遅ればせながら、Abematvの亀田興毅企画関連のことや、地上波とネットのことまで

先日(といっても2週間前くらいか)のAbematvの番組「亀田興毅に勝ったら1000万円」をYouTubeで観たのだが、思ったより面白かった。

この番組は、元プロボクサー・亀田興毅が、4人の素人とボクシング対決をし、素人側が亀田興毅に勝ったらその素人は1000万円を貰えるというもの。

僕的には2人目に出てきたYouTuber(ユーチューバ―)の「ジョー」のところが高揚した。

そして、印象的だったのが、試合が始まる前の、解説者として出演していた武井壮のコメントで、新たなエンターテインメントが生まれるかもしれない、という旨のことを言っていて、確かになにかワクワクさせられる、色々な可能性を感じさせるような、そんなエンターテインメントな番組になっていたと思う。

ただ、意外に面白かったが、それは地上波テレビの中の一つのチャンネル的な面白さであった。

AbemaTVは、地上波でできないことを、ネットだからこそできる番組を目指すべきだと思うのだが、今回の亀田企画は地上波の枠を本質的には出ていないように思えた。

確かに、今回の亀田企画は、今のご時世、地上波でやるのは難しいとは思う。

元暴走族総長の、全身刺青の身体を映すことだったり、YouTuberジョーがやっているチャンネルの内容を流すなど、視聴者からのクレームを気にし、スポンサーが退散してしまう可能性のものは、地上波でやるのは難しい。

だからと言って、地上波のオルタナティブとして、放送禁止用語をバンバン言ったり、お色気の濃度を上げたような番組は、地上波に対している番組というよりは、地上波と同じ枠組みのような気がする。

また、全く持って僕の主観だが(というかこの記事の冒頭から僕の主観でしか書いてないが)、お色気番組は、ある程度規制をした方が興奮するように思う。

いわゆる、チラリズムの原理というものだ。

見えそうで、見えない。

パンツ、いやパンティが見えてしまったら、興奮は冷める。

見たいけど、見たくないのだ。

だから、丸見えのエロ番組や、女の子が放送禁止用語をなんの恥じらいもなく連発していたり、そんな番組は興奮しない。

僕的には色々女の子には恥じらってほしい。・・・まあいいや。

ドーナツの穴に辿り着きたくて、穴を目指して、周りの生地を食べる。生地はおいしいが、いざ穴に辿り着いたと思ったら穴なんかなく、無しかない。

無(パンツ、いやパンティ)に辿り着くまでが楽しいのだ。そこにこそ人生の楽しみがあるのだ。

そのような意味で、僕がネットでやって欲しい番組は、討論番組である。

この世界に正解は無いと思う。

それ故、僕達は正解の無い答えに辿り着こうと話し合ったり、考えたりすることを一生をかけてできたりする。

だから飽きがこないのだ。

考えるということには飽きがこない。

討論番組というのは、地上波でやっている、ワイドショー番組や「朝まで生テレビ」のそれではない。

地上波は地上波という放送形態の性質上、制限時間がある。

だからしっかりと議論をしたり、話し合うことができない。

朝まで生テレビは3時間ほどかけて色々な議題を討論するので、あたかも時間はわりとあるような気がするが、あの番組は田原総一郎が仕切っているので、田原総一郎が出演者に振って、田原総一郎がそれを引き取り、田原総一郎が次の議題に移行させ、田原総一郎のタイミングでCMに行くという、田原総一郎の番組と言っても過言ではない。

というような旨のことを東浩紀が言っていた気がする。

僕もたまに朝生を観るが、とりあえず出演者が多いので、一斉に意見を言う状況が出来上がると全然意見を聞き取ることができない。

僕の知識不足や理解力がないというのもあるが、一体なにがなんだか分からないカオス状態のような感がある。

まあそれが面白いという観方もできるといえばできるのだが。

そこで、AbemaTVのウーマンラッシュアワーの村本がMCを務める「土曜THE NIGHT」は、良い按配の議論・討論番組というか、話し合い番組だと思う。

出演者も少人数で、時間は2時間だが、言いたいことを皆が言えていて、その人が何を言っているのか、何を言いたいのかがちゃんと分かる。そして生放送だ。

議題をとことん話し合っている感じがある。

茂木健一郎の、日本のお笑いは「オワコン」発言の時も、茂木健一郎本人が「土曜THE NIGHTに出演し、その発言の経緯、真意、茂木健一郎のお笑いに対しての思いなどを語り、それに対して村本が反論したり、時には称賛したり、またお笑い全般について話し合ったりして、僕は観ていて色々考えさせられた。

それに対して、地上波でやっている「ワイドナショー」に茂木健一郎が登場した時は、深い議論はせず、なんというか茂木健一郎イジリに終始していて、全然問題の発言について話し合ってはいなかった。

まあ、「ワイドナショー」は色々なニュースを取り扱っているし、時間も限られているので、結局あのような感じにならざるをえないのだろうと思うが。

僕的には、松本人志とバチバチやって欲しいのだが、それは土台無理な話なのだと思う。

なんというか、あのような番組は、一つの思想に皆がなんとなく共鳴していて、核となる人物が笑えばそれにつられて周りが笑うような、または、色々な色がある世の中なのに、その番組の世界では色が一色であるかのようなそんな胡散臭さが漂っている気がする(ただ、この前のデヴィ夫人の北朝鮮を擁護する発言や、結婚は男女同士でしか認めない発言などは良かったと思う。あまり公にそのように発言する人がいないという意味でだが)。

