ハイハイで散歩中

面白いと思ったものをただただ紹介したり、またはただの雑記に成り果てそうです。

ハイハイで散歩中

「切れない」人間関係、「切れる」人間関係

f:id:nocafein:20170311003940j:plain

今から8年程前に、NHK衛星第2テレビ、つまりBS2で、「ザ☆ネットスター」という番組がやっていた。
この番組は、インターネット上にあるコンテンツを紹介したり、そのコンテンツを出演者同士で語り合うというバラエティ番組で、MCに立川談笑喜屋武ちあき、その他東浩紀金田朋子柚木涼香(ナレーションで参加)など、癖のある出演者で構成されていた。
さらに、その出演者、東浩紀(批評家)と、柚木涼香(声優)の2人がやっていた、「ザ☆ネットスター」のスピンオフともいえるネット配信限定番組、「柚木涼香東浩紀の、動物化してもいいですか♡(はあと)」という、月1のペースで更新される番組があり、僕はこの番組が結構好きで、一時期ニコニコ生放送(僕はリアルタイムでこの番組を観たことがなく、実は最近この番組を知った)やYouTubeで、心のオアシスかのように観ていた。
この番組は、両者がとりとめのないことを話したり、視聴者からの悩みに答える人生相談コーナーがあったり、時にはお酒を呑みながらの回もあったりと、基本的に超絶ゆるい番組であった。
その猛烈ゆるい番組に、喜屋武ちあきをゲストに招いた回があり、その中の、人生相談のコーナーでの話を、今回は少し掘り下げてみたい。

とある視聴者から、

「会社の上司と呑みに行くより、ネットで知り合った、趣味が同じ仲間と呑んでる方が楽しいんですが、そのような、お互いのことを知らない浅い人間関係だけを作っていくだけでいいのだろうか。もしくは深い人間関係を作るとすればそれにはコツはあるのだろうか。はたまた深い人間関係を作らずに生きていけるコツはあるのだろうか」
というようなお便りが届いた。
それに対し東浩紀は、なぜ上司と呑むより、ネットで知り合った仲間と呑む方が楽しいのか、ということについての分析を始める。
氏曰く、人間関係は、「切れる人間関係」と、「切れない人間関係」の2つに分けることができるという。
「切れる人間関係」というのは、こいつ嫌な奴だな、と思ったら、いつでも遮断でき、もう2度と会わなくて済むことが可能な状況が担保されている関係のことで、相談者さんの例で言えば、インターネット上で知り合ったお仲間のことが該当する。
互いの趣味の話だけで盛り上がることができ、特段、それ以上の話しをしなくてもよい、そして、自分の丁度よい頃合いで引き上げることができる、そのような関係。
他方、「切れない人間関係」は、これまた相談者さんの例で言えば、会社の上司との関係のことで、長らくその会社に腰を据えると仮定した場合、その上司とは暫く共に仕事をしなければならなくなることが余儀なくされる。
なにか粗相をした場合、当分の間、もしかしたらその上司が会社を去るまでずっとそのようなイメージを持たれ、それは出世の段にまで影響を及ぼす可能性があるため、呑みの席でさえ、気を緩めることができないような関係。
東浩紀は、人間関係の本質は、「深い」とか「浅い」とかとは関係がなく、以上で述べた「切れる」か「切れない」か、ということなのではないか、そのことが重要なのではないか、と言う。
そして、相談者さんは、深い人間関係より、浅い人間関係を保っていきたいタイプであろう、という結論に達し、だとすれば相談者さんの現状そのままに、会社の上司と呑みに行かずに、ネットで知り合った仲間と呑みに行けばいいのではないのか、現状維持でGOだ。という結論になっていた。

そんな結論はどうでもいいのだが、正直僕は、東浩紀が言う人間関係の本質、「切れる」とか「切れない」とかのことが最近までよく理解できないでいた。
ただ、この間ふと思ったことがあり、そのことと併せて考えてみると、わりとスムーズに理解することができた。
それは、僕はたまにしんどいことがあると、どうせいつか死ぬんだから、そんなしんどい悩みなんかどうでもいいのではないか。という風に考える、ということだ。
これは決してニヒリズム虚無主義)やペシミズム(悲観主義)に陥っているのではなく、むしろ生への希望、人生の充足を望む考え方である。
このように、「どうせいつか死ぬんだから」と考えることは、悩んでいる対象物(人)と、いつかお別れできる、つまり、いつかその物(人)たちと、「切れる」ことを担保できている、ということである。
このように考えると、とても気持ちが楽になる。
そしてこういう考え方をもとに東浩紀の言った、「切れる人間関係」・「切れない人間関係」を考えるとスムーズに理解することができる。

ただ、東浩紀がいう「(いつでも)切れる」ということをそのまま僕の考え方(または逃避方)に当てはめてしまうと、「(いつでも)死ねる」ということになり、それは自殺を意味してしまう。
僕は自殺を考えたことは一度もない。
無条件に「生」を選んでいる。
だから、「『いつでも』死ねる」、ではなく、「『いつか』死ぬ」、という考え方をする。

僕は死にたくない。

生の充足を望んでいる。

生に希望を持っている。

それは何故なんだろう。

年齢が関係しているのか。

充足を感じたらそれでお終いか。

 

恐らく答えは出ない。

ただ、死にたくない。

ただ、生の充足を感じたい。

ただただ、それだけ。

それだけが、あるだけだ。

話が変な所へ着地したところで、今回はこのへんで。

ありがとうございました。てへぺろです。

nocafein.hatenablog.com

↑お暇な時に読んでいただけると幸いです。