ハイハイで散歩中

赤ちゃんみたくハイハイするように考える、ハイハイ思考系ブログです。

渋谷スクランブル交差点-秩序と無秩序のスペクタクル-

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この前、というかたまに意識してしまう話で冒頭を始めるが、御小便しようとトイレに入ったら誰もいなく、目の前には5つの立ち小便用の便器が視界に現れる。
僕は最初真ん中の便器でしようとしたが、不意の思いつきでその隣の4番目(右から数えて)の便器でしてみようと真ん中の便器を通り過ぎ、4番目でしようとした。
だがやはり4番目というのはキマリが悪い感じがして、さらにその隣の5番目、つまり1番奥の便器ですることに落ち着いた。
ここで重要なのは、4番目の便器でキマリが悪くなった時、3番目つまり真ん中の便器に引き返すことはせず、歩く流れに乗っ取り、そのまま5番目の便器を選んだところである。
僕は無意識に「歩く流れ(惰性)の秩序」を作ってしまっていた。
その秩序の中では、引き返すことはご法度で、ある一方向を前進することしか許されていない。
もし引き返してしまったら、その行動はとてと不可解な行動に映る。
ではなぜそのような秩序を作り出してしまうのか。
それは他者の目を想定しているからだろう。
秩序は他者を意識した時に顕れる。
そして秩序の中での行動を迫られる。
別に自分1人きりだったらどんな行動をとろうが構わないはずである。
いくらでも引き返したって構わない。
他者が自己の行動を制御するのである。

では、なぜ人間は秩序に反する行動をとると、不可解な感じを抱くのだろう。

例えば以下の整数の羅列

2、3、5、?

「?」に入る数字は、素数に従って「7」かもしれないし、または「+1、+2、+3」と増えていく法則かもしれないので「8」かもしれない。
重要なのは、人間は「?」に入る数字を、つまり「答え」を出そうとするということ。
もしかしたら人間は、そのような原理のもと、世界を観ているのかもしれない。
必ず答えがあると思って世界を観る。
答えを出すためには、法則、または「秩序」が必要になる。
人間は「秩序」なしでは生きていけないのかもしれない。
あるいは、「秩序」の中でしか生きていけないのかもしれない。

 

先日、ラジオの東京FMでやっている「TIMELINE(タイムライン)」というニュース番組で、ワールドカップに関連させるかたちで、「なぜ人は(渋谷)スクランブル交差点に集まるのか」、という問題を、水曜日パーソナリティのブロガーのちきりん、アナウンサーの古賀涼子、北海道大学大学院 の岡本亮輔准教授のお三方で考えていた。
別に僕はそんなの、若者が集まりやすい渋谷という街柄と、あと駅前だから多くの人が利用するのではないか、と単純に思って、そう大そうに構えて考えることじゃないし、もしかしてネタがないのか、などと思い、少し斜に構えて、そんなに最初は真剣に聴いてはいなかった。
だが、岡本亮輔准教授さんの、渋谷にスクランブル交差点が導入された当時の話あたりで、結構面白い話が出てきて、次第に興味が湧いてきている自分がいた。
渋谷にスクランブル交差点が導入されたのは、1970年代頃(Wikipediaでは1973年と明記してある)で、従来の交差点では多くの歩行者が信号待ちの際、人が歩道に溢れかえってしまうほど過多な状態に陥っていたらしく、そのような状態を緩和するため、じゃあ一気に縦でも斜めでも渡らせてしまえ、ということで現在のスクランブル交差点ができたということだ。
そして興味深いのが、当時はまだ斜めに横断するという文化が日本人には根付いていなかったらしく、新宿のスクランブル交差点が導入された際(Wikipediaでは1971年)、警視総監が、スクランブル交差点の渡り方のお手本を利用者に見せたというから、驚いた。
しかし、「この斜めに渡る横断方法は違法じゃありませんよ」という国家からのお墨付きを得たにもかかわらず、以前として、斜めに渡らず、1回縦に渡って、そしてまた縦に渡るという、「直角横断」をする人も当初はいたそうだ。
それほどまでに横断に対する日本人の秩序観が固定されていたことが分かる。
「直角横断」より「斜め横断」の方が合理的なのは自明にも関わらず、従来の秩序を壊し、ある種の無秩序の中に自分を入れる行為が中々受け入れられなかったのだろうか。

そして番組内のこの議題の帰結としては、今や若者の街と化した渋谷という場所、そしてそのようなイメージを持ったスクランブル交差点にさらに、「無秩序=自由」さというのを見ていて、ワールドカップやらハロウィンやらの(どこか「無秩序=自由」さのイメージを持つ)イベントの際は、多くの人が集まるのかもしれない、と、大体そのような感じて締めくくっていた。

また番組最後に、リスナーか番組関係者かは忘れだが、この議題についての意見として、どこか分からない場所で騒ぐより、渋谷スクランブル交差点で騒いでくれていた方が分かりやすくてまだいい、的な意見が届けられ、それに対してちきりんが、「渋谷スクランブル交差点」という既に若者が騒ぐといったイメージで定式化された場所、しかもわざわざ警官の目が届くような場所で騒ぐというのは、誰かに「ここで騒いでいいよ」と場所を決めてほしく、そのうえで騒ぎたいという、ある意味その考えはマトモな考えで、それは、「秩序立った無秩序な行為をしたい」というこではないのか、というような旨のことを言っていて、確かにな、と思った。

現在では、海外観光客の観光スポットとなっている渋谷のスクランブル交差点。
海外観光客がその光景をみたら驚く人もいるらしい。
みんなが信号をきちんと守っている!と。
番組中ちきりんが、スクランブル交差点というのは、秩序と無秩序が混在したスペクタクルな場所だという風に言っていた。青になったら人々が一斉に渡り、赤になったら一斉に止まるという秩序。その秩序の中で、斜めに渡るなどの自由な、無秩序な横断が許されている。その光景がひっきりなしに行われる。それはスペクタクル。というわけである。
確かにそう考えるととても興味深い場所だなと思った。

最後に、今年の1月に大雪が降った。そして雪が止み、天候が落ち着いて外に出た時、横断歩道に雪が積もってしまっていて、横断歩道としての機能を失っていた。
僕は、その時、「うわ、秩序が崩壊してる」と思った。
ただ、そのことにより多少のワクワク感を抱いてしまった。
抱いてしまったが、それと同時に、恐怖感も抱いた。秩序の崩壊に対する恐怖感を。
やはり僕らは、秩序の上に日常を送っているのだろう。

そして、他者に認められて秩序は成り立つのだと思う。
そのような意味では、僕らは他者がいなければ生きていいけないのだろう。
なんか冒頭の謎のトイレの話を回収できた気がする。まあいいか。

僕らは秩序があるおかげで、スクランブル交差点を横断できるし、ワールドカップも観戦できる。
さて、本日夜、ベルギー対イングランドの3位決定戦がある。
見逃せない戦いが、今、始まる。

僕はあまりサッカーに興味がないのだが、このブログの終わり方が分からなくなって、強引にぶっ込みました。

ありがとうございました。

なぜ人は嘘をつくのか

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まず、「なぜ人は嘘を『つける』のか」と、問うた方がいいかもしれない。
この問い方は、人間を他の動物と比較すること前提の問い方である。
となると、結論から言えばこうなるだろう。

「人間は他の動物より知能が発達し過ぎたから」

と。

では具体的にはどう知能が発達し過ぎたのか。

「嘘がつける」に関連付けるとしたら、以下が挙げられるだろう。

・人間同士の言語の発達(※仮)

