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タイプというものは、ある個人を捉えることができない。個人は、ただ個人があるだけ

ある特定の個人を書こうと思って書き始めると、いつの間にか、一つのタイプを創り出していることに気がつくが、反対にあるタイプの人間像を描き出そうとすると、できあがったものは、無というか空というか、何一つ創り出されていないことに気がつく。(省略)

タイプなどというものはないのである。複数は存在しないのだ。いまここに一人、金持の青年がいるのだが、これからお話しするのは彼個人のことであって、彼の同類の話ではない。

(「金持の御曹子」フィッツジェラルド/野崎孝訳)

  僕は自分の友達のことを、その友達のことを全く知らない他の誰かに説明する時、どうもうまく伝えることができていないなー、という、隔靴掻痒的な、そのようなもどかしさを度々感じることがある。
例えば、僕の友達がこの前こういうことをして、こういうことを言って、カクカクシカジカだったんですよー。と、誰かに話したとする。
すると相手は、
「つまりその友達は、協調性がないってことだね」
と、返してくる。
僕はそれに対して素直に首肯できない。
うーん、協調性がないこともないんだけれど、うーん、そういうことでもないんですよねー。
と、なる。
完全に的外れなことを言われてるわけではないし、もしかすると、まさにその通りのことを言われているのかもしれない。
それにも関わらず、何故僕はそのような煮えきらない反応をしてしまうのか。
その時僕の中で一体なにが起こっているのか。
今回はそのことを考えてみたいと思う。

恐らく、僕が持つ友達像と、相手がイメージした僕の友達像との間に、どうしても齟齬が生じているように感じられてしまう、というそこに原因があると思う。
そしてそれは、観念と言葉の齟齬、とも表現できる。
僕の中にある友達のイメージ像、それを観念と呼ぶ。その観念を言葉で捉えようとする。例えば「協調性がない」という言葉で。
しかし、その「協調性がない」という言葉では、友達の観念を取り零しているように感じられる。
じゃあさらに他の言葉を足していって、その取り零しを補おうする。
「協調性がない」➕「だけど優しい」➕「そして淋しがり屋」という風に。
だが、まだ取り零しがあるように感じられる。
その観念にピッタリ合うように縁取られた色々な型(言葉)でどんなに押さえこんでも、数秒後にはその型からハミ出してくるように思われる。
恐らくこれは、言葉の性質の問題であるように思う。
ある言葉は、独立したものとして、あるタイプ(型)を形成してしまう。「これだ」、という風にはっきりと決定づかせてしまう。例えば、

「協調性がない」類の人。

「優しい」類の人。

「淋しがり屋」類の人。

という風に分類させてしまう。
とりわけ人間を、もっと言えばある特定の個人を、そのようなタイプで断定することは不可能のように思われる。
つまり、言葉で断定する、ということが問題なのである。

「僕は淋しがり屋である」

うーん、なんかしっくりこない。そこまで僕は淋しがり屋ではないような気がする。ではこれではどうか。

「ある部分では淋しがり屋である」

うーん、部分的に淋しがるのであればそれは淋しがり屋と言えないのではないか。

という風に、断定するとしっくりこない。
だから断定せずに、端的な事実を述べるに止めておくというのはどうだろう。

・僕はこういう時、淋しくなる。

・僕は、普段は1人で平気なのだが、急に人恋しくなる時がある。

という風に。

これ以上は述べない。これ以上は説明しない。ここからあるなにかを導くことをしない。
ここまでで止めておけば、自分の中、あるいは相手の中だけで勝手に処理させることができる。
だが、これを受けた相手が、ここから、
「あ、つまり〇〇な人なんだね」
と、なにかを導き出したり、タイプ化させたり、結論付けを行った途端、そこから齟齬が生じてしまう。

ただし人間は、物事を結論付たい、または断定したい生き物であるらしい。以前の記事にも書いたが、人間は曖昧なものが我慢ならない。自分の中で結論・断定して、自分を納得させたいのだ。

nocafein.hatenablog.com

とりわけ他人との会話なんかそうだ。相手の言っていることを理解して自分に取り入れる段には、その物事を結論・断定させてからでないと、それを飲み込むことができないのだ。

だから相手にある特定の人のことを理解してもらいたいのなら、記事も終盤になってやっと触れるが、冒頭で引用したフィッツジェラルドの小説のように、タイプで語るのではなく、物語の中でのその個人の言動を、ただただ端的に物語ることをして、その個人というものを受け手が、受け手自身の中でジワジワ浮きたたさせる段階で止まらせ、それ以上受け手には語らせないで受け手の中で処理してもらう、それを言語化させて外に出させないようにする。ということしか、やれることはないのではないかと思う。
まあ、僕は本気でそんなことを日常生活で実行しようとは勿論思ってないが、言葉というのは、ある局面では、そのような厄介事を招くツールだということを頭の片隅に置いておくのもいいのではないかということです。