茂木健一郎は恐らく、色が一色であるかのような、そのような気持ちの悪さから、あのような「オワコン」発言に至ったのだと思う。

 

地上波テレビは、生放送じゃない限り、その番組自体にツッコミを入れる機能がない。

あたかもその番組で言われていることが正しいように進行していく。

そのような意味で、「土曜THE NIGHT」は、メディアコントロールをわりとしないようにしているように思われる。

また、僕がよく観るのが、ニコニコ生放送の、東浩紀や、津田大介、夏野剛、ひろゆき、時に茂木健一郎や猪瀬直樹などが出演する、「言いたいことを言う放送」という、不定期で放送されている番組がある。

こちらは、長いと4、5時間くらいずっと言いたいことを言っていて、大抵お酒を飲みながらの放送になるので、緩くもあり、白熱する時もある。

そして東浩紀が言っていたのが、ニコニコ生放送は、常に視聴者のコメントが画面上に流れる。

つまりその番組に常にツッコミが入ることになり、メディアコントロールが効かない状況が作られている。

 

だから偏った番組にならない。一色だけにならない。

色々な色がごちゃ混ぜになっている。

だからニコ生が好きだ。

というようなことを東浩紀は言っていた。

僕は、なるほどね。と思った。

 

まあ、それはそうとして、僕は正解のない、議論や討論、意見を言い合う番組は、その性質上、飽きることはないし、終わりが来ないと思っている。

それ故、非常に楽しめるコンテンツになると思う。

それを番組化させ、その魅力を最大限に引き出せるのがネットだと思うので、これからそういう番組が増えるといいと思う。

まあ、多チャンネル時代になっているので、観たい番組を自分で選択していけばいいとも思うので、僕はまあ、どんな番組があったって基本的に肯定する構えではいるのだが。

うーん、なかなかまとまらない文章になってしまった。

 

てへぺろです。

正常性バイアス~備えあれば憂いなし~

f:id:nocafein:20170511230451j:plain

「間もなく、1番線を、電車が通過いたします」

駅のアナウンスが入り、僕は、「なんだ、通過か」と思った。

すると、やや気怠い声で、

「はい、通るよー。通りますよー。危ないよー。通過するよー。今通過するよー。ほら通過しちゃうよー」

と言いながら、僕の前の線路を、太った中年オジサンが、四つん這いで、赤ちゃんのハイハイのように、よちよちよちよち、そしてよちよちと、牛歩のごとく進行中で、間もなく僕の前を通過するところであった。

そして、なぜかそのオジサンはパンツ一丁というか、紙オムツ一丁で、そのむき出しの背中には、「電車」、と書かれた紙が貼られており、その「電車」の直後に、(急行)と記されてあって、思わず僕は、「じゃあもっと急げよ!」とツッコミを入れそうになった刹那、目的地を通り過ぎてしまったのに気付き、夢想世界から、現実世界に引き戻された僕は、間もなく完全に夜のベールに包まれる、そんな狭間の暮色蒼然の世界の中を、また変な妄想をしてしまったと自嘲気味に思いながら、目的地に向かうため、行き過ぎた道を引き返した。

もしかしたら、予知夢的なものだったのかもしれない。あのオジサンは僕に「通過するよー。通過しちゃうよー。目的地通過しちゃうよー」と、僕に教えてくれていたのかもしれない。そして予知夢的なものだとするならば、紙オムツ一丁、四つん這いになったあの姿も、未来の僕の姿なのかもしれないし、僕にもあのような性癖があるのかもしれないし、まあ、なんというか、まあいいや。

まあいいや、と思ったが、せっかく夢想話を書いたので、そこから少し話しを広げてみる。

もし、実際に線路上を、紙オムツ一丁のオジサンがよちよち進行していたら、僕はどのような反応をするだろうか。

まず、度肝を抜かれ、狼狽するかもしれない。いや、逆に予想外のこと過ぎて、思考停止に陥り、体も停止してしまうかもしれない。

もしかしたら、見て見ぬ振りをするかもしれない。

オジサンのことをよくよく観察すると、あたかも鉄道会社から与えられた仕事であるかのように、よちよち進行中であるかのように見える

正常性バイアスという心理学用語がある。

予期せぬ事態が起こると、心の平安を保つため、「これは大したことないだろう」、「大丈夫だろう」、というバイアス(偏見)が作動し、自分の都合のよい範囲内にその出来事を収めてしまう、そのような心の働きのことをいう。

上記の、「オジサンのことをよくよく観察すると、あたかも鉄道会社から与えられた仕事であるかのように、よちよち進行中であるかのように見える」

という表現も、既に正常性バイアスが働き始めていると思う。

そして次第に、

「あんなに淡々と進行していて、もしかしたらオジサンは、鉄道会社関係の人なのかもしれない。そして、本当にこのような業務があって、今、目の前で起こっている事態は、全く問題のない出来事で、単に僕が無知だっただけなのかもしれない。そうだ。これは正常。誠に正常」