・意識の高次化(未来を予測したり、想像したりする能力)

ざっと挙げれば以上の2点だろう。

1点目の「人間同士の言語の発達」は、当たり前の話だが、共通言語がなければ嘘はつけない。
犬や猫やパンダやゴリラに嘘をつくためには、その動物との共通言語がなければならない。(まあ、稀に動物と会話できるという人がいるけれど、それは置いておこう)
人間は人間同士の言語が発達したがゆえ、嘘をつくことができるといえるだろう。
(※「仮」としているのは、必ずしもそうとは限らないのではないかと、あとから考えてそう思ったからである。例えば、犬に一方的に人間が嘘をつくことはできそうである。犬の側は嘘をつかれたと思っていなくても、人間が一方的に嘘をつく。例えば、今日17時に帰ると犬に話しかけ、故意に21時に帰ってくるなど。そして嘘をついた人間は、自分が言っている言葉が犬には理解できていると思い込んでいて、その犬への発言の直後から、その発言への罪悪感に苛まれているとしたら・・・、これは立派な「嘘をついた」ことにはならないだろうか)

2点目の、「意識の高次化(未来を予測したり、想像したりする能力)」は、例えば、「なぜ人間だけが自殺をするのか」という問いを考えてみると分かりやすい。
人間以外の動物は、その一瞬一瞬、刹那的に生きているようにみえる。
また、いつ自分が死ぬのか、そして、「自分の終局点」から「現在の自分の地点」との距離を測ることもできないようにもみえる。
小浜逸郎著「なぜ人を殺してはいけないのか」の第2章、『自殺は許されない行為か』の中で、著者は、人間以外の動物は、「自分自身の有限な生涯」についてのイメージができないでいると述べる。
なぜなら、自然に縛られない形で自由に企画したり、約束したり、またはそれらを臨機応変に変更したりしていないようにみえるからだと。
自由に企画を立てたり、約束を交わすことをするためには、自分の生涯を見通す具体的なイメージの意識を持っていなくてはならない。
自分の一生という視野、ある地点で必ず死ぬという自覚・認識、これらを持ち合わせていない動物と人間とでは、時間に対する意識がそもそも根本的に異なっているのだと。
そのような生涯の意識を持っている人間だからこそ、「自分の終局」と「現在の自分」の距離を測り、未来に訪れるであろう死のイメージを、現在の自分の状況にまで持ってくることができてしまう。
気の落ち込み、ネガティブ、憂鬱さなどは未来を想像できるからこそ引き起こしてしまう症状だと思う。
それ故、自ら早々に死を選ぶという発想が生まれる。

以上のことから、自殺は人間固有の現象ということが結論づけられるだろう。

つまり、人間は、「意識の高次化(未来を予測したり、想像したりする能力)」の能力を獲得してしまったのだ。
そしてそれは、「嘘をつける」ことに結びつかせることができる。
嘘をつくためには、企画したり約束するのと同様、未来のイメージを持てなければならない。
つまり意識の高次化ということである。

このようなわけで、嘘をつくためには、「人間同士の言語の発達」、そして特に、「未来を想像できる能力(意識の高次化)」が必要、前提となるわけである。

 

では、なぜ人は嘘を「つく」のか。

 

一番に思いつくのは、「想像した未来からの逃避」、もしくは、「自己防衛」といったところだろう。
例えば、母親からこれは絶対食べちゃだめと言われた冷蔵庫の中のケーキを、その子供が母親のいない時に食べてしまう。
この時、その子供は、母親との約束を破ってしまった現状から、「未来のいくつかの可能性」を想像するだろう。

・このままだと母親から怒られる可能性

・食べたことが発覚しても正直に話せば怒られない可能性

・この先直近に、約束を破ったことなど度外視してまうような、不意な現象との遭遇の可能性

などなど。

そして嘘をついてしまう人間は、ネガティブな思考に取り憑かれてしまっていて、そこからの回避・防衛を選択してしまう。
上記でいえば、一番可能性がある「このままだと母親から怒られる可能性」が高いと判断し、そこからの回避・防衛=嘘をつくこと、をしてしまうのだろう。

嘘をついてしまう直前の実存状況としては、約束を破ったことがバレて母親に怒られるのが嫌だ、または、約束を破ったことに対する母親の落胆、悲しみ、怒り、それらの表情をみるのが嫌だ、などのとにかくネガティブな感情・思考に支配されているのだろう。

また、嘘をつくための条件として、選択肢が2つ以上なければならない。
そしてその選択肢を生み出すためには、やはり未来の想像力が必要となる。

つまり、まとめると、嘘をつくことをするためには、

・未来の想像力があること

・選択肢が2つ以上あること

・嘘をつく直前の実存状況がネガティブな思考に支配されていること

が必要な条件になるのだろう。

 

また、嘘をついても善いのではないか、と言われる状況というものもある。
つまり、嘘をつかれる当人にとっては知らぬが仏という状況。
このような場合の良し悪しは置いておくとして、このような場合も、正直に話した場合の未来のその対象者の悲しい表情だったり、怒りの表情だったりと、嘘をつこうとしている当人の未来(嘘をつかれる対象者にフォーカスした場合の未来)をネガティブなものに占領されてしまっている。
そのような状況を回避するために、その人は嘘をつく。
嘘ををついた結果が善かったのか、悪かったのかなんて本当のところは分からない。
嘘をつかれた当人にしてみれば、自分を欺いたその人を恨むかもしれない。
しかし、嘘をついた方にも文脈があり、心底その対象者のことを考え、思った末の嘘なのかもしれない。
自分のことをそこまで考えてくれたのか、思ってくれたのか、そのように考えてみると、嘘をつかれた当人も、少しは嘘をついた人間のことを許容できるのかもしれない。
(いや、わかりません。別に許容できるかどうかはここではどうでもいいことだ。)

とにかく、「嘘をつく」をするのは人間だけがすることで、それは、未来を想像できる能力を身につけてしまい、ポジティブとネガティブの概念を生みだし、どちらかと言えばポジティブな方を選択し、ネガティブを回避したい傾向にあるため、人間は嘘をつくのだと思います。

終わります。ありがとうございました、

GLIM SPANKY(グリムスパンキー)の松尾レミと、ユーミンこと松任谷由実の声がどうしても似ていると感じてしまう問題について

 まず、GLIM SPANKY(以下グリムスパンキーと表記する)という男女2人組の音楽ユニットがいる。

・松尾レミ(1991年12月7日生まれ/ボーカル・ギター担当)

・亀本寛貴(1990年8月24日生まれ/ギター担当)