そして、僕が本記事で一番示したかったことは、本当はタイプというものはなく、個があるのみだということだ。
個々には個々の人生がある。だから、他人の人生なんていちいち気にしなくていい。
人生一度きりなのだし、やりたいこをやればいいのだ。
あと、性格診断テストみたいなのがあるけど、あんなのに、捉えられてたまるか、って感じだ。
最後に急にカッコつけて熱くなった自分に少々引きつつも、でもそういうお茶目なところがまたなんというか、その、、、てへぺろって感じです。
今回はこのへんで。ありがとうございました。

傘、持って行かれるの巻、そして少し道徳の話

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2日前の朝、雨が降っていたので、コンビニで590円のビニール傘を買った。
今思えば、その際レジの対応をしてくれた、そのコンビニの店長にも見えなくもない50歳程度のオジサンは、実は未来を予測できてしまう特殊能力者エスパー・オジサンで、間もなく起こるイベントを予測していたからこそ、愛想が無く、とっつきにくいとしか形容できない店長(推測)失格な接客を僕に提供していたのかもしれない。
僕はそのコンビニを出て、100メートルも離れていない、すぐ近くのまた違うコンビニに、コーヒーを買うために立ち寄った。そして、コーヒーをセルフで作っている間、何気なく入り口脇にある傘立てを一瞥したところ、僕は思わず声をあげてしまった。
先程コンビニで買った僕の傘が無くなっているように見えたのだ。
僕は急いで出来上がったコーヒーを持って傘立てに駆け寄ったら案の定、傘が無くなっていた。
どうして無くなったとすぐ判断できたかといえば、僕は盗難防止のため、もしくは間違って持って行かれないため、傘立てに入れるのではなく、自動ドア近くの壁の僅かなヘリに立て掛けて目立つように置いて、他と差別化させていたのだ。
わざわざそのように考えて置いていたから、なおさら悔しかった。
相手が故意に盗んだのか、間違えて持って行ってしまったのかはもはや半永久的に迷宮入りだが、なんにせよ傘を消失した僕は、数分前、もしくは数秒前の僕の傘を持って行った誰かとは違って、次の一手によっては、例えば代わりに傘立てに置いてある傘を持っていくことをすれば、それは、「故意に盗む」ことになり、犯罪者になる。
僕は気付かない間に、犯罪者になるお膳立てをされている。
だが、僕はその手には乗らない。
確かに怒りの矛先を失い、虚無感に身を預けそうにもなるが、自分は、全てを寛容に受け入れる大人の男、それがまさに憧れのダンディズムに違いないと自分を納得させ、そして鼓舞し、僕は雨降る道を颯爽と駆けてゆくナイスGUYになることを、逆にお膳立てさせられているのではないか、と自分を納得させ、ポジティブに完結させることによってその場を乗り切ろうと考える。
しかも今回は僕がナイスGUYになろうと駆け出そうとしたその時、知り合いのオバサンが向こうから来るのが見え、僕はそのオバサンがこちらまで来るのを待って、オバサンが到着するなや否や傘を取られた一部始終を愚痴ることができた。
かくして、愚痴るという愚行でもって早くもナイスGUYを諦めた僕であったが、そのやりきれない思いを、僕の愚痴を寛容に受け入れてくれるそのオバサンのおかげで、軽減することができた。

ところで不思議に思うのだが、そのおばさんは助言として、
「傘にシルシをつけときゃなきゃ駄目だよ」、と教えてくれた。
他の人にも、誰かに傘を持って行かれた話をすると、「名前を書いとけ」だとか、「置き傘にすれば」など、いわゆる盗難対策の答えが返ってくる。
恐らく僕も、友人などに、誰かに傘を持って行かれた話をされたら、持っていかれないように自分はこういう対策をしている、というようなアドバイスを返すことだろう。
それはつまり、取られたのは当人の過失として、話しが進んでいるということだ。
だが、傘を持っていかれた段階の当事(被害)者の僕は、まず、持って行った加害者を考え、そして非難しようとする。
どうしてこんなことするのだろう、
良心はあるのだろうか、と。
だが第3者は、ほとんど盗んだ犯罪者を非難しない(僕の経験上)。
持って行かれてしまった当人の過失として処理する。
この当事者と第3者のギャップはなんなのだろう。
恐らく、当事(被害)者には、加害者が物理的でなくとも、当事者の頭の中に確実に存在していて、はっきり見えている。
だから、目に見えている加害者を非難しやすい。
だが、第3者は、加害者が見えていない。薄っすら見えたとしても、それは当事者のお話の中なので、リアルに現れてこない。
第3者にとっては加害者は遠い存在、対岸の存在。
恐らく、人間は、自分と近しい出来事しかイメージすることができないのではないだろうか。
だから、僕がオバサンに、傘を持って行かれたエピソードを話しても、目の前に見えるのはその持って行かれた僕しかいなく、言及するとなれば、僕(当事者)の段階までが関の山となるのだろう。
これが、普段から義憤気味の人だったり、僕のエピソードに物凄くのめり込んでしまえる人の場合であったなら、持って行った加害者をありありとイメージでき、僕と同じように怒り、そしたら加害者に言及するということもあるのかもしれない。
だがほとんどの場合、他人の出来事は他人事なので、他人の出来事でそんなに熱くなる人はあまりいないだろう。

