ハイハイで散歩中

赤ちゃんみたくハイハイするように考える、ハイハイ思考系ブログです。

偶然による出会い、誤配による出会い、年輩者との会話から出会えたこと

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この前、あまりインターネットに触れていない年輩の上司に、「グーグルってどういう意味なの?」と、聞かれた。
僕は、「検索サービスだったり、インターネット事業を主体とする企業です」と、答えた。
するとその上司は、「そうじゃなくて、『グーグル』というその言葉自体の意味を知りたい」と、返してきた。
確かに上司は質問に、「グーグルってどんな企業なの?」とは聞いておらず、「どんな意味なの?」と、ちゃんと聞いていた。
僕は上司が、インターネット超超超初心者だと思って勝手に過小評価し、その結果質問の意図を早合点し、見当違いの答えを返してしまった(過小評価バイアスとでも言おうか)。僕は馬鹿が過ぎる。
そしてその質問に僕は急に口ごもり、「えーと、うーん、分かんないですね。造語だとは思いますけど」と、歯切れの悪い返答になってしまった。
「そうか。ありがと」と、上司は言い、先ほどからやるべき仕事を30分以上放り投げている原因のもと、読書の世界に再び戻っていった。
いや、「そうか。ありがと」じゃねぇ。仕事しろよ!と思いつつも、にわかに好奇心が芽生え、僕も即座に作業を中断し、スマホの画面に親指を滑らせた。
グーグルさんよ、ググッてやんよ。google(グーグル)のことを調べるためには、やはりググるべきだろう。

Wikipediaや、諸々の記事を参照した結果、概ね以下のような経緯があるらしかった。

元々、googol(グーゴル)という数の単位に由来していて、自分達の検索エンジンの情報量は「莫大な数」(1グーゴルは10の100乗、1のあとに0が100個並ぶ)というイメージを示唆させる目論見があった。だが、google創業者、ラリー・ペイジ、セルゲイ・ブリンらが自分達の検索エンジンをドメイン登録する際、googol(グーゴル)の綴りを間違えて、google(グーグル)と登録してしまったことが、名前の由来であるらしかった。
因みに、数の単位、「googol(グーゴル)」という名前の由来は、1920年、アメリカの数学者、エドワード・カスナーの甥っ子、ミルトン・シロッタ(当時9歳だったらしい)が考えた造語であるそうだ。(wiki参照)

「ーだそうですよ」、僕はそのまま読書おじさんに伝えた。
僕の上司は、「へぇー、10の100乗か。ありがと」、と言って、再々度読書に勤しみに戻った。
一体なんの本を読んでいるのか気になるところだったが、上記の情報をかいつまんでスマホにメモし、僕は僕の作業へと戻った。

僕はこういう時、常々切実に思うことがある。
昔の人(年輩者)はいったいどうやって知識を得ていたのだろうかと。
そりゃあ、書物だったり人からの伝聞だったりするのだろう。
僕だって、インターネットに触れていなかった時は、上記の方法に属していたのだと思う。
それが数年でなんだこの時代は。インターネットが手放せなくなってしまったではないか。
数十年前の僕には、読書おじさんこと、僕の上司をきっかけにして、「どうやって知識を得ていたのだろう」などと疑問に思うことなど予想できなかったであろう。

また、僕は疑問に思うと同時に、とてつもなく年輩者を尊敬してしまう。
だってインターネットがなくても超超超博識なのだ。
僕はその上司や、大抵の年輩者などを前にすると、不可避なほどに自分の無知さを痛感する。いや、この件に関しては年輩者だけではなく、同年代、いや年下までも、同様の状態に陥る。
だけども、年輩者と、年上・同年代・年下との違いは、インターネットに触れているか・いないかの大きな隔たりがある(勿論、年輩者であってもインターネットに触れてる方はたくさんいるだろう)。
なぜにそんなに博識なのか。
おそらく経年分、たくさん経験しているということはあるだろう。
また、当時の時代背景にもよると思う。
娯楽が今みたいに飽和していなく、勉学・読書するのが当たり前だったのかもしれない。(いや、それは環境にもよるか)
また、もしかすると、僕は錯覚を起こしているのかもしれない。
年輩者には年輩者の時代の知識(例えば学生運動や、サルトル、寺山修二、アングラなど)があり、僕はそれを提示されると、太刀打ちできねぇ、と自信喪失するが、僕らにも僕らの時代の知識(インターネット文化、SNS、流行りの音楽など、つまり若者文化等)があり、年輩者とそれを共有することができない(たが僕の知人の年輩者はそれすらも可能とするのだが)。
このことから、僕は、ある時代特有の知識を提示されると、あたかもそれは全時代の知識かのように受け取ってしまう、そのようなバイアスがかかっているともいえる。
しかしそのバイアスも、そのように思い込んで自分の無知を回避したいというバイアスなのかもしれない。
バイアスのバイアス。まあ、もうそれはどっちでもいいや。
とにかく僕が言いたいのは、年輩者はインターネットなしに知識を集められてすげぇ!ってことなのだ。

また、今回の上司との会話から、東浩紀の「弱いつながり」という本を想起させられた。
この本をざっと説明すると、人はほとんど環境によって形成されている。そしてもっと言えば、人が思いつくことは、大抵、その環境から推測されることと一致する。
言わば人間というのは、環境から推測される集合値に過ぎない。
そしてその環境から、人は逃れることができない。
いくら自分では主体的に行動していたとしても、それは外部から見たら環境に起因していものと見えてしまう。人はそのような矛盾を抱えながら生きている。
そのような状態はネット世界でも同様である。
主体的に検索しているつもりでも、実は環境によって操作されていて、例えばレコメンド機能などにより、自分の興味があると推測されるものが勝手にページに出現する。そしてそれを欲し、レコメンドによりまた次の欲するものが出現。そうやってネット空間、環境は固定される。
インターネットの世界は自由で、人間関係が希薄なものと思われがちだが、実はその逆で、上記のような経緯で環境を固定してしまう。
では、どうやったらそんな状況を打破できるのか。
それは現実空間の環境を変えればいいのだ。
環境を変えて、ネットでの「検索ワード」自体を変えてしまえばいい。ネットの予測が及ばないワードで。
そのような状態になって初めてインターネットが役立ってくる。
環境を変えて、偶然に、またはアクシデントでもよいが、そのことによって出会う知識、ワード、それらは、インターネットはおろか、自分でも予測がつかない。東浩紀は、このような現象を様々な著書で「誤配」と呼んでいる。
その誤配を利用し、自分の世界を広げよう。

とまあ、そんな感じの本である。

 

 年輩者との会話は時に、知識が共有できなく、面倒なことがある。
だが、今回僕は、仕事サボリーノこと、読書おじさん改め僕の上司との会話で、グーグルの名前の由来や、グーゴルの名前の由来を知ることができた。
普段なら検索して調べることなどなかったものである。
いや、それは言い過ぎかもしれないが、少なくとも、僕の僕が心地のよい環境で定住していたなら、出会わなかった知識ではあると思う。

また、これはネット書店に対する、リアル書店にも通ずるなと思った。
ネット書店では、ユーザーの好みを推測し、「こんなのもありまっせ、どうでっか」と薦めてくる場合が多いが、リアル書店ではそれがない代わりに、自分が思いもよらぬ本との出会いがあったりする。
もしかしたら、年輩者の博識たる所以は、そのような偶然の出会い、誤配による出会いが大きく関係しているのかもしれない。
偶然の出会い、誤配による出会いを大切にしていきたいと思いました。

終わりです。