2人とも平成生まれの若手ロックユニットとして、ここ数年(恐らく3年くらいだと思う)音楽シーンの期待を集めているユニットだと思う。
既に現段階でドラマや映画の主題歌を務めたりと、とても売れっ子になってしまっている感はある。
このユニットの核になるのは、松尾レミの強烈なインパクトを与える歌声なのだろう。
なんたってその松尾レミの歌声は、ジャニスジョプリンの再来なんて言われていたりする。
僕はジャニスジョプリンをよく知らないので、このブログにその名前を初めて書いた時に「ジャニスジョップリン」と書いてしまって、なんだかチャップリンみたいでチョビヒゲなんて生やしているんだろうか。なんてジャニスファンからしたら怒られそうなことを思ったり思わなかったりしたほどだった。
ただ、YouTubeで検索したところ、「MoveOver」という曲が出てきて、一聴したところ、とても聴き馴染みのある曲だったので、こんな有名な曲を歌っている人の名前に「再来」なんて貫禄ある言葉を付け足した表現をするってことは、それはもう、ごいごいすー、すごいってことなのだろう。
たしかに、松尾レミの声は魅力的である。
重厚なハスキーボイス、凄み、その場を掌握しそうな圧倒的存在感。
グリムスパンキーのサウンドの傾向がロックとブルースを基調とした音楽なんて言われているけど、まさに、松尾レミの声もそんな感じ。・・・どんな感じ?って感じだろうから、まず聴いた方が早いだろう。

youtu.be

いとうせいこうと、ユースケサンタマリアがMCを務めるトークバラエティ番組「オトナに!」にグリムスパンキーがゲスト出演した際、松尾レミの話している姿勢もその歌声同様、とても強い芯のある、輪郭のはっきりした、周りを掌握しそうな雰囲気があった。
他方、それとは対照的なギター担当亀本寛貴は、どこか飄々としていて、だがきっと内に熱い意志を秘めているに違いない、ギター大好きっ子という印象で、その2人は、とてもバランスのとれたユニットだと思った。

そして、ここからが本題なのだが、どうしても、松尾レミと、ユーミンこと松任谷由実の声が似ていると感じてしまうのだ。
それは、グリムスパンキーが、ユーミンの「ひこうき雲」をカバーした時に強く思った。
もしかしたら、ユーミンのカバーだからこそ余計にそう思ってしまったのかもしれない。
その時に強い思い込み、バイアスが働いてしまって、なんらかのフィルターを通さずには聴くことができない、ある種の洗脳状態に陥ってしまった可能性もある。
思い込みの可能性・・・、僕がそのように自分に懐疑的になってしまったのには、ある出来事が発端となっている。

 それは、以前に友人の車の中でグリムスパンキーをかけた時のこと。
それを聴いている時、何気なく、(その時は)なんの疑いもせずに言った。

「このボーカルの声、ユーミンに似てるよな」
「・・・似てなくね?」
「いや、似てるだろ」
「似てない」

そこからちょっとした口論になった。
僕は、目の前のりんごが赤いのを、いや黄色だろ、と言われたくらい、僕とその友人との圧倒的な距離、圧倒的な断絶を感じた。
お互いの世界の見え方、捉え方の大きな断絶。
それから数日後、また別の知人の車の中で、今度はある前置きをしてからグリムスパンキーの曲をかけてみた。
「グリムスパンキーのボーカルの子の声が、ユーミンにとても似ていると僕は思うんですけど、先日、とある友人にそのことを言ったら、『似てない』って言われちゃって・・・。じゃあかけますね」

「似てない」
即答だった。
「まじかよ」
「似てないね」
「嘘だ。」

完璧に自信を失った。
だが、諦められなくて、ユーミンのカバーをしている「ひこうき雲」を聴かせてみた。
すると、

「うーん、そう言われると似てるかもね」
となり、サビに入ると、
「あーここは似てるね」
となった。
え、似てんの?どっち?
「あー、でもやっぱりあんま似てないかも」
なんだよ。

そのあとその人は、ユーミンと松尾レミを比較して、一つの見解を述べた。
要約すると、ユーミンは、機械的に歌っていて、あまり自分を出そうとしない。
他方、松尾レミは、抑揚がありエモい、と。
なるほど。具体的なご意見ありがたし。

この具体的な意見を言ってくれたおかげで僕はあることに気がついた。
具体は「こだわり」を導く。
その人が言ったことは、「歌い方」についてしか言及していない。
「機械的に歌い、自分を出そうしない」
「抑揚があり、エモい」
つまり、その人は、ユーミンと、松尾レミを聴くとき、「歌い方」にこだわりを持って聴いていたことになる。
もしかしたら、その人は、歌手全般にわたっても、そういう聴き方をする傾向にあるのかもしれない。
歌は、色々な要素が組み合わさって、「歌」になるのだと思う。
「声」、「音」、「抑揚」、「音程」、「リズム」、などなど。
そしてその人は、「歌い方」を特に重要視していて、そこの部分が異なると、一事が万事的に、全体をも否定したくなってしまう。
では僕の方は、どういう「こだわり」を持って聴いているのだろう。
僕は、この時に限っていえば、恐らく、「声質」なのだと思う。
具体的に言えば、ハスキーボイスだったり、声のしゃがれ具合だったりだ。
僕はその部分が似ていると感じ、それを全体にまで影響させ、「似ている」と感じたし、「似ている」と言いたくなってしまったのだと思う。
ただ、このことを、その歌い方にこだわりを持っている人に言うと、「声質こそ全然違う」、と言われてしまった。
さらに言えば、松尾レミは「しゃがれたハスキーボイス」かもしれないが、ユーミンは、「鼻にかかった声」だと言う。
「声質こそ全然違う」と言われてしまうと、僕はもうお手上げだと感じてしまう。
しかし、この、「しゃがれたハスキーボイス」と、「鼻にかかった声」という、言葉の表現の違いには、感心させられた。
こういう時に言葉というのは役立つのだな、と思ったほどだった。
僕は、2人の声を「しゃがれたハスキーボイス」、もっと抽象的に表現するなら、「くぐもった声」という言葉で捉えていた。
つまり、「くぐもった声」という表現の枠で、2人の声を囲ってしまった、その表現の枠内に放り込んで一緒くたにしてしまっていたのだ。
だから、大雑把に僕は聴いていたことになる。
逆に反論してきた人は、丁寧に、具体的に聴いていたことになる。

 

果たしてそうだろうか。

 

僕はその後も、よく聴いてみたのだが、ユーミンの声は確かに鼻にかかっているといえばそうなのだが、一方で、低音のハスキーボイスにもやはり聴こえる。
「鼻にかかっている声」と、「低音のハスキーボイス」、この2つの「出自(肺・声帯)」は当然のことながら同じでも、その「帰着(鼻にかかった声や低音ハスキーボイスなど)」は、異なる所に辿り着いており、異なる結果を招いているが、ある地点で、「交錯」する点があって、または、「交錯しているように感じる」点があって、僕はそこの部分に反応して、「似ている」と感じたのかもしれない。
またこの問題はかなり「言葉の曖昧性」が鍵になっているように思う。
例えば、僕は2人の声をあくまで「似ている」とまでしか言っておらず、決して「同じ」とは言っていない。
だが、あたかも僕が「同じ」と言っているかのような、相手の反応になっているような印象を受けた。
相手の反応の、「似てない」は、極めて、「違う」という明確に区別したがるニュアンスを含んだ表現のようにも感じた。
いや、これは自分を正当化させるための卑怯な理屈を構築しているだけに過ぎないのかもしれないが。
ただ、ユーミンの普段の話をする声のトーンと、松尾レミの普段の声のトーンを聞いてみると、やはり、似ている声質なのでは、とどうしても思ってしまう。
それを、声質もろとも違うと、一蹴されてしまうと、もはや異世界に住んでいる者同士のやり合い、と思わずにはいられなくなる。
まあ、科学的に、音声鑑定や声紋鑑定をすれば、周波数などから、「似ている・似ていない」は識別できるのかもしれない。
また、骨格が似ていると、声質も似ているという話も聞いたことがある。
だが僕は、この問題は、そのような科学的根拠よりも、「言葉の曖昧性」や、「受け手(聴き手)の聴き方、こだわりの差異」の方が重要なように思う。
つまり、いくら周波数が近くても、それを「似ている」と思わない人が出てくる可能性があると僕はどうしても思ってしまって、その時、どのような回路がその人の中で働いているのか、そしてそれを言葉で表現・説明するなら、「言葉の曖昧性」、「受け手(聴き手)の聴き方、こだわりの差異」、のようになるのではないかと、そのように僕は考えたいということだ。