・少し道徳の話
あと一つ、僕は学生の時、他人の傘を盗んだり、また盗んでいる最中に持ち主に見られてイタイ目にあったりした。
だが、今の僕はそんなことはしない。
成長したということだろうか。
大人になったということだろうか。
いや、ただ、思考することを必要としない、抽象的な前提が増えただけ、または、より前提が強固になっただけのような気がする。

『他人のものを盗むのはいけないこと、なぜなら他人に迷惑をかけるから』

これは僕が物心付いた時には既に大前提となっていた道徳的規範というものだ。
だが、学生時代までの僕は、今よりその道徳の洗脳のかけられ具合が弱かったように思われる。
だから、他人の傘を盗めたのだ。
だが、先述したが、僕は学生時代、傘を盗む途中に持ち主に見つかりイタイ目に遭っている。
僕はその時、当然の報いだと思った。
このような犯罪が見つかれば罰を受ける
恐らくそのような経験が、僕の道徳観をより強固にしていったのではないだろうか。
罰が恐い
だから他人のものは盗まない。
『他人に迷惑をかけてはいけない』、よりもまず、罰が恐いというそのことが先に立つ。
だが、道徳的規範を立ち上がらせる際、その真理(罰が恐いということ)を決まって失念して思い浮かべており、つまり、『他人に迷惑をかけてはいけない(なぜなら罰が恐いから)』、の後のカッコ内を省略してしまって、そのままそのカッコが最初から無かったかのように、道徳的規範を立ち上がらせてしまっている(まるで、子供のころは見えていたお化けも、大人になってしまったら忘れてしまい、子供のころ実際に見ていたという、その記憶自体さえも、あたかも見ていないように改ざんしてしまうような、そんなセンチメンタルな映画のお話のような具合に)。
そしてその前提となった道徳的規範、または道徳観が僕に深く染み込んでいき、より強固な、自明の道徳となっていく。
かくして僕はそれを疑わくなる。
そして日常生活を普通に送ってしまう。
これは、ある部分に鈍感になり、ある部分を疑わなくなり、ある部分に気づきにくくなっているということだ。
この意味で僕は、どんどんイノセントから退行している
だが、退行した方が、この社会は生きやすくなるのだが。

最後になるが、以前にも僕は雨の日の傘事情を記事にしている。

nocafein.hatenablog.com

読んでいただければ分かると思うが、僕はその記事を書いた時と変わらず、傘を持って行かれたら憤り、そして、いまだに置き傘を買っていない。
僕はその頃と比べて、全く成長していない。
そして気付かない間に、イノセントからの退行も、進行し続けているのかもしれない。

今回はこの辺で、てへぺろです。

 

「切れない」人間関係、「切れる」人間関係

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今から8年程前に、NHK衛星第2テレビ、つまりBS2で、「ザ☆ネットスター」という番組がやっていた。
この番組は、インターネット上にあるコンテンツを紹介したり、そのコンテンツを出演者同士で語り合うというバラエティ番組で、MCに立川談笑喜屋武ちあき、その他東浩紀金田朋子柚木涼香(ナレーションで参加)など、癖のある出演者で構成されていた。
さらに、その出演者、東浩紀(批評家)と、柚木涼香(声優)の2人がやっていた、「ザ☆ネットスター」のスピンオフともいえるネット配信限定番組、「柚木涼香東浩紀の、動物化してもいいですか♡(はあと)」という、月1のペースで更新される番組があり、僕はこの番組が結構好きで、一時期ニコニコ生放送(僕はリアルタイムでこの番組を観たことがなく、実は最近この番組を知った)やYouTubeで、心のオアシスかのように観ていた。
この番組は、両者がとりとめのないことを話したり、視聴者からの悩みに答える人生相談コーナーがあったり、時にはお酒を呑みながらの回もあったりと、基本的に超絶ゆるい番組であった。
その猛烈ゆるい番組に、喜屋武ちあきをゲストに招いた回があり、その中の、人生相談のコーナーでの話を、今回は少し掘り下げてみたい。

