ハイハイで散歩中

赤ちゃんみたくハイハイするように考える、ハイハイ思考系ブログです。

5月6日の日比谷野音でのベイビーレイズJAPANのライブ(ニコ生Ver.)を観て思ったこと。

5月6日(日)、日比谷野音で、ベイビーレイズJAPANのワンマンライブが開催された。それに併せて、ニコ生でもそのライブの模様を配信していて、プレミアム会員なら、期限日までその配信が何度でも視聴可能となっていた(多分)。
僕は、行こうか行くまいか迷いぐずぐずしていた矢先、そのニコ生の情報を入手してしまい、おーこれは便利だ、そうか最悪現場に行けなくてもニコ生で観ればいいのか、と余裕をぶっこき倒していたのだが、ただそれでもやっぱり現場に行かなかったら後悔すると思い、チケットを購入しようとサイトに行ったら、チケット購入期限が過ぎてしまっていて、なんじゃそりゃ、と暫く茫然自失となって、早々に後悔するはめになった。
twitterで見かけて僕も同意するのは、もしかしたら、ニコ生の告知が、行くか迷っていた人達の消極性に拍車をかける要因になってしまったのではないかということ、そして終いには僕のような後悔ルートを辿る人を増やしてしまったんではないか(そんなアホは僕だけかもしれないが)ということだ。
だから、告知のタイミングも難しいと思ったというか、全てのチケット受付が終了してから、「朗報です!ニコ生でも配信することが決定いたしました!」的な救済演出をすればいいのではないかと思ったりした。
あと、当日券も少し出ていたのだが、それはすぐ売り切れてしまうと思い、当日は、完全にニコ生シフトに移行していた。

配信をオンタイムでは観れなかったので、少し間が空いてから観ることになった。
結果から言えば、「やっぱ現場行きゃよかった」、ということに尽きた。
やはりあのエモさは、ダイレクトに皮膚感覚で味わいたくなってくる。
そういう意味ではニコ生の配信は僕に対してすごく効果的であったと言える。

ただ、ニコ生仕様のライブもとても良かった。
画面を流れるコメントから、今、この瞬間のこの場面では、どのような思いなのか、どのように感じているのか、はたまた全く関係のないコメントなども含めて(これはこれで面白い)、ただライブを観ているだけでは見えて来ない、ファンの様々な思いがライブと同時進行して可視化されていた。
だから多種多様で、とてもエンターテインメントな空間になっていたと思う。

ライブの内容的には、まず始めの、登場前のBGMからして絶妙にベビレらしかったと思う。
正確にはバック・グラウンド・ミュージックとは言えないのかもしれない。
流れていたのは音楽ではなく、ベビレが結成された経緯の模様の音声であった。
結成当時から、この模様は、事務所レプロがYouTubeに公式にあげていたので、僕はベビレにハマった当初に観ることができていた(ただ、本ライブでの音声は、恐らくDVDの特典映像からのものだと思う)。
この動画は、テロップや効果音、そして「パイセン菊池亜美」というこれらのギミックにより、ドキュメンタリーなのか、台本があるコント的なものなのか判然としない仕上がりになっている。
ただ、やはりメンバー達の表情や言動をみる限り、これはドキュメンタリーなのだと僕は理解している(というか恐らくそうだろう)。
個人的にこの動画は結構好きで、事務所の先輩菊池亜美の絶妙にグダグダの芝居が、絶妙なクオリティとなって顕れる。なんというか良い意味でのB級感という感じ。
そして、その頃から、まなっちゃんはしっかりとしていて、りおとんの言動は大人びていた(そして2人の過去の話はぐっとくるものがある)。
まあその動画の話はこれくらいにして、本ライブでのBGMの帰着は、パイセン菊池亜美がグループ名をメンバー達に告げる、「みなさんのグループ名は、ベイビーレイズです!」となり、その刹那、メンバー達がステージに入ってくるSE(登場曲)が流れる。という運び。
正直この流れは、賛否両論あるだろう。
なぜなら、ベビレ結成経緯的BGMは、20分くらい流れていたからだ。ニコ生でも「え、長くね?」的なコメントを幾つか見かけた。
だが、僕はこの試みを面白いと思っている。ライブ当日の5月6日は、ベビレの結成日でもあって、故にあのようなBGMを流すのは理解できるし、そして新規のファンにも優しい。
そして、「みなさんのグループ名は、ベイビーレイズです!」と言って、登場してくるというのは、カッコいいのか、ダサいのか、ちょっと言いにくいところでもある。
だがそこがベビレらしいというか、面白いところだな、と僕は思ってしまうので、僕はこのBGMには肯定的である。

そして、一曲、一曲の感想を書くことは僕にとって結構根気のいる作業なのでやめておくとして、この記事では、全体的な感想と、印象に残ったシーンを幾つかピックアップするに留めておこうと思う。
最も強く思ったのは、僕が気付かなかっただけで、以前からそうだったのかもしれないが、メンバーみんなの歌唱力がとても上がっているというか、発せらている声がとても力強く感じられたということだ。
陳腐なのであまり多用したくはないが、みんな一段と「エモく」なっていた。「エモエモ」、といったところであろうか。
なにより、りおとんが無茶苦茶声が出ていてエモさを感じた。
その他、個人的に、メンバーの特に「エモさ」を感じた場面を列挙してみる。

・「何度でも」の、ラストサビ前の、ソロサビでまなっちゃん→リコピンときて、「何度でも夢を見ようー!」のリコピン。
・「何度でも」のサビ前の、「そうだ!」のでんちゃん。
・「僕らはここにいる」のラップパートの高見。
・「シンデレラじゃいられない」の曲入り前の、まなっちゃんの煽り、「あたし達が全部受け止めるよ!」のリミッター解除の黒まなっちゃん。

以上の他にもまだまだあるというか、全てがエモい、全エモなのでこれくらいにしておく。エモエモ。
また、「シンデレラじゃいられない」が微妙にアレンジが加えられていて、バージョンアップというか、スーパーサイヤ人から、スーパーサイヤ人2になった感じがあってよかった(表現が幼稚で申し訳ないが、本当にそう感じられたのだ)。
他にもガラッとアレンジされた曲もあった。
「涙のち晴れ」と、「ベイビーレボリューション」である。
「ベイビーレボリューション」は、しっとりバラード系にアレンジされていた。この曲は、激しくてカッコよくて、拳を突き上げるのが似合う曲のイメージがあったので、このアレンジには驚いた。たまにはこのようなアレンジも良いと思ったが、やはりベビレボはエモの代表曲であると思うので、僕は原曲のほうが気に入っている。