だが、なるべくこうはならないようにしたい。

もし、紙オムツ変態野郎の行動が、勝手に自己満足のためにやっていることだったとしたら、そしてそこに、本物の電車が近づいてきたら、事態は最悪である。

だが、その最悪な事態が起こっても、バイアスが作動し、もしかしたらこう思う人もいるかもしれない。

オジサンが電車に轢かれてしまったのを目撃した人「い、いや、だって、あのオジサン駅員かと思って、注意していいものか迷ってる間に電車が・・・いや、っていうか、あんな紙オムツ変態野郎死んで轢かれて当然だろう。あの野郎が悪い」

みたいな感じで。

僕はそんなのはごめんだ。

言い訳しなくてはならない人生なんて。

後悔したくない。言い訳したくない。罪悪に苛まれたくない。なにが正常性バイアスだ。心理学だ。そんな用語でごまかすな。

 

だから僕は備えようと思う。

想定外だから狼狽(うろた)える。

想定内にしておこう。

そのためには準備が大事だ。

紙オムツ変態野郎が、線路上をよちよち牛歩する、そんなオカシな状況を予め想定しておく。

僕はそんな変態野郎が目の前に現れたら、まず、電車を止めるため、ホームに設置されている、非常停止ボタンを押す。そして速やかに駅員に通報。グッジョブ。お疲れ。

これで、クソ野郎が線路でよちよち赤ちゃんプレイよろしく線路上を牛歩していた際の、対応の仕方を備えることができた。

備えあれば憂いなしだ。

もしかして、こんな記事書いてるオレが、1番やべー奴かもしれない。

少しおふざけが過ぎた記事になってしまったかもしれない。

まあ受け止め方しだいっていうことで。

てへぺろです。

 

子供たちとの戯れ-愛は継承、輪廻する-

f:id:nocafein:20170508161311j:plain

 

僕は縄跳びが得意だ。故に、縄跳びが好きだ。

何を出し抜けに冒頭からアピールしてくれてるんだこの縄跳び野郎、と思われた方もいるかもしれないが、思い付いてしまったのだからしょうがない。この文句を取っ掛かりにして話を展開していくのが最適だと思ってしまったのだ。

これが道行く見知らぬ人にヌッと近寄って行き、素知らぬふりをして暫く隣を、「な、何ですか」と話しかけられるまで歩き続けたなら、

僕は縄跳びが好きだ」と、告白する。

そうすると相手は、「は?まず誰だお前、なんの告白だし、きもー。っていうか縄跳び好きなら既に縄跳びしてろバカ」

となるだろうし、それじゃあ縄跳びしながら、

「あのー!僕縄跳び好きなんですけどー!」

と、走り縄跳びして駆け寄っていったなら、「この縄跳び野郎!」と言われ警察にお縄をかけられる羽目になるだろう。

だが、これがブログ記事の冒頭であったなら、そして、特定の個人ではなく、不特定多数(いや少数か)に向けられた告白ならば、読みたい人は読むだろうし、読みたくない人は読まないので、この記事の告白は問題ないと思う。(いや、そもそも誰もケチつけてねーし、マッチポンプやってんじゃねーって感じだし、前置きなげーよ、なに文字数かせごうとしてんだ、小学生の作文かよ、という声が聞こえてきそうなので良き所で、てへぺろです)

実際、小学生の頃なんか二重跳びや三重跳び、ハヤブサや二重ハヤブサ、そして三重ハヤブサ(はできたかどうか怪しいものだが)、僕はびゅびゅびゅんっ、と縄を回し、びょーーーんと跳びまくっていた。

体育の授業で、課題をクリアしていくと合格印のマルが貰えて次のレベルに進める「縄跳びカード」というものがあって、僕は、学年で2人くらいしか辿り着いていなかったレベルの「縄王カード」という課題をびゅんびゅん跳んでいた。

まあ縄跳びの自慢なんかしていても(しかも小学生の時の)虚しいだけなので、そろそろ本題に入る。

僕の仕事場の近所に小学生の姉弟が住んでいる(多分姉が6年生で弟が3年生)。

その姉弟が縄跳びで遊んでいることがある。僕は最初はそれを心の中で、いーなー。と思っているだけでなにもアクションを起こさなったのだが、だんだん目にする回数が増えてくると、自分の足がムズムズしているのに気づき始め、このままだと日常に支障をきたすのではないかと思われるほど、僕は俗にいう、「びょんびょん病」にかかっていた。(もちろん、そんな病気はないよ。でもなんでも病名付けれる昨今だからね。もしかしたらあるかもしれないね)

靴を履く際、わざとバランスを崩して前屈みになり、そのまま片足でケンケンしていって、そのケンケンがびょんびょんに推移していき、「オレ、子供の時よくキョンシ―ごっこやってたっけ。ナツカシ―なー、ナツオさんだこりゃ」と思って少しセンチメンタルな気分になったり。

駅の階段を1段跳ばしで駆け上がっていって、そのまま上りきっても惰性でびょんびょん跳び跳ねてそのまま宇宙まで駆け上がるをみたり。

金城一紀の小説「GO」の、主人公・杉原の親父が、外でのトレーニング中に、雨の中、芝生区域に入って鯉の滝登りのようにピョンピョンと飛び跳ねる描写をふいに思い出してしまったり(映画版「GO」の窪塚洋介はカッコ良かったし、柴咲コウは、すこぶる可愛かった)。