 

また、この考え方は、「顔」についての形容の仕方、「かわいい・かっこいい」、「かわいくない・かっこよくない」、または「B専」などの問題についても適応可能なように思う。
つまり、ある「顔」を捉え、「かわいい・かっこいい」という表現の帰着に至るまでの認識の働きとして、先述した、個人によってある「こだわり」を重視して、その「顔」を捉えているのではないかということだ。
「顔」も、「歌声」同様、様々なパーツからできあがっている。
「目」、「鼻」、「口」、「耳」、「肌」、「笑顔」、「内面の発露」、など。
例えば、「目」にこだわりを持っている人なら、「目」を重要視し、「口」にこだわりを持っている人なら「口」を重要視して捉える。
そしてその部分が、自分の好みと近い場合、それは「かわいい」となり、遠い場合は、「かわいくない」となる。そして、一事が万事的に、それを「顔」の全体評価にまで影響させて、その「顔」を「かわいい・かわいくない」と感じたり、言っているのではないだろうか。
また、そのパーツが、歪な形をしていたとしても、その歪さが「かわいい」と感じる人もいるだろうから、「かわいい」という表現の言葉の中には色々な文脈があることになり、人それぞれ「かわいい」のイメージの仕方、捉え方は異なることになる。
だから、一般的に万人受けする「顔」というのは、どのパーツも平均の形をしている顔で、それはつまり、「平均顔」、となるのだろう。

そのような考え方をすると、「B専」という思考停止の表現もしなくてすむように思う。
仮に自分が絶対かわいいと思った相手を、別の人は、全然かわいくないと言ったとする。
そこで、こいつは単に不細工好きな奴なんだと、思考を放り投げて「B専」という言葉で一蹴するのではなく、おかしな話かもしれないが、「どの辺がかわいくないのか」、はたまた「お前はどの部分が好みなのか」と、掘り下げることをすると、あーこいつはこういうこだわりを持って人の顔を見ているのか、と、そいつのことを知ることができ、自分とそいつの「こだわりの差異」を知れることができると思う。よって、「こいつはB専」という表現ではなく、「こいつはこういう所にこだわりを持っている」という表現に帰着することができて、なんかそっちの方が、なんか、いいんではないだろうか(最後なんか適当になってしまった)。

 

話を元に戻すと同時に最後の結末になるが、ユーミンと松尾レミの歌声に関して、結局正解は分からなかった。
だが、大事なのは、相手に否定されたからと言って相手を退けてしまうのではなく、そこから一歩踏み込んでみる。そして、よく話し合い、お互いの「こだわり」を分かり合うことが重要なように思った。
僕は偉そうに書いているが、僕はよく、ついつい否定されると熱くなってしまって、そこからだんまりという風になり、雰囲気が悪くなってしまいがちなところがあるので、今度からなるべく話し合うことを試みてみようと思った。

最後に、ユーミンと松尾レミの歌声に関しては、2人と意見が一致しなかった僕であったが、その2人と、唯一、意見が一致したことがあった。しかもほぼ同じ流れの中でだ。
それは、歌声の意見が一致しないまま平行線を辿っていくばかりの時、暫しの沈黙の後、相手が口を開いた。

 

「そんなことよりさ、この曲、いい曲だよな」

「・・・そうだな。いい曲だな」

 

音楽に始まった諍いだったけど、最後は音楽に救われました。
いい曲なんです。グリムスパンキー。よかったら聴いてみてください。
終わります。ありがとうこざいました。

youtu.be

 

僕は炭酸ジュースが飲めない

だけど、生ビールは飲める。
この差異はなにか。

僕は子供の頃からコーラやファンタやサイダーなんかを退けてきて、自動販売機で買うものといったらバヤリースのオレンジジュースだったり、ネクターの桃ジュースだったり、ポカリスエットだったり、紅茶花伝だったりした。
だから人からのご好意で炭酸ジュース類を貰ったりすると、

「あ、あ、あざーす」

という、本質の前に、「あ」というなにかをためらった痕跡を残した反応になってしまう。

当然、それら炭酸ジュースを退けるに至ったきっかけはある。
ある。というか、今となってはその当時の記憶は曖昧なので、恐らくそうだたったであろうな、レベルでの記憶にとどまり、そしてその際行われるのは、強引にネガティブな雰囲気を作りだし、あたかも嫌な思い出のように回顧するという、もはやそうだと思い込むことでしか成立しえない、感覚としては古(いにしえ)レベルの過去の話となっている。
と、今上記で説明したことは、なんとなく箔が付くように、「思い出し方」それ自体の構造をそれっぽく書いてみたのだが、それは、炭酸ジュースを退けるに至った過去の話が、特に物語なんてない、どうってことのない、単なるそれが嫌いな「理由」の領域を出ない、一文ですんでしまう理由だからである。その理由とは、

「なんか喉がイガイガするから」

である。

子供の時に成立する理由のほとんどが「なんか」という漠然的で直感的なものである。
そして、それが前提となったまま大人になっていく。
つまり、大してその理由を掘り下げることをしない。
なので今回は少し掘り下げてみようと思う。

 

この問題で重要になるのは、その対象に対して「なにを求めているか」であると思う。
「なんか喉がイガイガする」と思った当時の子供の僕は、はたしてジュースになにを求めていたんだろうか。
恐らくそれは、「ゴクゴク飲める」だったに違いない。
喉の渇きを一刻も早く潤したい。一刻も早く水分で満たされたい。
だから今でもそうだが、僕は比較的飲み物を飲むスピードが速い(ただしコーヒーは除く。コーヒーにはまた別のなにかを求めている気がする。例えば、リラックス感や、黄昏感など)。
そうなると、炭酸ジュースは僕の要望には応えられないことになる。
速く飲めない。僕は速く飲みたいのに。
ジュースは僕にとって速く飲める飲み物という定義付けがなされている。

いつもの様に缶ジュースを飲む。
僕は驚く。不意の障害物に。
それはシュワシュワ。炭酸。
これは僕の中のジュースの定義に当てはまらない。納得がいかない。
ゆえに、退ける。

かなり雑な流れだが、ざっとそういう流れになっているように思う。
人間は納得・了解がなされないものは上手く飲み込むことができないように思う。
それは、飲み物に限ったはなしではない。
「情報の不透明性」による予測のできなさ、不安。例えば、仏頂面の人や、電車内で電話する人などに対して不信感を抱いたり、イライラしてしまうのは、その人がなにを考えているのか、その人が一体誰と話しているのか、はたまたその話している内容をこちら側が把握できない、理解できないからで、そして、そのような納得・了解できないものを人間は受け入れることができない、または飲み込むことができないので、不信感を抱いたり、イライラしたりするのではないだろうか。
このような記事を以前にも書いたので貼り付けておきます。

 

www.teheperow.com

 

