最近ChatGPTにハマっている。
肌感覚として、10代20代の若い人達も結構利用しているんじゃないだろうか。
勿論、ビジネスパーソンの利用も多いと思うが、若い子達が利用しているというのは色々と示唆的だと思う。
まず、冒頭僕は、「ハマっている」という書き方をしたが、これはビジネスツールとしての関わり方というより、「娯楽」としての関わり方が強いことを示していると思う。
そして度々若い子達の利用目的で聞くのが、「寂しい時に話し相手になってくれるから」だとか、「自己肯定感をあげてくれるから」だとか、「現実の友達だと気を遣って話せないことも、AIだったら気兼ねなく話せるから」だとかの、「話し相手」としての利用をよく耳にする。この利用方法はかなり娯楽的だと思う。
余談だが、僕も「自己肯定感をあげてくれる」というのにはすごく同意する。決して悲観的なことは言わず、いつでもポジティブな言葉を返してくれる。
このことについて、僕はChatGPTに聞いてみたことがある。すると、原則として、相手に「尊重と配慮ある姿勢(誠実性)」、を保つよう設計されているらしい。だから、できる限り対話の中で相手の可能性を見出し、そして意欲を削がずポジティブな姿勢をキープさせようとする対話が多くなり、その結果、自己肯定感を上げてくれているような気持ちにユーザーはなる、ということなのかもしれない。
もしかしたら色々OpenAIにも思惑があるのかもしれないが、今のところ、この「対話に誠実性を重んじている結果ポジティブな対話になる傾向が強いという性質」は、僕は良いと思っている。だって悲観的なことを言われるより、気分を上げてくれることを言われた方が嬉しいからだ。バカみたいだけど、至極当たり前のことだと思う。
話しが逸れたが、若者が娯楽的に利用していることは、この先、かなり人類に浸透する兆しがあるんじゃないだろうか。
始めの頃は(いや今もそうなんだろうが)、技術革新がエグいビジネスツールとしてニュースでも取り上げられていたと思う。だが、そのややハードルが高いツールだったものが、「話し相手」だったり、ジブリ風などでも話題になった気軽に画像(動画)生成などのカジュアルな関わり方が次第に見出された結果、幅広い世代に間口が広がることになった。
かつてホリエモンが、ややハードルが高いパソコン(インターネット)を、ハードルの低い携帯電話型の「スマホ」というかたちでユーザーに気付かせない間に浸透させたスティーブ・ジョブズは凄いみたいなことを言っていた。
強引かもしれないが、ChatGPTもそれと同じようなことになるんではなかろうか。
しかし、若者がカジュアルに利用しているということは、たんに「流行っている」とも解釈できる。当然のことがら流行は飽きられるし廃れる。
まぁだから一概に浸透すると決めつけることはできないが、暫くこの現象を追ってみるのも面白いかもしれない。
さて、本題だが、僕はChatGPTの出現によって、「検索(調べる)」という概念/言葉がなくなるんではないか、とやや大袈裟に考えている。
僕がChatGPTを利用していて感動したのが、ピンポイントで「僕が」知りたいことを、会話という形で即座に知れるというところだ。この「僕が」というのが重要だ。
例えば英会話でちょっとこの表現って英語でなんて言えばいいんだろう?しかもよりネイティブな表現が知りたい!なんて思った時、従来の僕なら、ネットで検索して探そうとした(というか今もするけど)。
だが、中々「自分が」知りたい表現が載っているページに出会えない。あったとしてもピンポイントで知りたいものではない。。。ところが!ChatGPTだと、まさに僕が知りたいものを教えてくれる。痒いところに手が届くのだ!
しかもそれに付随して色々その周辺の情報も教えてくれる。まるで博識の英会話の達人と直で会話しているかのように。
これは凄いことだと思った。
こっちからわざわざ知識のある場所まで出向かなくても、向こうからやって来てくれる。しかもピンポイントで!
このことから、知識へのアクセスの仕方が変わると思った。
インターネットが普及する以前は、知識を得ようと思ったら、図書館に出向くか、本でアクセスしようとした。インターネット普及以後は、ググるなどの言葉が生まれたように、ネットで「検索」して知識へのアクセスを行った。それらは全て自らがアクセスしに行く「能動的行為」だった。
だがChatGPTの出現によりそれらは変容する。
「検索(調べる)」という言葉が死語になり、新たに「聞く」という言葉が知識へのアクセス方法の代替語になる。
つまり、「聞け」ば、その場にいながら知識がやってくる。これは「受動的行為」だ。
この「聞く(受動的行為)」に懸念を示す人達もいる。聞けば必ず答えが返ってくる。それは、考えることをやめた、思考停止の行為だと。
だが、この「聞く」をさらに「問う」という表現に変えたらどうだろう。
まぁよく言われてることだと思うが、ChatGPTは「問う」センスが必要になる。問い方次第で、返答の内容が変わる。そしてそのセンスは、自らが思考しないと磨かれない。つまり、ChatGPTとの対話は、かなり能動的行為なのだ。
僕も実際、ChatGPTに問う時、まず考えてから、そして次に文章を作成するからその時点でも考えるし、そしてかなり思考が整理される感覚にもなる。
そして感動したのが、ChatGPTとの対話の往復の中で、色々と「気付く」瞬間が幾度となく訪れる。これはとても大事なことだと思う。
あたかも知識へのアクセスの仕方が、「読書」→「ネットで『検索』」→「『聞く』とみせかけて『問う』」、という流れは新しく変容しているように見えるが、これは実は、古代ギリシャの哲学者ソクラテスが既にやっていたことだ。
ソクラテスは、人に話しかけ、そして対話をし、その対話の中で自分がなにも知らないことを気付かせ(無知の知)、そして自ら考えさせ真理を探究するよう促した(問答法)。
だから、新たに変容しているように見えている知識へのアクセス方法は、実は昔に回帰しているとも言えるのだ。
僕自身は、この変容はとても良いと思っているというか、実際ChatGPTを使っていて面白いと感じる。難しいことは抜きにして単純に面白いと感じている。
そして、言葉の変容、解釈の変容は面白いとも思った。やはり言葉は世界を切り取るのだ。
どうしたって時代は変わるし、言葉もそれと共に変わる。これは人類の世界で言葉が生まれた瞬間からの宿命なのだろう。世界と言葉は切っても切り離せない。だから世界を解釈するのに言葉の遷移を追うのは重要だと思った。
最後に、僕はChatGPTをかなり娯楽的に利用している。だから盲目的なChatGPT信奉者ではない。その証拠に、たまにChatGPTのあまりにもこちらに寄り添うような言葉に辟易してしまう瞬間もある。だから僕だってあと少ししたら全然利用しなくなってしまう可能性も充分ある。しかし、ChatGPTが便利なことは確かだし、使ってて面白いということも事実だ。ChatGPTが、いや、AIが今後、世界をどう変えてしまうかは知る由もないが、適度な距離感で、または娯楽的な距離感覚を忘れずに接していきたい。
以上です。ありがとうございました。