とにかくそのくらい、僕は縄跳びが跳びたい体になっていた。

そして、とうとう僕はその小学生の姉弟に、「頼む、少しだけでいいから跳ばしてくれ」と言って、水を得た魚、鯉の滝登りのように、ぴょんぴょん、では飽き足らず、びょびょびょーん!!と跳びまくって、暫くの間、縄跳びを離さなかった。

ただ、子供たちは跳んでいる僕を見て、目を瞠るように、そして輝かせて(僕にはそう見えた)、「すげー!」「すごーい!」と、きゃっきゃしていて、僕は少し、恥ずかしくもあり、自慢気でもあった。

かくして、僕はその姉弟に無駄に絡むようになった。

姉弟がドッチボール用のボールで遊んでいたら、「ちょっと貸して」と言って、パスされたボールをキャッチするやいなや、弟君にめがけてボールをぶつけたり(もちろん軽くです)。

姉弟がサッカーボールで遊んでいたら、「ちょっと貸して」と言って、僕の数少ないドリブルテクニックを自慢気に披露してから、そしてボールを持って、弟君にぶつけたり(もちろん手加減してます)

やはり姉弟が縄跳びをしていたら、「ちょっと貸して」と言って、隠し持っていたボールを弟君にぶつけたり(大丈夫いじめてません)。

その姉弟は、僕がそのようなアプローチをすると、毎回新鮮に目をキラキラさせて、本当に嬉しそうに、きゃっきゃ言いながら、僕に戯れてくる。

僕がボールをぶつけようものなら、姉弟で協力して僕にボールを当ててくるし。

僕が縄跳びをぶん取って、隠し持っていたボールをぶつけても、きゃっきゃ言いながら僕を返り討ちにするし(僕はちゃんと、1回はやられてあげる)。

つい先日なんて、お姉ちゃんの方が、すごく楽しそうに「びょ~ん」と言って、スライム状のものを伸ばして僕に見せびらかしてきて、僕が「自分で作ったの?」と聞いたら、「そう。洗濯ノリをコネコネして・・・」と言いながらスライムをちぎってどんどん僕にぶつけてきてキャッキャ言っていたり、とにかく最近は向こうから僕に攻撃を仕掛けてくるようになってきている。

ただ、彼(彼女)らは、僕がなんらかのリアクションをすると、本当に楽しそうに、嬉しそうにキャッキャする。

僕はこの子達を見て、なんて素直に、僕と接してくれているんだろうと思い、そりゃあ僕も嬉しくもある。

と、同時に、僕がこの子達の歳の頃、このように素直に大人と絡むことができていただろうか、という思いに駆られる。

僕は子供のころはシャイボーイで、やや人見知りの気があったので(今はあまりそうならないように気をつけてはいる)、大人からしてみれば、とっつきにくい子供だったのではないかと思うし、僕は結構、そのような大人の反応を見て態度を決めていたことがあったので、なかなかお互いにやりづらかっただろうなと思う(実際、僕は小学生時代は神経が摩耗し過ぎていた感があり、あまり良い時期だったとはいえない)。

ただ、子供の頃僕が大人たちの顔色を見て態度を決めていたように、大人達の方だって、子供の顔色を見て態度を決めているということがあったと思う。

僕がとっつきにくい態度を取っていたから、大人達は僕をとっつきにくい子として扱ったのかもしれないし、それは逆もまた然りである。

それは大人と子供の関係性だけに収まらない。

家族、友人、恋人、ありとあらゆる人間関係に適応する。

人間は、なんだかよく分からないものに対しては不信感を抱く。

ハッキリと、分かりやすいものが好まれたりする(正直僕はこの風潮はそんなに好きではないのだが)。

仏頂面や、無表情だと、何を考えているか分からないと判断され、それに対面する人は、その対面者の情報があまりにも乏しいためどう接していいかが分からなくなる。

だからなるべく情報開示(心を開いたり、感情を出したり、話題を提供したり、挨拶するだけもいい)することにより、相手との距離を縮めることを可能にする。

しかし、別に無理して、誰にでもそのような態度をとる必要はないと思う。この世界合う人、合わない人なんてゴマンといるだろう。

だから、距離を縮めたい人にそれをやればいいと思う。

そして、そのように思う人に出会ったなら、なるべくこちらから開示してあげる。

待っているのでななく、こちらから行く。

愛されたいのであれば、まず愛そう。これは、id:plagmaticjamさんの記事(良い記事でした)から共鳴し、学びました。

plagmaticjam.hatenablog.com

親が、子供に無償の愛を注ぐ。それを受けた子供は愛されている実感を持つ。そして子供は親を愛するようになる。

愛は返ってくる。

本当にその人に愛を持って、「愛する」のであれば、必ずその人に無償の愛として愛は届く。そして愛を受けた人は、それに応えるように、その人を愛す。僕はそう信じている。

すこぶる気持ち悪い展開になってしまった。まだGW気分が抜けていないようだ(まあそんなに僕はGWを味わうことはなかったのだが。少しはあったけど)。

最後に、僕が子供時代に、僕が素直に心を開示できる大人は果たしていたのかと思い出してみたのだけど、やはり何人かいた。

その人たちは、僕を決して子供扱いせず、対等に接してくれた(ように僕には感じた)。

子供の時、そのようにされたことが心根に染み込んでいて、年月を経た僕は、同じように、近所の姉弟に接しようとしているのかもしれない。

愛は継承されていくし、輪廻するのかもしれない。

最後まで気持ちわるいですね。マジでごめんなさい。

てへぺろです。

 