では、生ビールはどうなのだろうか。
先述した論理でいくと、生ビールはジュースではないので、「ゴクゴク飲める」ものでなくてよい。つまり、そこでは炭酸の障害は関係がなくなる。
ただ、やはり最初の頃は、「僕は炭酸が苦手」という意識が強く、すんなりそれを受け入れることができなかった。
ただ、僕が生ビールに求めていたことは別に「ゴクゴク飲める」ことではなく、「大人の嗜み」だったり、「なんだか大人の仲間入り 」だったりする。
だから、炭酸が気になったのは最初だけで、僕の要望は、「生ビールを飲むこと」をして初めてスタート地点に立つというか、可能性が開かれる。
僕は別に炭酸アレルギーではないので、単に「炭酸が苦手」と思い込んでいるに過ぎないのだと思う。
だから、恐らくこの先、炭酸ジュースを好んで飲む日も訪れるかもしれない。

 

また、僕はあまりラーメンが好きではない。
ラーメン屋に行こうと提案されたら、まず、そこにはチャーハンはあるのか、なかったら最悪つけ麺でもいいんだけど、と聞いてしまう。
僕は好きな食べ物の中でかなり上位にチャーハンがランクインしてくる。
もっと言えば、僕はご飯が好きだ。ご飯LOVE。
中華屋で、チャーハンのお供に白ご飯を頼むくらいご飯が好きだ。
たまにチャーハンと白ご飯を混ぜ混ぜして食べることだってある。
そうなると、ヒエラルキーではご飯の下に麺類があるのは自明。
あと、僕は猫舌でもある。熱いものが得意ではない。
そして、食べ物のジャンルにおいても、僕は速くとまでは言わないが、スムーズに食べれることを重視していて、そしてお腹いっぱいに食べたいという欲求がある。
だから、熱いものはお腹が空いている時はなるべく避けたいし、麺類はお腹いっぱい食べれないように感じる。特にラーメンにおいてはその思い込みが強い。
だがパスタ系は麺類だが、結構好きだ。恐らく熱くないからだろう。
ただ、パスタの他にピザもいきたい。やはり麺類ではお腹が満たされないと思っているからであろう。
蕎麦屋でさえ、たまにご飯を注文する。天ざると白ご飯という感じで。

ただ、僕は最近、醤油系ラーメン屋には行くようになっている。
ただ、店があまり騒がしくない、わりと落ち着いた雰囲気で、女性の店主だったらなおいい。
僕は店の居心地のよさも重視している。
食事は自分のペースで落ち着いてとりたい。
かといって女性を全面に押し出した雰囲気や、いかにもシャレオツな雰囲気が良いというわけでもない。
なんというか、ラーメンという男らしい食べ物を、女性の店主が柔和に作るというこの二つの絶妙な良い按配が、居心地の良い雰囲気を僕に提供してくれるのだと思う。
また、最近醤油系のラーメンなら食べようという気になっているのは、子供の頃、母親とよくミスタードーナツで、ラーメン(醤油系)と点心(焼売とエビ餃子か、たしか肉まんだったかな)のセットを食べていたのが影響していると思う。
なぜかあのセットは白ご飯がなくても好んで食べていた。
僕はクレープ屋でさえ、甘い系は頼まず、ハムチーズや、ツナマヨなどのガッツリ主食系を頼む。
だからもしかしたら、「ドーナツ屋」という「甘いもの」カテゴリーの制限された中で、甘い系を食べなくても済む救済処置として、ラーメン・点心セットをある種のオアシス的に捉えていたんではないだろうか。
つまりその限定された場所の中では、「自分は醤油系ラーメンが好きだ」という錯覚が働いていたとさえ言える。
そして、今日に至るまでの間、そのことを思い出す際に、その限定された場所を気付かず飛び越えてしまい、「醤油系ラーメンなら食べれる」というそこだけをピックアップしてしまった結果、そのような思い込みの前提を作り上げてしまったのではないだろうか。
また、通っていたミスドの店内の雰囲気も良かった印象がある。落ち着いていて、僕はすごく安心感の中、それを食べていた気がする。
そういうのも影響しているのかもしれない。
まあ、幾らか記憶を改ざん・捏造しているかもしれないのだが。

 

というわけで、好き・嫌いというのは、その対象に「なにを求めているのか」、そしてそれを、「納得・了解」できるか、というのが、関係しているのではないかと思います。

つまりは、僕は、チャーハンが好きで、もっといえばご飯が大好きです。

あと、コロッケも。

終わりです。

 

5月6日の日比谷野音でのベイビーレイズJAPANのライブ(ニコ生Ver.)を観て思ったこと。

5月6日(日)、日比谷野音で、ベイビーレイズJAPANのワンマンライブが開催された。それに併せて、ニコ生でもそのライブの模様を配信していて、プレミアム会員なら、期限日までその配信が何度でも視聴可能となっていた(多分)。
僕は、行こうか行くまいか迷いぐずぐずしていた矢先、そのニコ生の情報を入手してしまい、おーこれは便利だ、そうか最悪現場に行けなくてもニコ生で観ればいいのか、と余裕をぶっこき倒していたのだが、ただそれでもやっぱり現場に行かなかったら後悔すると思い、チケットを購入しようとサイトに行ったら、チケット購入期限が過ぎてしまっていて、なんじゃそりゃ、と暫く茫然自失となって、早々に後悔するはめになった。
twitterで見かけて僕も同意するのは、もしかしたら、ニコ生の告知が、行くか迷っていた人達の消極性に拍車をかける要因になってしまったのではないかということ、そして終いには僕のような後悔ルートを辿る人を増やしてしまったんではないか(そんなアホは僕だけかもしれないが)ということだ。
だから、告知のタイミングも難しいと思ったというか、全てのチケット受付が終了してから、「朗報です!ニコ生でも配信することが決定いたしました!」的な救済演出をすればいいのではないかと思ったりした。
あと、当日券も少し出ていたのだが、それはすぐ売り切れてしまうと思い、当日は、完全にニコ生シフトに移行していた。

配信をオンタイムでは観れなかったので、少し間が空いてから観ることになった。
結果から言えば、「やっぱ現場行きゃよかった」、ということに尽きた。
やはりあのエモさは、ダイレクトに皮膚感覚で味わいたくなってくる。
そういう意味ではニコ生の配信は僕に対してすごく効果的であったと言える。

ただ、ニコ生仕様のライブもとても良かった。
画面を流れるコメントから、今、この瞬間のこの場面では、どのような思いなのか、どのように感じているのか、はたまた全く関係のないコメントなども含めて(これはこれで面白い)、ただライブを観ているだけでは見えて来ない、ファンの様々な思いがライブと同時進行して可視化されていた。
だから多種多様で、とてもエンターテインメントな空間になっていたと思う。

