ハイハイで散歩中

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深沢七郎「楢山節考」を読む-The Birthdayや宇多田ヒカルの楽曲との関連も

楢山節考 (新潮文庫)


この間、深沢七郎の「楢山節考」を読みました。
僕が読んだのは新潮文庫版で、「楢山節考」の他に、「月のアペニン山」、「東京のプリンスたち」、「白鳥の死」が収録されています。
どれも長い作品ではない短編なので、わりとさくっと読めました。

楢山節考は、一定の年齢に達した老人を山に捨てに行く(姥捨伝説)、その村独自の風習、いわゆる民間伝承を取り扱った作品です。
その風習を軸に、主人公とその母親のなんとも言えない関係が淡々と描かれ、ラストの主人公が母親を山に捨てに行くシーンは感動ものでした。

僕は、本を読んで泣きそうになるなんて今までに一度もなかったんですが、その最後のシーンを電車の中で読んでいて、「このままだと涙を流してしまう」と思い、読むのを途中でやめるほど、胸を打つものがありました。

深沢七郎氏は、あまり登場人物の心理描写を深掘りせず、ただ行為行動を淡々と描写していきます。
ただそれが読者に、というか僕に、言語化できない「なにか」を感じさせ、かえって胸を打つ結果となっているように思いました。

「楢山節考」は、上記の親子関係の物語だけではなく、現在に至る社会問題にまで関係している作品であるように思います。ラストの、主人公が玄関から息子夫婦を覗くわりと後味の悪いシーンなど、そのことを暗示させているのではないかと思います(後書きの解説を読んでやっと理解したのですが)。

まぁ僕は、社会問題を感じたからこの作品が良いと思ったというわけではなく、深沢氏のその淡々と日常描写をしていく先に訪れる「なんとも言えなさ」を感じて、この作品に興味を惹かれた次第です。

その淡々と日常描写していく傾向は、「東京のプリンスたち」でも発揮されています。
登場人物の青年たちは、軒並みエルヴィス・プレスリーが大好きで、プレスリーのレコードを聴くことが至福というか、とにかく死活問題的に必死に聴いています。

「プレスリーを聴くこと=生きること」みたいになっていて、あとはどうでもいい、というような生き方をしている気がします。
というか、その一瞬一瞬を生きていて、先のことはどうでもいい、という言い方の方がいいかもしれません(これも後書きに書いてありました)。

それは色々な場面で見受けられますが、僕が特に印象的なエピソードは、女の子といい感じになり、その先までいこうとした時に、ラジオからプレスリーの音楽が聞こえ、「ちぇッ、いいなァ」と思い、すぐさま中断し、いつものプレスリーが聴ける喫茶店へと向かってしまうシーンです。
本当に行き当たりばったりというか、今を生きているな、と感じさせられます。
極め付けは、なんてことのないラストシーンですが、あの終わり方もなにかぐっとくるものがありました。

淡々とした日常描写、今を生きる、人間は生まれてそして死ぬ、ただそれだけ、そのような無常感が、深沢氏の作品全体に低流している気がします。

その最たる例が、「白鳥の死」だと思います。
この短編は、深沢氏と親交が深い正宗白鳥の死について書かれています。
その中で深沢氏は、人は死んだら、「センセイ」や「サマ」などの敬称はいらない、どんなに生前地位があろうとも、誰でも死んだら同じ物になる、そして、だから私はほっとするのだ、と。
一見薄情にも思える考えですが、僕はかなりぐっときてしまいました。
深沢氏の世界を超俯瞰で傍観する目、そして事物をありのまま描写する万物流転のセンス、かなり惹かれてしまいます。
深沢氏の作品はまだこの1冊しか読んでないので、もっと他の作品も読んでいこうと思います。

 

また、この深沢氏の作品で感じたものを、バンドThe Birthdayの「なぜか今日は」の歌詞にも感じました。
歌詞は、ただ日常の描写の羅列、例えば、

「Sundy  新宿 網タイツ スーパーマーケットの帰り 乳母車 ショートパンツ 酉の市 スマイルなブロンド」

目に見える瞬間瞬間の日常の一コマを切り取ったような歌詞です。
ただ、そこから、

「なぜか今日は殺人なんて起こらない気がする だけど裏側には何かがある気もする」
とも歌います。
僕も日常、ふとした時に何故か分からないが満ち足りた気持ちになる時があります。ただその裏には何かやっぱりあるんじゃないかと、一抹の不安もよぎる。

ある種アンビバレントな気持ちを両立させているこの歌詞に、深沢氏と同様の、言語化できない「なにか」を感じて、ぐっときてしまいました。
「なぜか今日は」に関しては下記のブログを参考にしました。宜しければ読んでみてください。

ameblo.jp

 

また、深沢氏とThe Birthdayとは若干異なるかもしれませんが、僕は宇多田ヒカルの「虹色バス」にもグッとくるものを感じます。

この楽曲は、世界には多種多様な人間がいますが、分かり合えない人だったり、ケンカしてしまう人だったり、愛し合う人だったり、そのような人達も、日常に感じる些細な幸せだったり、あるいは嫌な気持ちだったりなど、「感じる」気持ちはみんな同じなのではないか、という発想のもと作られた楽曲らしいです。

確かに歌詞全般は、

「遠足前夜は必ず寝不足 楽しみで楽しみで 気になるあの子が突然留学 せつなくてせつなくて」など、日常の各々感じる気持ちを歌い、そして、

「虹色バスでどこか行こうぜ 大きな声で歌を歌って」

と、とてもポジティブに、みんなで一緒に生きてこうぜ的なノリになっています。

しかし、最後の最後で、

「誰もいない世界へ私を連れて行って」

と歌い、「Everybody feels the same」でフェードアウトします。

これは、一見すると矛盾しているような気もします。しかし、僕は宇多田ヒカルさんはとても素直な人だと思うので、みんなと繋がりたいと思う気持ちも本当だし、でも他方で一人にもなりたいという気持ちも本当で、そんなアンビバレントな在り方をするのも人間だよな、と素直に表現した結果がこのような楽曲になったんではないかと思います。

この素直に人間の在り方を表現してしまう感覚が、深沢氏と通じている部分ではないかと思っています。こういう感覚があるアーティストに僕は惹かれてしまいますね。

 

「楢山節考」、まだ読んでない方はぜひ読んでほしいです。
言語化できない「なにか」を感じることができると思います。

それでは!