お釣りが出てくる時だけ、その受け渡し口に、ひょこっと小さいオジサンが出てきて、お釣りを渡してくる。
お釣りを受け取ろうと手を差し出すと、そのお釣りを地面にばら撒き、「ほら、無くすんじゃねーぞ」、と言ってサッと引っ込む。
勿論、お釣りがコロコロどこかに転がってそのまま無くなることだってある。
そんな時、僕は自動販売機に捨て身タックルをする。すると、お釣り受け渡し口からオジサンが出てきて、
「おいおい、なんだってんだよ、もう朝になっちまったのか。」
こいつ朝まで寝込む気だったのか。と驚きながらも、僕は「お釣りがあんたのせいで無くなったぞ」というと、
「なんだよ。ガキじゃねーんだから、世話焼かすんじゃねーよ全く。ほらよ」
と、また地面に放り投げられた硬貨を慌てて拾うと、僕の手の中にあったのは、見たことのない海外の通貨だった。
二度とここでは買わないと誓おう。
その場を去ろうとする僕の背中に、やはり声がかけられる。
「お疲れサマンサ」
マンモスうれぴーってか。あいにく世代じゃないんでね。
この自動販売機こそ、今度電子マネーで買うことにしよう。
最後の邂逅
つまり、自動販売機とオジサンを組み合わせなくたっていい。
例えば、ゴミ箱オジサンなるものがいたとする。
飲み終わった缶コーヒーをゴミ箱に捨てようとする。
すると、その円形の穴から、ヌッとオジサンの顔が現れる。
「おいおいおい、こっちはペットボトル専用だぞ。缶は隣の穴だ」
確かに缶は隣の穴だった。すみません、と言い、隣の穴に缶を捨てた。
そのオジサンは使用者が間違えた時にだけ出現するらしかった。僕が前々からその情報を知っていたわけじゃない。そのオジサンが、親切丁寧に、聞いてもないのにベラベラ教えてくれたのだ。
ただ、そのゴミ箱の中身だけはどうなっているかは教えてくれなかった。
「プライベートなことだから」と、僕を冷たく突き放した。
少しだけ、僕は傷付いた。
それを察したのか、「まあ、あれだな。また来いよ」と、照れながらオジサンは言った。
また今度も、空き缶をペットボトル口に、入れに行こう。
僕がいい加減一体何を言おうとしているのか。
それは、非日常は、その人達次第で日常になるんではないだろうか、ということだ。
例えば、先程のゴミ箱オジサンの横を通り過ぎる時、観光地などにある顔ハメ看板のように、顔をすっぽり当てはめたオジサンに向かって、とある女子高生が、なにやら深刻な表情で話しかけている。
どうやらその女子高生は、恋愛だったり、進路だったりと、なにかしらの人生にまつわる悩み事を抱えていて、それをゴミ箱オジサンに相談しているようだった。
これは、ハタから見ればシュールな光景に写るのかもしれない。
しかし、当人達はいたって真剣に、真摯に、話しをしている。
つまり、シュールかどうか決めるのは外部の人間であって、内部の人間はシュールだなんて思っていない。
多様性の社会だなんて言うが、本当に多様化された社会の中にいる人間達は、自分達が多様性を受け入れているなんて思ってはいないんでなかろうか。
差別の問題だって、問題と騒ぎ立てるのは当事者ではなく、外部の人間の方が多いような気がする。
まあ、そんなこと言ったって、僕ら日本人は、多様性の社会には慣れていないわけで、だからできることといえば、物事に真摯に向き合うこと、その姿勢が重要なのではないかと、そんな風に思うのです。
アニメ「日常」
ここからやっとアニメ「日常」と絡めた話をします。
大変察しの良い方は、僕が先日、漫画を原作に京都アニメーションが制作した作品、「日常」を観たから冒頭のオジサンシリーズを書いたんじゃねえのか?ってことはお前、無茶苦茶に影響うけてんじゃねーか分かりやしーマジ、パネェわこいつ。と思われたんではないだろうか。
当たりだよ。影響モロに受けまくりだよ。焼きそばだよ。
勿論、観るの遅すぎる件はご了承いただきたい。
遅すぎも遅すぎ2011年の作品だ。
だが、こういうことはこの先どんどん出てくるだろう。それがアーカイブというもの、それがサブスクリプション、Amazonプライムというものだろう。
さて、この「日常」、とても良かった。ベタ・シュール共にギャグ満載のハッピーで少しセンチメンタルな学園作品。