ライブの内容的には、まず始めの、登場前のBGMからして絶妙にベビレらしかったと思う。
正確にはバック・グラウンド・ミュージックとは言えないのかもしれない。
流れていたのは音楽ではなく、ベビレが結成された経緯の模様の音声であった。
結成当時から、この模様は、事務所レプロがYouTubeに公式にあげていたので、僕はベビレにハマった当初に観ることができていた(ただ、本ライブでの音声は、恐らくDVDの特典映像からのものだと思う)。
この動画は、テロップや効果音、そして「パイセン菊池亜美」というこれらのギミックにより、ドキュメンタリーなのか、台本があるコント的なものなのか判然としない仕上がりになっている。
ただ、やはりメンバー達の表情や言動をみる限り、これはドキュメンタリーなのだと僕は理解している(というか恐らくそうだろう)。
個人的にこの動画は結構好きで、事務所の先輩菊池亜美の絶妙にグダグダの芝居が、絶妙なクオリティとなって顕れる。なんというか良い意味でのB級感という感じ。
そして、その頃から、まなっちゃんはしっかりとしていて、りおとんの言動は大人びていた(そして2人の過去の話はぐっとくるものがある)。
まあその動画の話はこれくらいにして、本ライブでのBGMの帰着は、パイセン菊池亜美がグループ名をメンバー達に告げる、「みなさんのグループ名は、ベイビーレイズです!」となり、その刹那、メンバー達がステージに入ってくるSE(登場曲)が流れる。という運び。
正直この流れは、賛否両論あるだろう。
なぜなら、ベビレ結成経緯的BGMは、20分くらい流れていたからだ。ニコ生でも「え、長くね?」的なコメントを幾つか見かけた。
だが、僕はこの試みを面白いと思っている。ライブ当日の5月6日は、ベビレの結成日でもあって、故にあのようなBGMを流すのは理解できるし、そして新規のファンにも優しい。
そして、「みなさんのグループ名は、ベイビーレイズです!」と言って、登場してくるというのは、カッコいいのか、ダサいのか、ちょっと言いにくいところでもある。
だがそこがベビレらしいというか、面白いところだな、と僕は思ってしまうので、僕はこのBGMには肯定的である。

そして、一曲、一曲の感想を書くことは僕にとって結構根気のいる作業なのでやめておくとして、この記事では、全体的な感想と、印象に残ったシーンを幾つかピックアップするに留めておこうと思う。
最も強く思ったのは、僕が気付かなかっただけで、以前からそうだったのかもしれないが、メンバーみんなの歌唱力がとても上がっているというか、発せらている声がとても力強く感じられたということだ。
陳腐なのであまり多用したくはないが、みんな一段と「エモく」なっていた。「エモエモ」、といったところであろうか。
なにより、りおとんが無茶苦茶声が出ていてエモさを感じた。
その他、個人的に、メンバーの特に「エモさ」を感じた場面を列挙してみる。

・「何度でも」の、ラストサビ前の、ソロサビでまなっちゃん→リコピンときて、「何度でも夢を見ようー!」のリコピン。
・「何度でも」のサビ前の、「そうだ!」のでんちゃん。
・「僕らはここにいる」のラップパートの高見。
・「シンデレラじゃいられない」の曲入り前の、まなっちゃんの煽り、「あたし達が全部受け止めるよ!」のリミッター解除の黒まなっちゃん。

以上の他にもまだまだあるというか、全てがエモい、全エモなのでこれくらいにしておく。エモエモ。
また、「シンデレラじゃいられない」が微妙にアレンジが加えられていて、バージョンアップというか、スーパーサイヤ人から、スーパーサイヤ人2になった感じがあってよかった(表現が幼稚で申し訳ないが、本当にそう感じられたのだ)。
他にもガラッとアレンジされた曲もあった。
「涙のち晴れ」と、「ベイビーレボリューション」である。
「ベイビーレボリューション」は、しっとりバラード系にアレンジされていた。この曲は、激しくてカッコよくて、拳を突き上げるのが似合う曲のイメージがあったので、このアレンジには驚いた。たまにはこのようなアレンジも良いと思ったが、やはりベビレボはエモの代表曲であると思うので、僕は原曲のほうが気に入っている。

また、アンコールでのでんちゃんのMCは少しぐっとくるものがあった。
「無限にあるもはなくて、有限だからこそ愛おしい・・・」的な発言は、ファンが勝手に色々想像してしまうワードも含まれていて少し動揺を誘われたが、これは人生においても通ずる、なにか真理めいたものがあって、考えさせるものがあった。
僕はこのライブを観終わって、いや観ている時から、なんか切なくて苦しいような感情が押し寄せてくるのを無視できないでいた。
それは、僕が、ファン歴は浅いにせよ、ある程度ベビレのことを知ってしまっていて、それ故、ベビレに物語性を付与してしまっているからなのだと思う。
その物語というのは、ベビレの歴史とか、ベビレに起こった事件(サイリウムだとか)とかそういう客観的事実も多少含まれてるとは思うが、大部分は僕の個人的な勝手な思いが作り出しているストーリーなのだと思う。
勝手な思いとは例えば、「こんなに歌が上手くて、パフォーマンスもよくて、ライブが最高なのに、なんでもっと売れないんだ!」、だとか、「6年目に入り、年齢も重ねてきて、そろそろ解散も視野に入ってきているんではないか」とか、そういうものだ。
もっと言えば、その物語性を喚起させる要因としては、ライブでの全力パフォーマンス、そして「エモさ」なのだと思う。
「エモさ」は物語性を帯びさせる。そして苦しく、切なくさせる。別の言い方をすれば、「ドラマチック化する」、とも言えるかもしれない。 「物語性」や「ドラマチック」というこれら要素は、アイドルをアイドルたらしめている補完要素なのかもしれない。

そして、でんちゃんMCの、「無限なものはなくて、有限だから愛おしい」というのと、前にももクロの有安が卒業するという際に、高見がTwitterで、
「アイドルとは尊いもので、 いずれは何かが変わらなければ 世間から忘れられそうになるわけで、 今応援してるアイドルが活動出来てるのも、 あたりまえじゃねぇからなぁ!!!!!」
というのを肝に銘じて、次は、ライブの現場に直接行って、皮膚感覚で享受しようと思った。

また、直接ベビレのライブとは関係ないのだが、ニコ生のライブを観ていて思ったことがあった。
それは、流れてくるコメントを先に視界に入れてしまい、自分がその場面について本当はどのように思っていたかが永久に分からなくなるということ、そして自分の頭で考えることが困難になるということ、だ。または、思考が中断してしまうと言ってもいいかもしれない。
例えば、あるメンバーのパフォーマンスにおいてコメントで、「これはエモい。エモ過ぎる」というコメントを視界に入れてしまったら、自分は、「あー確かにエモい。エモ過ぎるなこれは」となってしまいがちだということ。そのコメントを視界に入れていなかったら、もしかしたら、そこまでエモいとは思っていなかったかもしれない。
そして、その直後に、「いや、そこまでエモくなくね?」という他のコメントを見つけたら自分は、「確かに。言うほどエモくはないかもな」となってしまうかもしれない。
この時、この2つのコメントに揺さぶられてしまうということは、基準になるもの、つまり元々の自分の感想・意見がないということが露呈している。
これは、自分で考える前に他人のコメントを視界に入れてしまう、コメントが流れてくるというニコ生の構造上起こるシステム的問題で、そしてそれは僕にとって、結構重要な問題として立ち上がってくる。
もちろん、良い面もある。コメントが解説の役割になり、その場面においての新たな知識、知見を増やせたりできる。そういうのも踏まえると、だから結構良し悪しだと思う。
まあ、単純にコメント付を解除すればいい話なのだが、せっかくニコ生で観ているのだから、という思いと、エンタメ的に面白いではないか、という思いとで、やはりコメント付で観たいと思ってしまう。
誰かが、「やべえ、めっちゃエモい」というコメントをしているかと思えば、すぐ下に、「トイレ行ってくる」、とか「え、俺プレミアム会員じゃないけどなった方がいいのかな」とか、無茶苦茶私的なことをコメントしている人もいて、すごいカオスな空間だなと思うし、それが実に面白いと思ってしまう。
だから、まあ、良し悪しです。