また、アンコールでのでんちゃんのMCは少しぐっとくるものがあった。
「無限にあるもはなくて、有限だからこそ愛おしい・・・」的な発言は、ファンが勝手に色々想像してしまうワードも含まれていて少し動揺を誘われたが、これは人生においても通ずる、なにか真理めいたものがあって、考えさせるものがあった。
僕はこのライブを観終わって、いや観ている時から、なんか切なくて苦しいような感情が押し寄せてくるのを無視できないでいた。
それは、僕が、ファン歴は浅いにせよ、ある程度ベビレのことを知ってしまっていて、それ故、ベビレに物語性を付与してしまっているからなのだと思う。
その物語というのは、ベビレの歴史とか、ベビレに起こった事件(サイリウムだとか)とかそういう客観的事実も多少含まれてるとは思うが、大部分は僕の個人的な勝手な思いが作り出しているストーリーなのだと思う。
勝手な思いとは例えば、「こんなに歌が上手くて、パフォーマンスもよくて、ライブが最高なのに、なんでもっと売れないんだ!」、だとか、「6年目に入り、年齢も重ねてきて、そろそろ解散も視野に入ってきているんではないか」とか、そういうものだ。
もっと言えば、その物語性を喚起させる要因としては、ライブでの全力パフォーマンス、そして「エモさ」なのだと思う。
「エモさ」は物語性を帯びさせる。そして苦しく、切なくさせる。別の言い方をすれば、「ドラマチック化する」、とも言えるかもしれない。 「物語性」や「ドラマチック」というこれら要素は、アイドルをアイドルたらしめている補完要素なのかもしれない。

そして、でんちゃんMCの、「無限なものはなくて、有限だから愛おしい」というのと、前にももクロの有安が卒業するという際に、高見がTwitterで、
「アイドルとは尊いもので、 いずれは何かが変わらなければ 世間から忘れられそうになるわけで、 今応援してるアイドルが活動出来てるのも、 あたりまえじゃねぇからなぁ!!!!!」
というのを肝に銘じて、次は、ライブの現場に直接行って、皮膚感覚で享受しようと思った。

また、直接ベビレのライブとは関係ないのだが、ニコ生のライブを観ていて思ったことがあった。
それは、流れてくるコメントを先に視界に入れてしまい、自分がその場面について本当はどのように思っていたかが永久に分からなくなるということ、そして自分の頭で考えることが困難になるということ、だ。または、思考が中断してしまうと言ってもいいかもしれない。
例えば、あるメンバーのパフォーマンスにおいてコメントで、「これはエモい。エモ過ぎる」というコメントを視界に入れてしまったら、自分は、「あー確かにエモい。エモ過ぎるなこれは」となってしまいがちだということ。そのコメントを視界に入れていなかったら、もしかしたら、そこまでエモいとは思っていなかったかもしれない。
そして、その直後に、「いや、そこまでエモくなくね?」という他のコメントを見つけたら自分は、「確かに。言うほどエモくはないかもな」となってしまうかもしれない。
この時、この2つのコメントに揺さぶられてしまうということは、基準になるもの、つまり元々の自分の感想・意見がないということが露呈している。
これは、自分で考える前に他人のコメントを視界に入れてしまう、コメントが流れてくるというニコ生の構造上起こるシステム的問題で、そしてそれは僕にとって、結構重要な問題として顕れる。
もちろん、良い面もある。コメントが解説の役割になり、その場面においての新たな知識、知見を増やせたりできる。そういうのも踏まえると、だから結構良し悪しだと思う。
まあ、単純にコメント付を解除すればいい話なのだが、せっかくニコ生で観ているのだから、という思いと、エンタメ的に面白いではないか、という思いとで、やはりコメント付で観たいと思ってしまう。
誰かが、「やべえ、めっちゃエモい」というコメントをしているかと思えば、すぐ下に、「トイレ行ってくる」、とか「え、俺プレミアム会員じゃないけどなった方がいいのかな」とか、無茶苦茶私的なことをコメントしている人もいて、すごいカオスな空間だなと思うし、それが実に面白いと思ってしまう。
だから、まあ、良し悪しです。

また、これはニコ生に限った話ではない。スポーツ観戦の番組だって解説や実況は付き物だ。戦略の解説なら知識が増えるからいいのだが、もっと抽象的な、「今のは良いプレイだ」、「今日は不調ですね」みたいなレベルのコメントは、注意が必要になると思う。
こういうのを打破するためには、音声を消して、自分だけで一回観るか、または色々観たり、色々な意見を仕入れたり、また解説を疑いながら聞くなどし、たくさん経験を重ねるのがいいと思う。
そして、自分の頭で考える癖を付けることが結構重要なのではないかと思う。
ニコ生の場合でも、最初に視界に入れたコメント「エモ過ぎる」のに対して、「あー確かにエモい。エモ過ぎるなこれは」程度の反応は、たいして集中して観ておらず、なんとなく観ていて、なにも考えてないとても鈍感な状態になっている。
そうではなく、最初のコメントに対して自分が自信をもって「同感。エモ過ぎる」と即反応でき、次に視界に入れた「いやそれほどエモくないだろ」には、自分は「いや、エモ過ぎるだろ」と、即反応できるくらいに集中して観ておけばよいのだと思う。
しかし、こんなになんかストイックに「考える癖を付ける」とか「集中」がなんだとか書いてはいるが、僕自体そんな疲れる観方は能力的に無理というか、もっと楽に観たい。
だから、実は、自分の思考が中断してしまっていることや、自分の意見は最初からない状態で物事を見ていることが多いということを自覚するだけでもよいのではないかと、そういう甘えた、自分に都合のよい考え方へ帰結させることにする。

話が逸れてしまったが、日比谷のライブは、動画でしか観ていないが、エモくてとても良かった。やっぱり、現場に行くのが一番だと思った。
無限・永遠なものはく、有限だからこそ、愛おしくて尊い。
それがアイドル。
という帰結。

終わりです。

泥酔して記憶のない人物と、翌日酔いから醒めた人物は同一人物か

山口達也の一件を見ていて、直接内容とは関係のないことを思った。
それは、泥酔していて色々問題を起こした人物と、酔いが覚めて、泥酔していた時の記憶が失われた人物は、はたして同一人物と言えるのか。というものだ。
僕は以前に、同一性に関する記事を2つほど書いている。

www.teheperow.com

www.teheperow.com

その時の記事では、同一性は、記憶か、身体かのどちらかに依拠するところが大きくて、そして、僕はどちらかと言えば、記憶の方をより優先する、といった内容を書いた。
そして、さらに付け加えるなら、「連続性」が重要になってくると思う。
「記憶の連続」、「身体の連続」というふうに。

今回の例で言えば、泥酔している人物と、そのことを全く覚えていない人物は、その場にいた第3者から見れば、「同一人物とみなす」方が一般的な思考の持ち主のように思われる。
それは、第3者から見れば、性格の変化は見られても、「身体」は「連続」しているように見えるからだ。
別の言い方をすれば、第3者の「記憶の中の身体」が連続している、とも言えるだろう。