デッキシューズを履くタイミング~真剣さ、真摯さ、熱さ上等~

f:id:nocafein:20170505230441j:plain

いやー暑い。昨日もそうだったが、GW天候良すぎだし、暑すぎだし。夏日だし。

洗濯物めっちゃ干しまくりたくなるし。干しまくってるし。

洗濯物を干しまくってるということは、とても自分の気分が上がっているということなのだが、それに加えて、外出する際、道行く人が紛うことなき夏服だった時、そして、デッキシューズを履いている自分の足下を見た時、一層気分は上がる。

まあ、正直僕は4月下旬からショートソックス、そしてデッキシューズを履いてますけどね。デッキシューズは「夏の履物」的風潮の観念が固いと、多少の勇気を必要としますけどね。というか僕は、ここ数年、Dr.Martens(ドクター・マーチン)か、デッキシューズかの2択で日々を送っているので、少しでも気温が暖かくなろうものならデッキシューズを履いてやろうという気概ではいる。

でもホント楽だし、爽快だし、いざ履き始めてから、そのまま日数を更新していくと、もう季節感とか気にならなくなるし、というか、デッキシューズって今くらいの時期から履いてても全然おかしくないと思うし。

絶対デッキシューズ履きたくてウズウズしている人は他にもいるはずだし。そういう人がデッキ履いている僕を見かけて、デッキ履くことに躊躇してしまっている人の背中を少しでも押せることができたなら、とても素晴らしいことだと思うし。

ただ、逆に、僕の容姿がダメ過ぎて、やっぱりこの時期にデッキ履く奴は異常者だな、と思われてしまう可能性もなきにしもあらず・・・

っていうかどーでもいーけどね。自分が履きたいから履いてるわけだし。なにせ快適なんだよな。デッキシューズ。

っていうか僕の住んでるアパートの住人で、真冬でも、というか季節違わず年中、半袖Tシャツ・短パン・ビーサン(ビーチサンダル)で、コンプリートさせるために麦藁帽子と虫捕り網をプレゼントしたくなる格好の人がいて、ただその人は常に唯我独尊の雰囲気を纏っていてとても堂々としてみえて好感が持てる。

たださすがに真冬でその格好は寒くないのかという単純な疑問は残るのだが、そんな思いはその人にとってはどーでもいーことなのだと思う。そのような顔つきをしてらっしゃるように見える。彼こそが人類の希望なのではないかと思わせてくれる。僕はその人に会うと少し元気、または勇気をもらえる。

ただそれは、そのような格好をしている彼を蔑んでいるからかもしれない。下を見て自分の状況を幸せだと思いたい、そんな心理が働いているのかもしれない。確かにどっからどう見ても時季外れ(真冬の場合)も甚だしい格好ではある。それは誰の目に見ても明らかである。

僕は彼を蔑んでいるのだろうか。

確かに最初は度肝を抜かれた。マジかよ、と思った。変人だなと思った。だが、何度も顔を合わせる度に、何度も挨拶を交わす度に、笑えてきた。すげーな。と。あの人すげーな。と。貫徹してやがる。貫徹的カッコ良さは思わず笑みが出てくる。笑けてくる。

僕は最初は馬鹿にしていたのかもしれない。

だけど、今はしていない。

堂々と貫徹している人は、好感が持てる。

そのようなわけで、僕は彼に元気・勇気をもらっている。

だから僕はデッキを履き続ける。

わけワカメな決意表明だな(ふとした時に使いたくなるね、わけワカメ)。

 

堂々と、貫徹している人、または熱く、真剣で真摯な人に僕は好感を抱く。中途半端だとつまらない。

それは、お笑い芸人も同じで、真面目にバカの振りをし続けるから、見ていられるのであって、そしてそれが笑いになる。

中途半端にへらへらやっている芸は本当につまらない。やるなら真剣にやってほしい。

芸人だけではないが、メディアに露出している人物で、なんかこいつ胡散臭いなー、だとか、信用ならないなー、という人物には、真剣さや真摯さ、または熱さが足りないような気がする。

なんか薄っぺらいというか小手先だけというか。

 

突然だが僕は思想家の東浩紀に好感を持っている。

彼の著作を読む前に、ニコ生で話しているのを観て、最初なんだこの癖のある傍若無人な人物は、と思った。とても好感など持てる隙を与えてくれそうにないと思ったが、10分、20分と観ていく内、段々彼の言葉に真剣に耳を傾ける自分がいた。

氏は真剣に話していた。

そして熱かった。

決して独り善がりの熱さではなく、自分以外の人に届けようと、真摯に真剣に語っていた。

そのような人物に僕は耳を傾けたくなる。

いや、僕だけではないだろう。きっとほとんどの人が、そうなるような気がする。と僕は期待する。

冷めた感じで、クールを装い、当事者になるのを避け、いつでも傍観者に徹し、外から嘲笑し続ける人を見かけるが、僕はそのような人達と一緒になるのは嫌だし、そうならないよう、心がけていきたい。