とある視聴者から、

「会社の上司と呑みに行くより、ネットで知り合った、趣味が同じ仲間と呑んでる方が楽しいんですが、そのような、お互いのことを知らない浅い人間関係だけを作っていくだけでいいのだろうか。もしくは深い人間関係を作るとすればそれにはコツはあるのだろうか。はたまた深い人間関係を作らずに生きていけるコツはあるのだろうか」
というようなお便りが届いた。
それに対し東浩紀は、なぜ上司と呑むより、ネットで知り合った仲間と呑む方が楽しいのか、ということについての分析を始める。
氏曰く、人間関係は、「切れる人間関係」と、「切れない人間関係」の2つに分けることができるという。
「切れる人間関係」というのは、こいつ嫌な奴だな、と思ったら、いつでも遮断でき、もう2度と会わなくて済むことが可能な状況が担保されている関係のことで、相談者さんの例で言えば、インターネット上で知り合ったお仲間のことが該当する。
互いの趣味の話だけで盛り上がることができ、特段、それ以上の話しをしなくてもよい、そして、自分の丁度よい頃合いで引き上げることができる、そのような関係。
他方、「切れない人間関係」は、これまた相談者さんの例で言えば、会社の上司との関係のことで、長らくその会社に腰を据えると仮定した場合、その上司とは暫く共に仕事をしなければならなくなることが余儀なくされる。
なにか粗相をした場合、当分の間、もしかしたらその上司が会社を去るまでずっとそのようなイメージを持たれ、それは出世の段にまで影響を及ぼす可能性があるため、呑みの席でさえ、気を緩めることができないような関係。
東浩紀は、人間関係の本質は、「深い」とか「浅い」とかとは関係がなく、以上で述べた「切れる」か「切れない」か、ということなのではないか、そのことが重要なのではないか、と言う。
そして、相談者さんは、深い人間関係より、浅い人間関係を保っていきたいタイプであろう、という結論に達し、だとすれば相談者さんの現状そのままに、会社の上司と呑みに行かずに、ネットで知り合った仲間と呑みに行けばいいのではないのか、現状維持でGOだ。という結論になっていた。

そんな結論はどうでもいいのだが、正直僕は、東浩紀が言う人間関係の本質、「切れる」とか「切れない」とかのことが最近までよく理解できないでいた。
ただ、この間ふと思ったことがあり、そのことと併せて考えてみると、わりとスムーズに理解することができた。
それは、僕はたまにしんどいことがあると、どうせいつか死ぬんだから、そんなしんどい悩みなんかどうでもいいのではないか。という風に考える、ということだ。
これは決してニヒリズム虚無主義)やペシミズム(悲観主義)に陥っているのではなく、むしろ生への希望、人生の充足を望む考え方である。
このように、「どうせいつか死ぬんだから」と考えることは、悩んでいる対象物(人)と、いつかお別れできる、つまり、いつかその物(人)たちと、「切れる」ことを担保できている、ということである。
このように考えると、とても気持ちが楽になる。
そしてこういう考え方をもとに東浩紀の言った、「切れる人間関係」・「切れない人間関係」を考えるとスムーズに理解することができる。

ただ、東浩紀がいう「(いつでも)切れる」ということをそのまま僕の考え方(または逃避方)に当てはめてしまうと、「(いつでも)死ねる」ということになり、それは自殺を意味してしまう。
僕は自殺を考えたことは一度もない。
無条件に「生」を選んでいる。
だから、「『いつでも』死ねる」、ではなく、「『いつか』死ぬ」、という考え方をする。

僕は死にたくない。

生の充足を望んでいる。

生に希望を持っている。

それは何故なんだろう。

年齢が関係しているのか。

充足を感じたらそれでお終いか。

 

恐らく答えは出ない。

ただ、死にたくない。

ただ、生の充足を感じたい。

ただただ、それだけ。

それだけが、あるだけだ。

話が変な所へ着地したところで、今回はこのへんで。

ありがとうございました。てへぺろです。

nocafein.hatenablog.com

↑お暇な時に読んでいただけると幸いです。

 