では、第3者ではなく、当事者から見たらどうだろう。
記憶を失くしてしまっているが、どうやら周りの人の話しを聞けば、自分はとんでもないことをしていたらしい。
この場合、手がかりとなるものが、他人の証言の、他人の記憶の「身体の連続」しかない。だから、対抗しようにも当事者にはその武器がない。
だから通常なら、他人が証言している人物と、当事者自身は、「恐らく」同一人物とみなすことになる。
また、仮にその当事者に常習性があり、他人に言われた時、その当時の記憶がなかったとしても、以前にもそのようなケースがあったことを思い出し、その経験をもとに、今回も自分がやったと認めざるをえなくなる可能性も考えられる。
以上の話しは当然といえば当然の帰結だと思う。

しかし、こう考えるのはどうだろう。
当事者の記憶の面から考えれば、その時の記憶が欠落している自分と、第3者の話しの中での「そいつ」は、連続性がないことになる。
よって、自分と「そいつ」は別人である、と。
先日のワイドナショーでの松本人志の発言も興味深かった。

 「『昨日ごめんね』とか『だいぶ酔ってて』とか、酔ってないお前に謝られてもね・・・」
「狼男が、月夜の晩に『絶対噛めへん』って言ったら信じられるけど・・・」

泥酔していた人物は別人。
別にこの考え方が正しいとかそういったことではなく、現実味を帯びてはいないと思うが、単純にこのような考え方もできるよね、といったものだ。
そして、この考え方は、やはり別人を作り出すお酒には注意しなければならないし、飲み過ぎは危険だし、危ないと分かっているのに手を出してしまうその人の精神的ケアを考えていかなければならないよね、となるだろう。

最後に余談だが、同じ電車内でも、朝の電車内の雰囲気と、夜の電車内の雰囲気が全く違ったり、電車内に限らず、街の雰囲気だって、日中と夜では、まるで前編・後編という二部構成のような変貌を遂げたりする。
もちろん、時間帯によってそれを構成する人間が異なっているというのもあるだろうが、その「異なっている」人間の中には、「身体」が異なっている人もいれば、「身体」は同一に見えるのに、「中身」がまるで異なっている人もいると思う。
そういう一日を通して中身が異なる人の同一性を見出すのはなかなか難しいのではないかと思う。
やはりお酒というのは人を変えるのだと思う。
まあ、それが面白い文化との捉え方もできると思うが、他方でやっぱり、げんなりもします。
もちろんお酒だけが人を変えるわけではないし、例えば、当事者自身は普通にしていても、他者からみれば、「あれ、なんか雰囲気変わったね」、「なんか性格変わったね」という「なんか」レベルでの変化は無数に他者は見出せる。
だが、お酒は安易に人を変える。「なんか」レベルまでならよいが、「極端」にまで変えることができてしまう。
自分は、一日のネガティブな二部構成を作り上げてしまう、その構成員の一人にはなりたくないと思って気をつけてはいるのだが、・・・どうだろう。
というわけで、終わります。
ありがとうございました。

 

生駒ちゃんの卒業や、「熱波」からのベビレ卒業、「めちゃイケ」や「みなおか」の終了のことなど。

いやー、GW。GW。GetaWay、GetaWay、地の果てまで~♪なんて、かつてメディアに出ていた、綺麗な顔立ちの女性シンガー、上木彩矢の「ピエロ」を懐古する今日この頃である。(因みに本来なら「GetAway」と表記するところだが、発音的に「Way」を強調すると思われること、また「GW」に寄せなければならないことから、「GetaWay」表記にしている。こんな野暮な説明をしなければならないのなら、もっと良い「GW」になる単語があったのではないかという気もしないではないが、無性に「上木彩矢」というワードを出したくなったので、以上に至る、といったところでしょうか。)

先日、「乃木坂工事中」という番組で、生駒ちゃん卒業に際し、生駒ちゃんに、代表してメンバーの何人かが感謝のメッセージを送るという趣旨の放送があった。
そして番組最後に、番組MCのバナナマンと生駒ちゃんの3ショットトークがあり、その中で、卒業に対する思いや、未来のことなどをバナナマンに向けて話していた。
その話しを観ていて一番に思ったことは、「無茶苦茶しっかりしてる」、ということであった。
恐らく普段からちゃんと物事を考えているんだろうなと思わせる、説得力のある、堂々とした、ちゃんとした意見を言っているように見えた。
僕は過去、番組中に時々垣間見える生駒ちゃんのお姉さん的振る舞いが中々受け入れられなかったが、その時の生駒ちゃんのトークは、もっと話しを聞きたくなるほどに、普通にその3人の話しを楽しんでいる自分がいた。
生駒ちゃんの話しはとても筋が通っていて、納得の行く話し方だった。