 最後に、これまた突然だが、お笑い芸人の三四郎に言いたい。僕は彼らの漫才が好きだが、なんか突き抜けていない。真剣さが足りないような気がする。

それは、彼らがやっているラジオ「オールナイトニッポン0」を聴いていてもそうなのだが、なんか素人感が拭えない。やるなら真剣にやって欲しい。

僕はくりぃむしちゅーのオールナイトニッポンが好きだったが、彼らは、つまり、上田は真剣に突っ込み、有田は真剣にボケ続けていた。

だから彼らのトークに耳を傾けた。

ラジオFM NACK5のパーソナリティ・バカボン鬼塚もそうだ。真剣にはしゃぎ続ける(ただ土曜日の夕方にやっている「Hits! The Town」はアシスタントの山口五和の存在が大きい。というか山口五和のために聴いているといっても過言ではない)

漫才が良いだけになー。新ネタなのか分からないが、最近YouTubeで観た、「世界最強の男」は良かった。ボケの相田にフォーカスしていて、相田が振り切ってボケていた。

うーん、でもラジオはその素人感が良いっていうのもあるのかなー。いや、やっぱり駄目だ。

このままだと、ずっとこのままだ。

三四郎のこれからに期待したい。

いや、誰やねん、オレ。

というか、この記事は仕事場に行く途中や、帰りの電車の中とかでちょこちょこ書いているのだが、今日1日見てきて、なんだかんだ、デッキシューズ履いている人いたな。

よかった。

てへぺろです。

 

有村架純に次ぐ第2の刺客、ホンツバこと、本田翼を直視できない

f:id:nocafein:20170504002822j:plain

 

くそっ、気にしたくないのに、ここ最近、毎日1回はホンツバこと、本田翼のことを考えてしまう。

ハッキリ言って、ホンツバなどに興味はない

だけどホンツバが僕の視界に入ってくるのだからしょうがない。

それは、以前の記事にも書いたアリカスこと、有村架純と同じ原理で。直視できない。

www.teheperow.com

 

季節が冬から春に移り変わったタイミングで、組織(中二病)は新たな刺客を僕に仕向けてきた。

第2の刺客、本田翼

自販機の広告が、「ほっこりさ」全開のアリカス・スマイルから、「フレッシュでいこう!」全開のホンツバ・スマイルに、まるで僕に気づかれないように(中二病)、こっそりと広告ポスターを差し替えていた。

ポスターの中のホンツバは少し僕から物理的に距離を置いている。
だがその結果、今にもこっちに跳んできそうな、そんな躍動感が演出されている。

Are you ready?

そんな春らしい問いかけをこっちに投げてきそうな、こちらを翻弄してくる、小悪魔的な微笑。

その微笑に一瞬、時を奪われるも、即刻ある顔が出現し、現実に戻る。

別にどーでもいーんだけどね。

と、心の中で呟きながら。

 

菅田将暉。

 

いや、どーでもいーです。マジで。

ツバサ・ホンダなどマジでこれっぽっちも興味ないんで。

先日、YouTubeで、AbemaTVのウーマンラッシュアワー・村本がMCを務める番組「土曜theNIGHT」の過去の放送回を観ていたのだが、その回に、水道橋博士と、宮台真司がゲストで出演していて、その宮台真司が「ルサンチマン」や、フロイトの「精神分析学」や、「埋め合わせ」の話をしていて、脳裏に、ホンツバ→菅田将暉の流れが浮かんできた時に、その宮台真司の話がなぜか想起されてしまった。

簡単に「埋め合わせ」の話を説明すると、自分が持っていないものや、できないことを、とある人物は持っていたり、できていたりすると、そのような劣等感を「埋め合わせ」るために、その対象者をけしからん!と非難したりして、自分の欠落部分を補うために辻褄合わせみたいなことをすることをいう。

また、ウーマンラッシュアワーの村本がベッキー騒動を例に興味深いことを言っていたのだが、芸能人の不倫を叩いてCMや番組を降板させて、その人物を「引きずり降ろす」という言い方をするが、その「引きずり降ろす」という言葉自体が、下からの物言いであり、仮に上からの物言いであったなら「叩き潰す」となるだろうに、「引きずり降ろす」ことをするのはその不倫した人物の下にいることを認めていることになり、つまり、引きずり降ろそうとしている人は嫉妬や妬みなどからそのような行為に及んでいるのではないか、という旨のことを言っていて、なるほどなと思った。

僕は菅田将暉を引きずり降ろしたいと思っているのだろうか。

僕は菅田将暉を妬んでいるのだろうか。

でもまあ、まだ交際していると決まったわけではなさそうだし。

菅田もラジオで沈黙するとか言って、明言しなかったらしいし。

・・・・・・

いや、待て、だからオレはそんなのど―だっていいんだって!

別に付き合っていよーが、いなかろーがどっちだっていいんだって!

だって別にホンツバちゃんのファンじゃねーんだから!