また、これはニコ生に限った話ではない。スポーツ観戦の番組だって解説や実況は付き物だ。戦略の解説なら知識が増えるからいいのだが、もっと抽象的な、「今のは良いプレイだ」、「今日は不調ですね」みたいなレベルのコメントは、注意が必要になると思う。
こういうのを打破するためには、音声を消して、自分だけで一回観るか、または色々観たり、色々な意見を仕入れたり、また解説を疑いながら聞くなどし、たくさん経験を重ねるのがいいと思う。
そして、自分の頭で考える癖を付けることが結構重要なのではないかと思う。
ニコ生の場合でも、最初に視界に入れたコメント「エモ過ぎる」のに対して、「あー確かにエモい。エモ過ぎるなこれは」程度の反応は、たいして集中して観ておらず、なんとなく観ていて、なにも考えてないとても鈍感な状態になっている。
そうではなく、最初のコメントに対して自分が自信をもって「同感。エモ過ぎる」と即反応でき、次に視界に入れた「いやそれほどエモくないだろ」には、自分は「いや、エモ過ぎるだろ」と、即反応できるくらいに集中して観ておけばよいのだと思う。
しかし、こんなになんかストイックに「考える癖を付ける」とか「集中」がなんだとか書いてはいるが、僕自体そんな疲れる観方は能力的に無理というか、もっと楽に観たい。
だから、実は、自分の思考が中断してしまっていることや、自分の意見は最初からない状態で物事を見ていることが多いということを自覚するだけでもよいのではないかと、そういう甘えた、自分に都合のよい考え方へ帰結させることにする。

話が逸れてしまったが、日比谷のライブは、動画でしか観ていないが、エモくてとても良かった。やっぱり、現場に行くのが一番だと思った。
無限・永遠なものはく、有限だからこそ、愛おしくて尊い。
それがアイドル。
という帰結。

終わりです。

泥酔して記憶のない人物と、翌日酔いから醒めた人物は同一人物か

山口達也の一件を見ていて、直接内容とは関係のないことを思った。
それは、泥酔していて色々問題を起こした人物と、酔いが覚めて、泥酔していた時の記憶が失われた人物は、はたして同一人物と言えるのか。というものだ。
僕は以前に、同一性に関する記事を2つほど書いている。

www.teheperow.com

www.teheperow.com

その時の記事では、同一性は、記憶か、身体かのどちらかに依拠するところが大きくて、そして、僕はどちらかと言えば、記憶の方をより優先する、といった内容を書いた。
そして、さらに付け加えるなら、「連続性」が重要になってくると思う。
「記憶の連続」、「身体の連続」というふうに。

今回の例で言えば、泥酔している人物と、そのことを全く覚えていない人物は、その場にいた第3者から見れば、「同一人物とみなす」方が一般的な思考の持ち主のように思われる。
それは、第3者から見れば、性格の変化は見られても、「身体」は「連続」しているように見えるからだ。
別の言い方をすれば、第3者の「記憶の中の身体」が連続している、とも言えるだろう。

では、第3者ではなく、当事者から見たらどうだろう。
記憶を失くしてしまっているが、どうやら周りの人の話しを聞けば、自分はとんでもないことをしていたらしい。
この場合、手がかりとなるものが、他人の証言の、他人の記憶の「身体の連続」しかない。だから、対抗しようにも当事者にはその武器がない。
だから通常なら、他人が証言している人物と、当事者自身は、「恐らく」同一人物とみなすことになる。
また、仮にその当事者に常習性があり、他人に言われた時、その当時の記憶がなかったとしても、以前にもそのようなケースがあったことを思い出し、その経験をもとに、今回も自分がやったと認めざるをえなくなる可能性も考えられる。
以上の話しは当然といえば当然の帰結だと思う。

しかし、こう考えるのはどうだろう。
当事者の記憶の面から考えれば、その時の記憶が欠落している自分と、第3者の話しの中での「そいつ」は、連続性がないことになる。
よって、自分と「そいつ」は別人である、と。
先日のワイドナショーでの松本人志の発言も興味深かった。

 「『昨日ごめんね』とか『だいぶ酔ってて』とか、酔ってないお前に謝られてもね・・・」
「狼男が、月夜の晩に『絶対噛めへん』って言ったら信じられるけど・・・」

泥酔していた人物は別人。
別にこの考え方が正しいとかそういったことではなく、現実味を帯びてはいないと思うが、単純にこのような考え方もできるよね、といったものだ。
そして、この考え方は、やはり別人を作り出すお酒には注意しなければならないし、飲み過ぎは危険だし、危ないと分かっているのに手を出してしまうその人の精神的ケアを考えていかなければならないよね、となるだろう。

最後に余談だが、同じ電車内でも、朝の電車内の雰囲気と、夜の電車内の雰囲気が全く違ったり、電車内に限らず、街の雰囲気だって、日中と夜では、まるで前編・後編という二部構成のような変貌を遂げたりする。
もちろん、時間帯によってそれを構成する人間が異なっているというのもあるだろうが、その「異なっている」人間の中には、「身体」が異なっている人もいれば、「身体」は同一に見えるのに、「中身」がまるで異なっている人もいると思う。
そういう一日を通して中身が異なる人の同一性を見出すのはなかなか難しいのではないかと思う。
やはりお酒というのは人を変えるのだと思う。
まあ、それが面白い文化との捉え方もできると思うが、他方でやっぱり、げんなりもします。
もちろんお酒だけが人を変えるわけではないし、例えば、当事者自身は普通にしていても、他者からみれば、「あれ、なんか雰囲気変わったね」、「なんか性格変わったね」という「なんか」レベルでの変化は無数に他者は見出せる。
だが、お酒は安易に人を変える。「なんか」レベルまでならよいが、「極端」にまで変えることができてしまう。
自分は、一日のネガティブな二部構成を作り上げてしまう、その構成員の一人にはなりたくないと思って気をつけてはいるのだが、・・・どうだろう。
というわけで、終わります。
ありがとうございました。

 

生駒ちゃんの卒業や、「熱波」からのベビレ卒業、「めちゃイケ」や「みなおか」の終了のことなど。

いやー、GW。GW。GetaWay、GetaWay、地の果てまで~♪なんて、かつてメディアに出ていた、綺麗な顔立ちの女性シンガー、上木彩矢の「ピエロ」を懐古する今日この頃である。(因みに本来なら「GetAway」と表記するところだが、発音的に「Way」を強調すると思われること、また「GW」に寄せなければならないことから、「GetaWay」表記にしている。こんな野暮な説明をしなければならないのなら、もっと良い「GW」になる単語があったのではないかという気もしないではないが、無性に「上木彩矢」というワードを出したくなったので、以上に至る、といったところでしょうか。)

先日、「乃木坂工事中」という番組で、生駒ちゃん卒業に際し、生駒ちゃんに、代表してメンバーの何人かが感謝のメッセージを送るという趣旨の放送があった。
そして番組最後に、番組MCのバナナマンと生駒ちゃんの3ショットトークがあり、その中で、卒業に対する思いや、未来のことなどをバナナマンに向けて話していた。
その話しを観ていて一番に思ったことは、「無茶苦茶しっかりしてる」、ということであった。
恐らく普段からちゃんと物事を考えているんだろうなと思わせる、説得力のある、堂々とした、ちゃんとした意見を言っているように見えた。
僕は過去、番組中に時々垣間見える生駒ちゃんのお姉さん的振る舞いが中々受け入れられなかったが、その時の生駒ちゃんのトークは、もっと話しを聞きたくなるほどに、普通にその3人の話しを楽しんでいる自分がいた。
生駒ちゃんの話しはとても筋が通っていて、納得の行く話し方だった。