例えば卒業理由の話の時、

「アイドルというのは成長過程を見せるコンテンツだと思うが、舞台など色々他でお仕事させていただく中で、『本物』になりたいと思ってしまった」

という旨の話しは、ハッとさせられたし、説得力のある内容だった。

僕は生駒ちゃん推しではなかったが、これからの生駒ちゃんの未来を応援したくなった回であった。

卒業といえば、少し前になるが、テレビ埼玉で放送していた、ハライチ岩井がMCの番組「熱波」から、レギュラーで出演していたベイビーレイズJAPANが卒業した。
ベビレは、2017年4月からレギュラーになり、翌年2018年3月いっぱいまで、MC岩井と共に番組を務めた。
僕にとって、これといって、なにが面白いという番組ではなかったが、なにせベビレメンバー全員のレギュラー番組が「熱波」くらいしかなかったので(あとはもう終了したが「浅草ベビ(うず)9」くらい)、虎ガー(ベビレファン)の僕にとっては、貴重な番組だったし、ハライチ岩井も嫌いではなかったので、観ない理由はなかった。
ベビレ出演最終回は、とても感動的な終わりに思えた。
最終回は前編・後編と2週に渡って放送していたが、始まりから終わる間際まで、岩井もベビレも微塵も悲しむ素振りを見せず、むしろ終わることをネタにし笑いに昇華していたくらいで、僕にとってそれはとても好感が持てた。
そして、ある意味それが伏線となって、番組が終わる間際に、岩井からベビレへメッセージを贈るという卒業演出が、やっと、「あー、本当に卒業するのか。もう岩井とベビレの組み合わせは見られなくなるのか」という感傷的な雰囲気を作り上げていた。
それでも、岩井は、ユーモアを交え、芸人という職業を全うしながら、メンバーひとりひとりにメッセージを贈っていた。
その時から萌芽はあったと思うが、個人個人にメッセージを贈り終え、最後に、メンバー全体にメッセージを贈る段になり、岩井が少し恥ずかしそうに、しかし真面目な口調で、「ベビレが頂点に行かなかったらアイドル業界は終わりだな」とぐっとくる発言をした後、岩井がいやにヘラヘラ笑いながら話し始めているなと思った時、メンバーの高見が「泣かないでー」と茶化す感じのガヤを入れたことによって、「あ、泣きそうなのか、やっぱり岩井は寂しいのか」と、視聴者は岩井の熱さに気づくことできた。
そして番組全体に熱い感動的な色が帯び始めた頃、この番組のオープニング曲である、ベビレの楽曲「僕らはここにいる」のイントロがBGMとしてフェードインしてくる。
通常回なら、番組冒頭にタイトルバックと共に流れるのだが、今回は、番組の最後に締めとして、全員で「熱波~!」とタイトルコールをして、いきなり画面が切り替わった刹那、先ほどまでのBGMからエンディング曲に変貌を遂げた「僕らはここにいる」のサビが流れ、そして一拍置いたあと、タイトルバック「熱波」の文字が画面にズドンと出現し、それはまさにベビレに相応しい、「エモい」終わり方になっていた。
そして、最後のカットで、番組収録が終わったと思われるオフショットが流れていて、実はまなっちゃんが泣きそうになっていたことや、りこぴんや高見はバラエティ担当の意地か、最後まで全く泣く素振りを見せなかったことなどが確認でき、ベビレのバランスの取れたチーム感を見れた気がして、なんだか良かった。
というただの番組を観終えた感想である。

 「熱波」は、ベビレが卒業しただけで、番組自体は終了したわけではないが、番組自体終了してしまったバラエティ番組もある。
例えば、「めちゃイケ」や、「とんねるずのみなさんのおかげでした」である。
とりわけその2つの番組に思い入れがあるわけではないし、最近では全く観ていなかったので、番組が終了して、「あーそうか。終わってしまったか」という感想と、学生時代は観ていたりいなかったりしていた番組で、まあ当たり前のようにあった番組なので、少なからずの喪失感というか、少なからずのショックの念はあった、という感じだ。
僕が思うに、「笑い」中心のバラエティー番組というものは、そもそも長く続けるのがとても難しいのではないかと思う。
笑いを作る上で必要なものは、「新鮮さ」「鮮度」「予想外」などだと思う。
そして、あらかじめ笑わせると分かっている、お笑い芸人や、お笑い番組は、上記で挙げた、笑わせるという「予想外」が封殺されてしまっていて、最初の段階でとてもハードルが上がっていることになる。
残るは、どうやって、「新鮮さ」、「鮮度」のある笑いを生み出すかということで、その方法で観客(視聴者)と闘わなければならない。
だが、「新鮮さ」や「鮮度」ある笑いを生み出せたとしても、それを受けた者は、その受けた瞬間からその「新鮮さ」の「鮮度」は失われていく。
だから、「笑い」というのはそもそも短命であって、それ中心のバラエティ番組となると、長く続けるのは中々難しいのではないかと思う。
「めちゃイケ」などは、番組を続けるために、新しい、時代の先をいくような企画をかなり生み出していたと思う。
そして、とんねるずの番組もすごいのだが、「土曜20時はめちゃイケ」、「木曜21時はみなおか」、という風に、視聴者にそのようなイメージを植え付けさせたことは、かなりの功績なのではないだろうか。
だから、番組が終わってしまって悲しむというよりは、ここまで長く続けたそのこと自体を賞賛するべきなのだと思う。

最近のバラエティ番組で僕が面白いと思うのは(と言ってもたまにしか観ていないが)、「水曜日のダウンタウン」で、かなり攻めている番組作りだと思う。
ただ、笑いの域を出てこちらが不快になるようなものや、「斬新さ(クレームに対する皮肉なども含む)」のみを追求していて、視聴者を先導するというよりは、置いてけぼりにしている企画もあり、手放しでは賞賛はできない。
だが、それでも僕が興味を持ってしまうのは、企画によっては、SF的なものや、哲学的な思考を喚起させるものがあるからで、「笑える」というよりは、「興味深く面白い」といった感じだ。
そう、「水曜日のダウンタウン」は、笑い中心というよりも、企画の面白さが際立っている。
僕は、今後のバラエティ番組は、笑わせる笑い中心ではなく、あくまで笑いは、「ツール(道具)」として、いわゆる「ユーモア」としての役割にした方がよいのではないかと思う。
だがこれは、あくまで、その番組にさほど興味を持っていない、興味を持っていなくてもなんとなくその番組を観てしまう人がいる、「地上波」での話だ。
本当に笑いだけを追求したいなら、Amazonプライムだったり、独自の動画プラットフォームでもいいが、そのようなネット配信での有料コンテンツとしてやればいいと思う。
「地上波」でやってしまうと、変な、お門違いなクレームがきてしまったりするので、非常に面倒だろう。
それならば、その番組を観たくて観に来ている人に向けて番組を作ったほうが、お互いにとって良い結果をもたらすのでなないかと思う。
決して「笑い」が不要と言っているのではない。「笑い」、「ユーモア」はありとらゆる場面で絶対必要なものだ。
ただ、あくまで「ツール(道具)」としての方が、本質的に、「笑い」、「ユーモア」の居場所に合っているのではないかと思うのだ。

僕が子供だった頃とだいぶ世界が変わってしまった。
恐らく、数年後、数十年後、また、同じように、「数年前とだいぶ世界が変わってしまった」、と思っているのかもしれない。
僕は、それを楽しめるような人物でありたいと思っている。
だからどうしたって感じである。
まあ、なんというか、終わります。
ありがとうございました。

 

会話しているように独り言をいう-現実だったり、仮想現実だったり-

僕は家で一人きりの時、結構独り言をいう。あたかも誰かと会話するかのように、機嫌よく喋っている。
それは物心付いた時からの癖で、あまり意識したことはないが、考えごとだったり、なにか頭の中を整理したい時、また、外界から自分を守るためだったり、ストレス発散したい時などに、自然と独り言をいっている気がする。……あまり意識したことはないが。というか、呼吸をする位かなり自然なことなので、敢えて理由を挙げるとすれば上記となる、といった感じだ。
ただ、ネットとかで調べみると、なにやら原因とか学術的に書いてある記事も多く、こういう記事ばっかあるから精神的にまいってしまう人が増えてしまうんではないだろうか、といつも思うが、逆にそれで安心する人もいるのだろうから、なんとも言えないか。僕自身、心配になって調べてしまうこともあるから、それはもう、てへぺろ以外のリアクションは見つからないだろう。
罪と罰の主人公、ラスコーリニコフのように外で歩きながら見境なくぶつくさ言ったりはまだない。
酔っ払って少しいい気分の時は少しガードが緩むのでやばい時もある。と言っても人が周りにいない時に限るが。
やはり、どうしても周りの目は気になる。