やべ、なんか必死に弁明してたら、ウサギ生まれるかも。

www.teheperow.com

まあ、ただ、本田翼は、かわいいです。

 

てへぺろです。

 

自分が自分であること-自分自身の同一性を考える-

f:id:nocafein:20170430230316j:plain

 

前回の記事に引き続き、涼宮ハルヒの「エンドレスエイト」を発端として、記憶がリセットされる前と、された後の人物は、はたして同一人物なのかどうか、ということを考えていきたい。

前回も書いたが、考える方法として2パターンの方法を用いる。

・他人が対象者を同一人物かどうか判断する場合

・自分が対象者で、それを自分で判断する場合

前回の記事では、前者の方法で考えたので、今回は後者の「自分が対象者で、それを自分で判断する場合」を考えていこうと思う。

思考①

まず、分かりやすい例として、10分前に自分がコンビニで弁当を買ったとする。そして今、その買った弁当を食べている。

そして食べている最中に友人から電話が入る。

友人「さっきコンビニで弁当買ってなかった?10分前くらいに。実はオレもあのコンビニにいたんだよね」

自分「じゃあ話しかけて来いよ。いたよ。牛丼買って今食ってるとこ」

これは今の自分と、10分前の自分は同一人物だと認めている。

この時、10分前の記憶に頼って、同一人物かどうか判断していると思う。

では次に、こんな電話がかかってきたらどうだろうか。

友人「さっきコンビニでコーヒー牛乳買ってただろう。あと、お前なんだよあの恰好。上はモフモフの毛皮のコート着てるのに、下はショートパンツって。しかもお前ショートパンツの裾から、中の下着のトランクスの裾がはみ出ちゃってたぞ。いくらショートパンツだからって、そりゃあお前、さすがの生野陽子もびっくりだわ」

しかし、自分はコーヒー牛乳など買っていない。そして生野陽子もびっくりのショートパンも穿いていない。もっといえば、生野陽子(ショーパン)もびっくり、などという安易なネタを末尾に添える友人など、僕は知らない。

そんな電話がかかってきら、僕はこう切り返すだろう。

「人違いです。今ご飯中なので切ります」

これも自分の記憶に頼って判断したと言っていいだろう。

思考②

では、次に、「人違いです。今ご飯中なので切ります」、と言ったら、友人が、

「いや携帯でムービー撮ってたから見せてやるよ。今からお前ん家行くわ」

と言ってその数分後、その友人が僕の家に来て、携帯で撮ったムービーを見せてくれ、その画面に映っているのは、まさしく僕の顔をした人物が、ショーパンもびっくりな恰好をして、コーヒー牛乳を買っている。

この場合、僕はどう判断するだろうか。

2つあると思う。

・僕の記憶が間違っているはずがないので、この友人がムービーをなんらかの方法で合成したのでないだろうか、と思う。→記憶性を信用している

・確かにこの映像に移っているのは僕だ。おかしいな。僕はなんらかの記憶障害を起こしてしまったようだ、と思う。→身体性を信用している

つまり、身体性か、記憶性か、このどちらか一方を信じることになるだろう。

思考③(取り敢えずの結論)

しかし、身体性を信じること、記憶性を信じること、このどちらか一方が正しいということもない

どちらも懐疑の目を持つことができてしまう。

上の例で言えば、

・記憶性を信用したとする→その記憶は、もしかしたら誰かの手によって改ざんされたものかもしれない。

・身体性を信用したとする→その映像に映った自分は、なんらかの合成した映像なのではないか。

という風に。

だから、「今の自分」を基軸とした、それに対する過去の自分、もしくは未来の自分というものには、同一性の確固たる根拠は見出せない

取り敢えずそれが僕の結論です。

思考④(終わり)

だがこのままだと、全てのことは疑わしくなってしまう。

ありとあらゆるものは全て幻想なのだろうか。

いや、今、この瞬間の、「今のこの僕」においてだけは疑いようもなく僕である。

この思考している、「この僕」だけは。

たとえ、この思考自体、誰かに操作させられていようと、この「思考している僕」自体幻想であろうと、この幻想の僕は確実に「ある」。

それは、他の誰にも分かり得ないことだが、この僕にだけは、はっきりと分かる

「ある」ことに実感がある

他人と、自分の違いは、この根拠のない、だが一番の根拠になる、この「実感」だ。

ここでいう「実感」は、感覚という意味では狭すぎる。

疑いようもなく、端的に「僕」である、そのような「実感」

だから、例え、記憶がリセットされて、再度同じ夏休みを繰り返す羽目になっても、その記憶をリセットされる前の自分と、された後の自分が同一人物かどうかにおいて、同一性が結局のところ見出せなくても、その「瞬間の僕」においては、疑いようもなく僕なのであって、もはや記憶がリセットされようが、されまいがどうでもいいことなのだ

えーーー!、という感じだと思う。

いや、「どうでもいい」って、お前が言い出したことですやん。そのための記事ですやん。って感じだと思う。

すみません。

でも、考えていくと、結局こういう、デカルト的思考になってしまいました。

だが、敢えて結論付けるなら、「この瞬間の、この思考している自分は、自分と、同一人物である。つまり、自分自身の同一性は疑いようがない

と、おかしな日本語になってしまっていますが、そのように言えることができると思います。

すみません。今回はこの辺で。

てへぺろです。(最近出し惜しみしてました。誰も期待してないか)

 

他人が同一人物かどうかを考える-記憶への依存-

f:id:nocafein:20170421231243j:plain

 

前回の記事の最後に、以下のような問いかけをして、記事を終了した。

涼宮ハルヒの「エンドレスエイト」で、夏休み(8月17日〜31日の15日間)最後の日が終わると、その期間中の記憶はリセットされ、また17日から全く同じ内容の夏休みを繰り返すのだが、そのループする際、記憶がリセットされる前の自分と、された後の自分は、はたして同一人物なのかどうか、