喋る猫や、天才子供博士、大福に命をかけるオジサン、ボケとツッコミに苦悩する女の子や、校長と鹿の死闘。そして、自分がロボットであることにコンプレックスを持つ背中にネジがぶっ刺さってる女の子。
「日常」というタイトルに、「どこがだよ!」とツッコミたくなることこの上なしだろう。
だがやはり、それをシュールと読み込むのは僕ら外部の視聴者なのではないか。
作中の登場人物達は、それを日常のように、受け入れているように見える。
例えば、主人公ゆっこが、廊下に立たせられている時、ふと外に目をやると、学校にいるはずのない鹿を校長がロープで捕まえようとするのを目撃してしまう。
ゆっこはその状況に戸惑う。
その後、校長と鹿のマッチバトルに発展し、鹿の圧倒的優勢のまま進む。
しかし校長は、鹿に何度も何度も倒されながらも諦めず、立ち向かっていく。
最後には、校長が起死回生のバックドロップを鹿に喰らわすと同時に、校長のズラが取れてしまう。
その終わりを見たゆっこは、とうとう我慢できずに教室のみんなに一部始終を説明しようとする。
が、思い止まり、「廊下は異常ありません!」と、わざわざ言わなくてもいいことを告げ、みんなに唖然とされる。
そしてナレーション、「もしかしたら、さっきまで死闘を演じていた勇者達に敬意を表したかったのかもしれない」。
むちゃくちゃ曲解して僕の意見を述べるが、これらのくだりは、校長と鹿の死闘を、外部のゆっこがまずシュールと捉える。
だが、当事者(内部)の校長と鹿の、その真剣な姿勢に、ゆっこは徐々に魅せられていき、そして内部に引き込まれていく。
そして最後には、「異常ありません」と言い、「非日常(シュール)」を「日常」に塗り替えていく。
つまり、物事に対する真剣さ・真摯さが、シュール・多様性を、日常化させたのだと思う。
あともう一つ、象徴的なエピソードは、自身がロボットであることをコンプレックスに持つ女の子「なの」が、ゆっこや、周りの人間の振る舞いによって、コンプレックスを克服する話だ。
あんなに背中のネジを取りたがっていた「なの」が、それを受け入れていく過程は、少々ぐっとくるものがあった。
これも、外部にいた「なの」が、周りの人間達(内部)の真摯的な振る舞い、というか、この場合は、あまりにも自然な、日常的な振る舞いによって内部に引き込まれていっている。
つまり僕がなにを言いたいのかというと、僕ら視聴者は最初、その作品世界をシュールな非日常と捉えているが、作中の登場人物達の、日々の真剣さや、真摯さの姿勢を見て、徐々にその世界が「日常」に見えてくるということだ。
総じて、物事に対する真剣さや真摯さは重要なのではないかということです。
最後にもう一つだけ僕がぐっときたシーンを紹介して終わりにします。
それは、ロボットの「なの」と、「なの」を作った天才児「はかせ」が、てるてる坊主を頭からすっぽり被り、幽霊のような風体で、喋ることができる猫「坂本」に対して驚かそうと迫るシーン。
それに対し坂本は、「まず、趣旨を説明してくれ!」と叫ぶ。
そして、場面が切り替わり、ナレーションで、「趣旨なんてない」と応答する。
僕は、この言葉を聞いた時、とても清々しい気持ちになった。
そうだ。この世界に意味や、趣旨なんてそもそもない。
子供の頃は、意味や趣旨なんてことさらに問わなかった(マセガキは問うていただろうが)。
それが、大人になると何かにつけて問うてしまう。
言葉を使用し、起こった出来事に対して後付け的に、なにやら訳知り顔で意味や趣旨をあるものとして分析する。
このブログみたいに。
子供の頃は、シュールがどうとか、多様性がどうとか考えず、ただただその事実を受け入れ、それを日常として捉えていたような気がする。
しかし僕らは、いつの間にか、意味や趣旨を求める大人になってしまう。
それを避けることはできないのかもしれない。
でもだからこそ、かつて自分もそうであったであろう子供に癒されるのかもしれない。その純真無垢さに。その無邪気さに。
この記事の終わり方が分からなくなりましたので乱暴に締めますが、そんなかつて子供だった全ての大人達に、「日常」はおすすめです。
見ると、元気になります。
なにも考えずに笑えます。
趣旨なんてない。
以上です。