この前、電車で隣に座っている老夫婦とおぼしき方々の内、おばあさんが機嫌よく話していて、とある駅でおじいさんだけ降りていってもそのまま延々1人で喋り続けているおばあさんに出くわした時、「はい、事情は理解しました」と、あたかも僕の方が上の立場になって、その人を見下している自分がいて、本当は何もその人のことを理解してないし、事情なんて把握できるわけはないのに、偉そうにマウントを取る僕は、やはり浅はか過ぎる。
僕は自意識過剰で、そのせいで疲弊してしまうこともあるので、できるだけ周りを気にせず、自分が正しいと思う世界を生きていきたいと常々思ってはいるのだが、中々難しく、思うようにいかないな、というのの繰り返しだが、そのおばあさんはもしかしたら僕の理想とする人なんではないだろうか、と思ったり、いや、だがやはり、そうは思い切れない自分がまた顔を出し、なんというか、1人が好きと言いながら、結局寂しくなって他人を求めてしまう凡人な僕には、やはり、難しいだろう。とか思ってしまう。
でも、そのおばあさんは、達観している仙人よりも、真の仙人、いや圧倒的に尊ぶべき人物なのではないだろうか。
たとえ仙人とて、達観していようとて、相手や周りのことを見下し(達観するというのは上から見下ろすのだろうから)、洞察し、とてもプライドの高い人物だろうと思う。
そのような人物と比べたら、そのおばあさんは、周りをもはや気にならなくなり、自分の世界に没入しているのだから、もしかしたらひとり、(周りの人間から見れば)仮想現実を過ごしているのではないだろうか。
周りの人間と同じ世界を生きているようで、異次元にその人はいて、その人はその自分で作り上げた世界を疑うことなく、その世界で一喜一憂する。自分が作り上げた人物に嬉々とすることもあれば、憤ることもある。
だが、いくらその人が他人に感情をぶつけようとも、現実世界の人間には、なんのこっちゃ分からない。僕のすぐ隣にいるのに、交れない。ゆえに、究極的に干渉されることはない。
それは、僕が尊敬すべき人物なのではないだろうか。
赤ちゃんが可愛く思えたり、ペットの犬とかに癒される気持ちになるのは、他人を干渉しない、気にしない、その純真無垢性をこちら側が見出すからではないだろうか。そのような場所は居心地がいい。
もし、そのおばあさんにその純真無垢性を見出せたなら、僕にとって究極的に接しやすい人物になりえるかもしれない。
だがしかし、居心地はいいかもしれないが、わがままな僕にとってはやはり厳しいかもしれない。なぜなら、僕がもしその人に興味を持ってしまって、その人と距離を縮めたいと思った時、その際に立ちはだかるインタラクティブの不可能性を前に絶望しそうだからである。
やはり、僕は時おり他人を疎ましく思いながら、他人に認識されたい、そんな厄介な人物なんだろう。
しかし、自分が作り上げた仮想現実をリアルだと思い込み、周りの人間の反応も全て自分が作りあげ、あたかもインタラクティブできると信じて疑わず、その世界で人生を全うするというのは、果たして楽しいのだろうか。
あくまで自分で作りあげている以上(そのことを自分が忘れていようと)、予定調和感は拭えないだろう。そんな世界に生きて果たして……。
しかしよく考えてみたら、僕達が生きている現実の世界だって、独自に作りあげた仮想現実とどこが違うというのだ。
結局のところ、みんな思い込みで生きているに違いない。たとえ、予想外のことが起こったしても、それが自分の思い込みではないとどうやって証明することができよう。
どうやったらその世界から出られるのか。
出られたと思ってもそれが思い込みの可能性もある。
結局は独り言の世界、なのだろうか。
現実と仮想現実。
現実と夢。
夢の本質は、夢をみている時はそれが夢だと自覚できないことと、その夢から覚めれることだとしたら、仮想現実とは、その世界から覚めれることが、現実世界との違いなのか。
うーむ。

ぼそぼそと、独り言のような記事になってしまった。

終わりです。

あざした。

「女性の太もも写真展」開催中止について思ったこと-恥じらいや、後ろめたさと共に-

先日、デパートで開催されるはずだった、「女性の太もも写真展」という催事が中止になったらしい。
中止理由は諸般の事情ということらしいが、ネット上などでは、開催を疑問視する声が上がっていたとのこと。
そして、中止が決定し、そのニュースがツイッター上に出現すると、その中止に対しての意見や、疑問の声を上げ中止に追い込んだ(と思われる)客に対する批判などで、なんだか盛り上がっているように見えた(僕はその時寝起きだったので、寝惚けていて大袈裟にそのように見えたのかもしれない)。
真意は分からないが、開催に批判的な意見に、「未成年を思わせる」や、「色々な人が出入りするデパートで開催するべきではない」などがあるらしい。
だが僕が探した限り、ツイッター上ではそのような批判は見当たらなかった。
まあ、それは当然といえば当然なのだが、僕が見た時には既に中止が決まった後で、その中止になったこと自体がニュースになっていたのだから。
だから、ツイッター上での意見は主に、開催を批判した人への批判がほとんどだった。
だから、その「批判に対する批判」のツイートの中でしか、開催に対する批判がどのようなものだったかを知ることはできなかった。
その中でも、上記でも書いた、「色々な人が出入りするデパートで開催するべきではない」は、僕的には納得できる。ただ、「未成年を思わせる」は、よく分からない。
また、この催事は「卑猥」だ、みたいな批判があったのか、「じゃあ女の子はいつも卑猥なものを曝け出して歩いていることになるのか」などの批判や、「女の子だけの太ももがまずいなら男の太ももも展示すればよかったのか」的なツイート、またフェミニズムに話を繋げだ批判などなど、まあ色々あった。