という問いだ。

その時の記事ではあまり深く追求しなかったので、今回は、そのことをより深く考えていこうと思う。

まず、この同一人物かどうかの問題は、誰が、その対象者(同一人物かどうかの対象となる人物)を判断するかということが重要になってくると思う。

今回は2つのパターンで考えることにする。

・他人が、対象者を判断する。

・自分が対象者で、それを自分で判断する(自分自身が同一人物かどうかを自分で判断する)。

  第1段階

まず、他人が対象者を判断する場合を考えていこう。

 例えば、道端で、数年振りに友人とばったり会ったとする。

その時、その友人が誰であったか、または、今回の記事に寄せた表現にするなら、自分の知っている友人であるかどうか(自分の知っている友人と同一人物かどうか)を判断するためには、自分の過去の記憶から、その友人像を引っ張り出さなければならない。

そして、自分の記憶の中の友人像と、現在目の前にいる友人が一致すれば、その友人の同一性は、他人が判断する限り、保証される。

つまり、他人の同一性は、自分の記憶に依存している。

では、その数年振りに会った友人が、昔と比べて容姿の変化は見られないのだが、その代わりに、人格の方があまりにも変化していたとしたらどうだろうか?

他人が対象者を同一人物かどうか判断する方法として、自分の記憶に依存する、と先述した。

それとはもう一つ、判断する方法がある。

それは、身体が同一かどうか、という判断方法である。

上の例で言えば、あまりにも昔と比べて人格が変化していても、昔の写真などを参照して、身体的変化が見られない場合、

「人格があまりに変化してるけど、容姿は全然変わってないもんな。まあ、久し振りに会ったのだから、その間に人格くらい変わっててもおかしくないよな」

という風に、身体の同一性の方を優先・信用してしまい、その対象者が同一人物だと判断してしまうだろう。

では今度は、人格は昔とそのまま、つまり、自分の記憶とその対象者の記憶が共有可能で、容姿だけが全くの別人になっていたらどうだろう。

 恐らくその場合は、

「まあ・・・数年振りに会ったのだから、その間に整形しててもおかしくないよな」

という風に、記憶(過去の思い出)の方を優先・信用し、対象者の同一性を確保しようとする。

つまり、記憶か、身体か、どちらかが、過去と同一と判断できる可能性が少しでも確保できようものなら、人間は、対象者を同一人物とみなすのだと思う。

第2段階

では今度は、容姿は昔と変化していないが、その対象者の記憶が、まるで違う記憶、極端に言えば、他の誰かの全く知らない記憶と入れ変わっていたらどうだろう。

そんな人間に出くわしたとしたら?

その人間はどうもこちら側を知っているようであるが、こちら側はその目の前の人間が話す思い出話が全く理解できず、出てくる登場人物もまるで知らない。
明らかに、人違いをしているように感じる。

しかし、容姿は自分が知っている友人の容姿をしている。

これは、先述した例、人格が変わってしまった例と同じで、手っ取り早く解決する方法は、

「あー、暫く見ない間に、この人、頭がおかしくなってしまったのか」

と、相手がおかしくなった、と片付ける方法が妥当であるように思う。

自分がおかしくなったと判断するには時期尚早、人間は、なかなか自分の非を認めないものである。

では、1人登場人物を追加してみる。

その頭のおかしくなったと思われる友人と、記憶を共有できる人物が登場したらどうだろう。
因みに自分は、その登場人物をまるで知らない。

その新たな登場人物も、どうやら自分を知っているようである。
目の前の友人と思しき人物は、全く知らない思い出話を、全く知らない人物と仲良く花を咲かせていて、会話はどんどん進行していく。

その時、あなただったらこう思うのではないだろうか。

「あ、人違いだった」

と。

容姿がいくら同一に見えても、記憶が一致しない場合は、その対象者に同一性を見出せない。

つまり、身体的同一より、記憶的同一の方を、人は信用するし、依存するのだと、僕は考えます。

第3段階(まとめ)

ただし、この新たな登場人物、記憶の共有者の出現により、友人を自分の認識違いだと判断し、少しネガティブになっているあなたの肩をポン、と叩く、白衣を着た、なにかしらの博士が現れ、あなたにこう言ったならどうだろう。

「大丈夫。あの2人は、ある地点で記憶の改ざんが行われている。だから、あなたが人違いだと思った友人は、正真正銘、あなたの知っている友人だよ」

と、言われたならあなたは、藁をもすがる思いで、

「そうだったんですね。やっぱりなんかおかしいと思ったんですよ。良かったー!」

と、その話を信じてしまう人もいるのではないだろうか。

つまり、他人が対象者の同一を判断する場合、結局、決めるのは自分自身なのであり、自分次第でどうとでも判断できてしまうのだ。

それはつまり、その対象者(自分以外の他人)が、どこまでいっても、同一人物であるかどうか本当のところ分からない、ということを意味しているのではないだろうか。

だから結局自分頼みになってしまう。
そしてその判断材料になるのは、自分の記憶に依るところが大きい。

というところまでしか、他人が対象者を判断する場合は、僕は言えないと思う。

 

さて、次回の記事では、自分が対象者(同一人物かどうか)になり、それを自分で判断する場合を考えてみようと思う。

それでは。