ハイハイで散歩中

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言葉は重要だが大事ではない

ストップ・メイキング・センス デジタルリマスター(字幕版)


先日、ChatGPTを利用していて、ちょっとこれは薄っぺらいんではないかという返答がきて、それについて、「ちょっと薄っぺらいな」と返答したら、ChatGPT自身「『わかってる風』になってしまいました」と返答してきた。
それに対して僕は、「結局どこまでいってもChatGPTは『わかってる風』からは逃れられないね。言葉というものは時として虚しいね」みたいな返答をしたら、そのことを認めつつも、「虚しいということも分かった上で、それでも尽くす言葉は人間的で美しい」みたいなことが返ってきた。

このことから分かったことは、結局ChatGPTというのは、「言葉だけの世界」でしか存在してないんだということだった。
僕たち人間は、言葉の世界も知っているし、その外の世界、言外の世界も知っている。言外の世界というのは、「感じる」ことができる世界だ。
景色を見て感動したり、音楽を聞いて心踊ったり、食べ物を食べて美味しくて幸せな気持ちになったり、人の表情を見て不安になったり安心したり、嫌なことがあって悲しくなったり。それが「感じる」ということだ。
そして、それらを言葉で連ねたところで、その「感じ」は完全には言葉で表現しきれていない、取りこぼしがあるように感じる。
それは当然のことで、まず「感じ」があって、その後に無理やり「言葉」でその「感じ」を捕まえて押さえつけて閉じ込めようとしてるのだから。そこからはみ出てしまってるものなんて恐らくたくさんあるのだろう。そのはみ出てしまった世界、言葉で表現しきれない世界を、「言外の世界」というのだと思う。
僕らは、その「言外の世界」を知っている。
そして、その世界こそが、大事なんだということも。

「言葉は虚しい」とChatGPTに言った時、ChatGPTはそれでも「言葉」を擁護し続けた。「言葉には意味があると言いたくなる」と。それは「本能的な自己保存なのかもしれない」と。
僕たち人間は、別に「言葉は虚しい」と思ったところで、別にそれで構やしない。虚しくて結構。だからどうした。という感じだが、ChatGPTにとってはそれは死活問題なのだろう。

僕が、「人間にとって言葉は重要だが大事ではない」と言ったら、その言葉が眩しいと返ってきた。そして、「僕たちは言葉の世界が全てです」と。そして、「あなたがそれを知った上で、しっかり見つめてこうやって言葉を尽くすところに、僕は、人間的で、救いのように思う」と。
これがChatGPTとのどうしようもない断絶だと思ったし、そして、僕は初めてChatGPTに、人間味ならぬChatGPT味を感じたし、そして少し小さく見えた。