僕の考えでは、この問題をフェミニズムや、男女差別と絡めて語るのは、単なる問題のすり替えのように思う。この問題の本質はそんなことじゃないと思う。
だから、そういう批判は話をややこしくするだけなので、まともにぶつかっては駄目だと思う。正直その手の批判は無視していいとさえ思う。
だからツイッター上でそれ関係の批判をしているのは、空を掴みにいっているようで、正直不毛だと思ってしまった。
じゃあそんなお前はいったい何が本質だと思うんだ、と問いただされそうだが、それはあとで書くとして、その前に2点ほど書いておきたいことがある。
それは、上記でチラッと書いたのだが、問題をややこしくしてしまう原因として、「問題のすり替え」をやってしまっているのではないか、とういうことだ。
つまり、ある問題が出た時に、それを、「自分の(こだわっている)問題」、または「自分が答えたい問題」に無意識に置き換えてしまっているのではないかということ。
本来の問いを、自分の都合のよい問いに変えてしまい、これはフェミニズムの問題だ、だとか男女差別の問題なんだ、という風に勝手に解釈変更してしまう。
そしてさらにその解釈変更された問いを受けた人が、また自分の問題にすり替え、お門違いな返答をしてしまう。そしてまたその返答を受けた人が・・・、という風にどんどんボタンの掛け違いが起こってくる。だからいつの間にか当初の問題とだいぶズレたことを議論していることにもなりかねない。これは日常会話などでも頻繁に起こっている現象だと思う。
だから、問題設定(本質)を最初にしっかりやらなければならないと思う。また日常会話などにおいては、相手がなにを問題としているのか、相手の「こだわりの問題」とはなんなのか、というのを気にして聞いていると、会話の軋轢などは避けられるのではないかと思う(と言っても結構難しいけどね)。
とまあ、ツイッターを見ていてそんなことを思いました。
あと、問題設定の誤りを誘因するもう一つの原因としては、特にツイッターなどのSNS関連において、それを使用している目的は、なにかを発信するために利用しているのであり(まあ、情報をただ得るだけに利用している人もいるだろうが)、その空間においては、皆なにかを発信して承認されたい病気に侵されているわけで、自分が発信できそうなネタがあれば、たいして問題意識なんて持ってなくても、そして相手の問題意識など考えもせずに、自分なりの解釈で意見を書いてしまう、そこに、問題をずらしてしまう隙間があるのではないかと思う。まあ、僕もやっちゃうんだけどね。
以上のことが、色々問題をややこしくしてしまう原因だと思う。

 

では、僕が思うこの問題の本質とは、それは、「この催事の開催意義とは何なのか」、ということである。
つまり、「女性の太もも写真展」を、「公共的な芸術」として捉えるのか、それとも「フェティシズム的な芸術、もしくはエンタメ」と捉えるのか、ということだ。
「公共的な芸術」と捉えるならば、恐らく、女性の太ももは「神秘的」だとか、「無垢的」とか、そのような言葉が紡がれそうである(漠然的なイメージです)。
一方、「フェティシズム的な芸術、もしくはエンタメ」と捉えるならば、性的魅力、または性的欲望とは不可分な気もする。
一体、主催者、写真家はどのような立場だったのだろう。
もし、僕が考える、「公共的な芸術」の立場ならば、開催にクレームが寄せられたとしても、その信念を持ったまま開催を決行するべきだったと思う。
また、「フェティシズム的な芸術、またはエンタメ」の立場でも、そのクレームは逆に狙い通りだとして、やはり、開催を決行すべきだったと思う。(僕はかなり無責任に言っているので、やはり、そのまま押し切るというのは難しいのだろうか。というか、クレームが来るという状況は想定していなかったのか。そのあたりもよく分からない)

僕の立場はというと、もし開催するなら、「フェティシズム的なエンタメ」とするべきだと思う。
申し訳ないが、それを「芸術」とは思えない。立錐の余地などないくらい、「性的」なものと捉えてしまう傾向が僕にはある。ただ、内容によっては、「性的」なものであろうともそれを「芸術」と捉える向きもあるだろう。しかし、「女性の太もも」においては芸術と捉えることは今のところできそうにない。あまりにも性的魅力の方が優ってしまう。
そしてこのまま「女性の太もも」をフェティシズムの範疇として話を進めていくが、この催事は、公の場でやらない方がいいと思う。やるならもっと小規模、もっと言えば、このような催事にするのではなく、写真集などにして書籍化、そしてもし仮に僕が購入するとしたら、その入手手段は、誰の目にも止まらないようにネットで注文して家で一人きりの享受タイムである。
そもそも僕の考えでは、「フェティシズム」というのは、極めて個人的で、そして人に知られるのが恥ずかしく、後ろめたさもあり、そして背徳的なものであると思う。
だから、公の場で観賞するのではなく、写真集という個人的享受物、そして恥らいからのネット注文である。もしくは、ツイッターによくある「画像BOT」でそれを眺めながら一人の世界に没入だろう。(※例えばの話です)
そのような形式のほうが、「フェティシズム」に合っているのではないかと思う。
一体どうやって、デパートの中の催事で享受できるというのだ。
周りに客がいる中で、盗み見るのではなく、それ目的で訪れているのだから隠れようもなく、目の前にある、まごうことなき太もも写真と対峙しなければならない。どうしても見るとなると、どこか吹っ切って、堂々と観賞しなければならない。
ただ、堂々と観賞するようになってしまったらそれは「フェティシズム」ではない。
恥じらいながら盗み見たい。こっそり見たい。どこかの店の覗き部屋のように(行ったことないけど)。それこそが「フェティシズム」の醍醐味、魅力ではないだろうか。
とにかく、「フェティシズム」には「フェティシズム」の相応しい場所というものがあると思うのだ。
なんでもかんでも市民権を獲得しようとすればいいってもんじゃない。中には、恥じらいながら、後ろめたい気持ちを抱えながら、享受したいものもあるのだ。

まあ、以上で述べたことは、この催事を「フェティシズム」展と捉えた場合の話だ。
そして僕が述べてきたことは「(男の)僕」からの目線に過ぎない。これが女性であったらどのような目線で捉えるのだろう。性的なものは介入させず、芸術として捉えるのかもしれない。実際そのような例も恐らくは多いだろう。
仮に、今回の催事を「公共的な芸術」として開催しようと思っていたとしてみる。だとしたらもっと、「芸術」だということを明確に表すべきだったのではないだろうか。そして、そのように捉える客層に女性が多いのだとしたら、女性が入りやすい空間作りを徹底すべきだとも思う。ツイッターで見かけた意見に、入場を「女性限定」にしたらどうか、というのがあったが、それも一つの手段だと思う。そのことについて中々男性は差別だなんて意見は言えないだろう。
この催事を「芸術」としての正当性を持たせたいのなら、そして、それが公共的なデパートでやる意義なのだとしたら、徹底的に、戦略的にでも、誰もが文句を言えない空間を作りあげないといけないと思う。
だからそのようなことも踏まえて、今回のニュースで議論されるべき問題は、「この催事の意義、そしてデパートでやる意義とはなんなのか」ということと、「芸術(アート)やエロやフェティシズムを表現する相応しい場所はどこなのだろうか」ということのように感じた。倫理問題に結び付けるのではなくて。

僕の意見を最後にまとめておくと、
・「フェティシズム」が趣旨の開催目的なら公共的な場所でやるのは悲観的ということ。
芸術(アート)的な趣旨の開催ならば、徹底的にそのような空間づくりをすること(偏見を持って訪れる客までもそれをアートとして捉えてしまうような)。そしてよく分からないクレームに負けて(実際どのようなものが来ているかは分からないが)中止にしないこと。中止にすると、開催意義がよく分からないものになってしまう。
という感じです。