例えば卒業理由の話の時、

「アイドルというのは成長過程を見せるコンテンツだと思うが、舞台など色々他でお仕事させていただく中で、『本物』になりたいと思ってしまった」

という旨の話しは、ハッとさせられたし、説得力のある内容だった。

僕は生駒ちゃん推しではなかったが、これからの生駒ちゃんの未来を応援したくなった回であった。

卒業といえば、少し前になるが、テレビ埼玉で放送していた、ハライチ岩井がMCの番組「熱波」から、レギュラーで出演していたベイビーレイズJAPANが卒業した。
ベビレは、2017年4月からレギュラーになり、翌年2018年3月いっぱいまで、MC岩井と共に番組を務めた。
僕にとって、これといって、なにが面白いという番組ではなかったが、なにせベビレメンバー全員のレギュラー番組が「熱波」くらいしかなかったので(あとはもう終了したが「浅草ベビ(うず)9」くらい)、虎ガー(ベビレファン)の僕にとっては、貴重な番組だったし、ハライチ岩井も嫌いではなかったので、観ない理由はなかった。
ベビレ出演最終回は、とても感動的な終わりに思えた。
最終回は前編・後編と2週に渡って放送していたが、始まりから終わる間際まで、岩井もベビレも微塵も悲しむ素振りを見せず、むしろ終わることをネタにし笑いに昇華していたくらいで、僕にとってそれはとても好感が持てた。
そして、ある意味それが伏線となって、番組が終わる間際に、岩井からベビレへメッセージを贈るという卒業演出が、やっと、「あー、本当に卒業するのか。もう岩井とベビレの組み合わせは見られなくなるのか」という感傷的な雰囲気を作り上げていた。
それでも、岩井は、ユーモアを交え、芸人という職業を全うしながら、メンバーひとりひとりにメッセージを贈っていた。
その時から萌芽はあったと思うが、個人個人にメッセージを贈り終え、最後に、メンバー全体にメッセージを贈る段になり、岩井が少し恥ずかしそうに、しかし真面目な口調で、「ベビレが頂点に行かなかったらアイドル業界は終わりだな」とぐっとくる発言をした後、岩井がいやにヘラヘラ笑いながら話し始めているなと思った時、メンバーの高見が「泣かないでー」と茶化す感じのガヤを入れたことによって、「あ、泣きそうなのか、やっぱり岩井は寂しいのか」と、視聴者は岩井の熱さに気づくことできた。
そして番組全体に熱い感動的な色が帯び始めた頃、この番組のオープニング曲である、ベビレの楽曲「僕らはここにいる」のイントロがBGMとしてフェードインしてくる。
通常回なら、番組冒頭にタイトルバックと共に流れるのだが、今回は、番組の最後に締めとして、全員で「熱波~!」とタイトルコールをして、いきなり画面が切り替わった刹那、先ほどまでのBGMからエンディング曲に変貌を遂げた「僕らはここにいる」のサビが流れ、そして一拍置いたあと、タイトルバック「熱波」の文字が画面にズドンと出現し、それはまさにベビレに相応しい、「エモい」終わり方になっていた。
そして、最後のカットで、番組収録が終わったと思われるオフショットが流れていて、実はまなっちゃんが泣きそうになっていたことや、りこぴんや高見はバラエティ担当の意地か、最後まで全く泣く素振りを見せなかったことなどが確認でき、ベビレのバランスの取れたチーム感を見れた気がして、なんだか良かった。
というただの番組を観終えた感想である。

 「熱波」は、ベビレが卒業しただけで、番組自体は終了したわけではないが、番組自体終了してしまったバラエティ番組もある。
例えば、「めちゃイケ」や、「とんねるずのみなさんのおかげでした」である。
とりわけその2つの番組に思い入れがあるわけではないし、最近では全く観ていなかったので、番組が終了して、「あーそうか。終わってしまったか」という感想と、学生時代は観ていたりいなかったりしていた番組で、まあ当たり前のようにあった番組なので、少なからずの喪失感というか、少なからずのショックの念はあった、という感じだ。
僕が思うに、「笑い」中心のバラエティー番組というものは、そもそも長く続けるのがとても難しいのではないかと思う。
笑いを作る上で必要なものは、「新鮮さ」「鮮度」「予想外」などだと思う。
そして、あらかじめ笑わせると分かっている、お笑い芸人や、お笑い番組は、上記で挙げた、笑わせるという「予想外」が封殺されてしまっていて、最初の段階でとてもハードルが上がっていることになる。
残るは、どうやって、「新鮮さ」、「鮮度」のある笑いを生み出すかということで、その方法で観客(視聴者)と闘わなければならない。
だが、「新鮮さ」や「鮮度」ある笑いを生み出せたとしても、それを受けた者は、その受けた瞬間からその「新鮮さ」の「鮮度」は失われていく。
だから、「笑い」というのはそもそも短命であって、それ中心のバラエティ番組となると、長く続けるのは中々難しいのではないかと思う。
「めちゃイケ」などは、番組を続けるために、新しい、時代の先をいくような企画をかなり生み出していたと思う。
そして、とんねるずの番組もすごいのだが、「土曜20時はめちゃイケ」、「木曜21時はみなおか」、という風に、視聴者にそのようなイメージを植え付けさせたことは、かなりの功績なのではないだろうか。
だから、番組が終わってしまって悲しむというよりは、ここまで長く続けたそのこと自体を賞賛するべきなのだと思う。

最近のバラエティ番組で僕が面白いと思うのは(と言ってもたまにしか観ていないが)、「水曜日のダウンタウン」で、かなり攻めている番組作りだと思う。
ただ、笑いの域を出てこちらが不快になるようなものや、「斬新さ(クレームに対する皮肉なども含む)」のみを追求していて、視聴者を先導するというよりは、置いてけぼりにしている企画もあり、手放しでは賞賛はできない。
だが、それでも僕が興味を持ってしまうのは、企画によっては、SF的なものや、哲学的な思考を喚起させるものがあるからで、「笑える」というよりは、「興味深く面白い」といった感じだ。
そう、「水曜日のダウンタウン」は、笑い中心というよりも、企画の面白さが際立っている。
僕は、今後のバラエティ番組は、笑わせる笑い中心ではなく、あくまで笑いは、「ツール(道具)」として、いわゆる「ユーモア」としての役割にした方がよいのではないかと思う。
だがこれは、あくまで、その番組にさほど興味を持っていない、興味を持っていなくてもなんとなくその番組を観てしまう人がいる、「地上波」での話だ。
本当に笑いだけを追求したいなら、Amazonプライムだったり、独自の動画プラットフォームでもいいが、そのようなネット配信での有料コンテンツとしてやればいいと思う。
「地上波」でやってしまうと、変な、お門違いなクレームがきてしまったりするので、非常に面倒だろう。
それならば、その番組を観たくて観に来ている人に向けて番組を作ったほうが、お互いにとって良い結果をもたらすのでなないかと思う。
決して「笑い」が不要と言っているのではない。「笑い」、「ユーモア」はありとらゆる場面で絶対必要なものだ。
ただ、あくまで「ツール(道具)」としての方が、本質的に、「笑い」、「ユーモア」の居場所に合っているのではないかと思うのだ。

僕が子供だった頃とだいぶ世界が変わってしまった。
恐らく、数年後、数十年後、また、同じように、「数年前とだいぶ世界が変わってしまった」、と思っているのかもしれない。
僕は、それを楽しめるような人物でありたいと思っている。
だからどうしたって感じである。
まあ、なんというか、終わります。
ありがとうございました。