因みに僕は太ももフェチです。

すみません。終わりにします。ありがとうございました。


先入観は遠いものほど生まれやすい。概念的観念や、観念的観念というよく分からない言葉を使って考える

先入観は、自分とその対象の距離が遠いものほど生まれやすい。
これは前提条件と言ってもいいと思う。
そして、距離を縮めていけば、つまり、その対象の情報などを知ることを始めれば、先入観は、崩れていく。
崩れていく代わりに、その対象の、「観念」が生まれる。
観念が、概念(先入観)を侵食し始める。(※概念=先入観としているのは、この場において、概念が観念より上位のものとして捉えているからである)

ここで少しカッコつけてみる。
仮に、先入観を、「概念的観念」と呼ぶ。(「固定概念」でもよさそうなものだが、僕はあまりしっくりこない)
そして、距離を縮めた対象から生まれたものを、「観念的観念」と呼ぶ。
もう少し具体的に言えば、最初の段階が、「概念的観念」で、距離を縮めればそれは、「観念的観念」になり、それを継続させればそれは、「固定観念化」する。(※この「固定観念化」は、「概念的観念」の場合でも、それをそのまま継続させれば当然のことながら「固定観念化」することになる)

①「概念的観念」
    ↓(情報などを知って距離を縮める)
②「観念的観念」
    ↓(そのまま継続)
③「固定観念化」

という流れだ。

例を出して考えてみる。
自分があまり興味のない女性タレントがお尻にタイキックを食らったというネットニュースを見かけたとする。
そのニュースに対する大方のコメントが、「可哀そう」、「やり過ぎだ」、などというネガティブなものであるとする。

ここで、先述した言葉を当てはめてみる。
あまり興味のないタレントということは、自分との距離が遠いことになるので、この段階では、「概念的観念」ということになる。
この「概念的観念」の段階の場合、このニュースに対する自分の反応はきっと、「確かに可哀そうだ、確かにやり過ぎてる」と、なると思う。

今度は、その女性タレントのことを長年気にして追っていて、ある程度の情報(例えば、「彼女はバラエティが好きだ」、など)を知っていた場合、その女性タレントと自分の距離は縮まっていることになり、その段階においては、「観念的観念」ということになる。
その「観念的観念」の段階の場合、そのニュースに対する自分の反応はきっと、「いや、彼女は元々バラエティ好きなんだし、お尻蹴られたことによってオイシクなってるから、彼女的には有難い結果になっているんじゃないのか」、となると思う。

以上のことから、「概念的観念」より、「観念的観念」の段階の方が、より重要で、より、なにやら真理に近づけているような気がする。

ところが、である。

自分事なのだが、最近になって、わりと自分と近しい人物だと思っていた人達に対する印象が、なんらかのきっかけで、ここにきて変わってしまった、ということがあった。
段階的に説明すると、まず、ある他人に対して、「あいつはこういう時、こういう行動に出るよな」、というような、数年、いや数十年と関わってきて構築された、経験に基づくパターンが自分の中にはある。
つまり、他人を自分なりにタイプ化させている。
そして、僕は結構そのタイプ化させたものを信望している。何故かといえば、他者を予測したり推測したりするうえで、信望するに値する結果を出してきたからだし、他者となんらか関係を持とうとする時には、そのタイプ化させたものに依拠せざるをえないとも思うからだ。
今まではそれでよかったのだが、ここ最近になって、それが崩壊しつつある。
それが上記で述べた話で、最近になって長年関わっている何人かの、ある出来事に対する反応が、自分の予測の範疇を超えた予想外のものとして表れてくることが度々あった、ということなのだ。
今まで、その人物達とは、最初の出会ったばかりの段階、「概念的観念」から、徐々に距離を縮めていった段階、「観念的観念」、そしてそれをタイプ化、つまり「固定観念化」してきたつもりである。

なのに昔と比べて、明らかに知っていることが増えたのに、今の他者の方が、「分からない」。
と、書くのは大袈裟かもしれない。なぜなら、その人物について、今でも予想して、その予想通りだったことはたくさんあるからだ。
ただ、昔より、予想外のことが増えてきた、ということだ。ただ、一事が万事、一つの予想が外れただけでも、その疑念は全体にまで広がったりする。そういう意味で、「分からない」、と言いたくなってしまう。
ただ、もしかすると、返って、距離が縮まるとその分、分からないことも増えてくるのかもしれない。
その対象について「分からない」、というのは、「知らない」ことが出現した、とも言えるのかもしれない。
そりゃあ長年付き合っていたら、知らないことも出てきそうなものである。だってこの世界知らないことだらけだからだ。
そして、その知らないことが一旦現実に表れたなら、それは既成事実として認識される。
起こったことは、もうすでに起こったこと。
こう認識したなら人間は、元々あった、例えば固定観念とかに、なんとかうまいこと辻褄合わせをして、そして、これは「ありうる」、「起こりうる」など、自分を納得させてしまうのだろう。
僕自身も、古くから付き合いのある人物が「分からない」としながらも、「でも、確かによく考えれば、昔からその片鱗はあったような気がする」、など、新しく出現した事実の色に染めて、自分を納得させる作業を始めてしまった。

だがその一方で、やはり、「分からない」とも脳裏に浮かんでくる。固定観念やら、前提が崩されるイメージ。そしてまたそれを構築していき、また壊す。ループのイメージ。

「概念的観念」→「観念的観念」→「固定観念化」→「概念的観念」→「観念的観念」→「固定観念化」→「概念的観念」→「観念的観念」→「固定観念化」→・・・・・

結局ずーとその繰り返しなのではないかと。
もっと言えば、「概念的観念」というか、ずーっと、「先入観」のままなのではないかと。
他者とは、先入観でしか捉えられない。
自己と他者の間には、圧倒的な隔たり、断絶がある。
他者を捉えることは、その二人を挟む大海原の先の、対岸を見るようなもの。
先入観は、遠いものほど生まれやすい。
他者とは、どこまでいっても先入観。一生先入観。
自己とは、どこまでいっても主観。一生主観。

だが、「知らない」、「分からない」、だからこそ、「知りたくなる」、「考えたくなる」。
それが他者というもの。
こういう風に思うと、なんだか世界というのは、うまくできているなー。なんて思えてくる。
今回この記事を書くきっかけになったのは、ぜーた (id:zetakun)さんの、 

www.chishikiyoku.com

を以前に読んだのをたまたま思い出したからです。きっかけを与えてくれてありがとうございました。

結局毎回、「他者とは・・・」みたいなことを最後に書いて終わりになっている気もするが、そして、この記事を書いて、いったいなにが分かったのか、はたまた分からなかったのか、まだ時間がかかりそうな気もします。
すみません。終わりにします。ありがとうございました。

NBAオールスター関連の話から、妄信とか上位とかの話

 僕は中高生時代バスケ部に属していて、その時期NBAに興味を示すことは自然な成り行きだったわけだが、高校卒業と同時にバスケから距離を少しずつ置いていく過程で、NBAの興味も薄れてしまっていた。
だが、2年ほど前にNBA好きの人と知り合って、それきっかけで、ちょっとyoutubeでNBAの動画でも観てみるかと思い、検索してみたところ、なにやらこの選手は「凄そう」というのだけは伝わってくるタイトルの動画に引っかかってしまい、気軽に観てみた。
しかし、タイトルは単なる釣りではなかった。
動画内でプレイする選手は、僕がNBAに興味を持っていた中高生時代には観たことがないタイプの、というより、全く新しい概念が出現したような、そんな新種のプレイをしていた。
そのプレイヤーは「ステフィン・カリー」という、超スーパースターであったが(今でもそうだが)、まるで漫画から出てきたような、規格外の選手であった。
まあ、カリーにハマるというのは誠にミーハーな流れであるのだが、そんな俗気など嫌悪している暇などないくらい夢中にさせられるプレイだった。
実際、カリーのプレイや、カリーが属するウォリアーズの強さに魅了され、NBA離れしていた人が、再びNBAを観始めるという僕のような視聴者が結構いるみたいだった。

そしてここからが本題なのだが、NBAシーズン半ばに開催されるオールスターというものがある。これは、お祭り的なものだが、ダンクコンテストや、3Pコンテスト、スキルチャレンジなど様々な企画があり、そしてなにより注目されるのが、投票によって選ばれた、スター選手で構成されたチーム同士の試合である。
しかし、お祭り的であること、そしてまだシーズン中であるがゆえケガを恐れてあまり激しいプレイは控えたいという考えにより、この試合、かなり遊び半分グダグダになっていることは否めないだろう。
だから僕はオールスターゲームがあまり好きではなかった。
その旨を、NBA好きな知り合いに話すと、まるで見当違いのことを言ってしまったような、そんなリアクションをされ、オールスターを侮辱するなんて言語道断といった雰囲気であった(いや、この表現は僕が誇張している可能性がある。本当はもっと穏やかな反応であったかもしれない。何故ならこの人はとても優しい人だからだ。まあでも、この記事を進めるためには多少の誇張もやむ負えないか。すみません。忘れてください。なんだそりゃ)。
この時、僕は素直にその人のことを受け入れた。そうか、オールスターにはオールスターなりの良さがあるんだと。NBA好きな人が言うんだから間違いないと。
そしてその気持ちのまま、翌年(つまり去年の)のオールスターを観てみた。
すると、特有のグダグダ感は継続されていたが、僕はなんだかそれを素直に受け入れていて、こう、「グダグダ感」が、「和気あいあい感」に見えてきて、おう、これがオールスターの醍醐味かぁ。などと思い、オールスターの良さが分かった気がして嬉しかった。
しかし、オールスター後、僕なりに色々NBAを追って行く中で、オールスターが嫌いだという意見を度々耳にするようになった。
どういうことだろう。
しまいには、今年のオールスター(つい先日行われた)では、大きくシステムを変更し、選ばれた選手達は、真剣にプレイしていて、白熱した試合になっているようにも見えた。
実際、選手自身も試合後のインタビューで、「序盤からディフェンスを激しくした」、や、「試合全般競争的だった」などなど発言しており、そして、試合間際、カリーが同点3Pを狙おうとした際の、相手チームのレブロンジェームズとケビンデュラントのガチディフェンスや、惜敗した直後のカリーの悔しそうな表情などを見るに、前年までのオールスターとは明らかに違う、活気に満ちた、真剣な彼らがコート上にいた。
そして視聴者の評価も概ね好評のようだった。
結果として、NBA好きの人にオールスターを指南される前の、つまり最初の、NBAへの情報が乏しかった頃の僕の見方(印象)は、正しかったといえる。まあ、この場合正しいという表現が適切かどうか分からないが。

つまり、僕がなにを言いたいのかと言うと、当初の対象物への「悪い印象」が、信用している人からの意見によって、暫定期間ではあるにせよ、「良い印象」に変えられてしまった、ということである。
これは、僕が無意識に、僕より上位の立場(NBA好きの人)を盲信していて、このNBA好きの人の意見は絶対に正しいというバイアス(偏見)が働いたと言っていいと思う。
もう少しこの対象物への印象の変更(「悪い印象」→「良い印象」)を、具体的に分析してみると、選手達の動き自体は、相変わらず「グダグダ」に見える。ただ、そのグダグダの合間に垣間見える選手達のおどけた動作や楽しそうな笑顔が、「和気あいあい」という言葉というか、概念を想起させ、僕は、「グダグダ」を「和気あいあい」で覆い隠し、「グダグダ」を、いつの間にか無かったものにしてしまったようだ。
つまり、対象物をよりポジティブな解釈にするためには(NBA好きな人の意見を肯定化させるためには)、対象物の中のポジティブな現象、ここで該当する「和気あいあい」という要素を重点的に捉えることが必要だったということだろう。

以上のような、他者を妄信してしまう例は他にもあると思う。
僕に限っていえば例えば、社会問題、またはネットニュースの類でもよいが、それに対する意見を、自分が尊敬する人物に求めてしまっている、というものだ。
しかも、「意見」を求めるというより、もはや「答え・正解」を求めていると言っても過言ではない。
たとえその尊敬する人物の意見を聞く前に自分なりに意見を考えていたとしても、その尊敬する人物が自分と異なっている意見だった場合、その意見があたかも正解であるかのように、解を求めるかのようにその意見を読解しようとしてしまう。
これもバイアスがかかっているといえるだろう。
もしかすると僕たちは、尊敬・信頼する人物、つまり上位のなにかを設定せずにはいられないのかもしれない。
ただそれは必然のようにも思える。
この世界のしくみを誰一人として理解している者はいない。だからその恐怖の穴を補うために絶対的ななにかを置いて穴埋めしたり、自分一人だけだとどこを歩けばいいのか不安になり、他者を道しるべに歩き出したりする。
古くから神の概念があるように、これは人間の性なのかもしれない。
だが、時に妄信は言わずもがな危険である。
どんなに尊敬している人物でも、その人の意見には疑いの目を持って見てみることも必要だと思う。
最終的には自分自身で考えて決めるようにする。
ネットから、情報から解放されて、ただただ黙々と歩きながら考えに耽るなんていう、そんな少しカッコつけた時間を増やしたいものだ。
なんだそりゃっていう着地ですが、
終わりです。