特段オザケンに限った話ではないし、藤井隆の「ナンダカンダ」でも構わないが、なにかを好きになる時、人は既になにかを妄信しているという話

小沢健二の新曲リリースや、メディアへの露出などのニュースを聞いて、僕も多少は心が動いたりする。
だからと言って、僕は20年程前の、「渋谷系」という言葉で括られ、甘いルックス、インテリ、人を食ったような態度などの要素も相まって人気を博し、「王子様」のレッテルを貼られていた、いわゆるアイドル、「オザケン」ブームの渦中にはいなかった。

僕はその当時、小学校に上がるか上がらないかの時期に属していて、その頃の記憶はもはや曖昧だが、オザケンがテレビに出演していて、色々もてはやされていたのは何故か脳裏に焼き付いている。
それは、同時期の記憶として、僕の母親がオザケンが好きだったということと、その母がオザケンみたいな男性がまさしくカッコイイ男性の象徴のように僕にそれとなくアピールしていた、その断片的な記憶の焼き付けが関係しているように僕は推測している。
だから僕は母親の洗脳のおかげで、生まれてこの方、オザケンに否定的な感情を抱いたことはない。
その一方で、とりわけオザケンを神格化して盲信するほどのファンであったこともない。
ただ、それに準ずる距離の取り方はしていて、盲信するほどではないにしろ、きっと良い曲なんだろうな。と、肯定的に捉えよう、理解しようと努める思考を必ず持つことが、オザケンと対峙する時の大前提となっているように思う。
僕がもし、母親の洗礼を受けていなかったら、この前のミュージックステーションで登場したオザケンを見ても、「誰だこの学者みたいな人は。あー、今夜はブギーバックの人か」、となるだけで、そのままスルーしてしまっていただろうな、と考えてしまう。

僕の同世代の友人で、オザケンのことを話せる友人はほとんどいない。
以前、友人になにかの拍子にオザケンの話しをしたら、誰それ?と言われ、そうか、そういうこともそりゃあるよな、と思ったのを記憶している。
僕だって母親の言動を耳にしていなかったら、きっと友人と同じ立場になっていたかもしれない。

正直、オザケンのなにが良いかと聞かれても、答えることを躊躇してしまう。

僕は今、藤井隆の「ナンダカンダ」にハマっているのだが、どこが良いと聞かれれば、「とにかく元気が出る」と、誠に抽象的な答えだが、自信を持って即レスできる。
ただ、オザケンに関しては、僕は好きだが、それを他人に説明することがうまくできそうにない。
「歌詞がいいんだよね」、とか一般論的なことを言えば、相手はなにか説得力を勝手に感じて受け止めてくれるかもしれないし、その場をしのぐことはできるかもしれないが、僕自身、相手を説得できるほどの自信を持てないでいる。
勿論、僕は歌詞も良いと思っている。だが、それを相手が良いと感じてもらえるか自信がなく、これはもう趣味の領域だからなー。となにか諦めざるをえない感覚になる。
これは、好きなアーティストの新曲を聴いた時、一聴しただけだと、「ん?」と思ってしまっても、そのアーティストが好きだという前提が形成されているがゆえ、きっとこの新曲も良い曲なんだ、と思い込もうとし、そしてヘビロテしている内、実際良い曲だと思うようになる、という構造と似ていると思う(もしかしたらこの経験は自分だけかもしれないが)。
僕は最初に、母親にオザケンは良いという前提を幼い頃に形作られ、その前提を今のところ信用してオザケンと向き合っている。だから、「ん?」と思っても、きっと良い曲なんだと思って聴くようにしている。だからそのような聴き方をしている内に、オザケンの曲が耳に馴れて、だんだん良さが分かってきている。これはある種洗脳が深まってきていると言ってもいいのかもしれない。

これは音楽の話に限らず、趣味趣向の話全般に言えることだと思うが、なにかを好きになる、あるいは興味を持ったり、それを受け入れる段階の時には、その前段階のなにかを既に信用、あるいは洗脳、もしくは影響を受けていて、その上で、次の段階を受け入れている、ということがあると思う。

分かりやすい話で言えば、友人が、ハマっているアーティストを自分に勧めてきた場合、そのアーティスト云々、その勧めてくれた友人のセンスを既に信用していたならば、そのアーティストを受け入れる態勢が自分に既にできているということがあると思う。
僕の場合で言えば、母親のセンスをなぜか無条件に盲信していたということになるだろう。

ただ、ここまで書いてきて、僕が何故、藤井隆の「ナンダカンダ」の良いところは言えるのに、オザケンの良さは言えずに躊躇してしまうのか、について新たに大きく2つのことに気づいた。
1つ目は、まず、オザケンを好きになったのが、母親経由であるということ。いわゆる家庭環境的要因である。
この家庭環境的要因を、別の家庭環境で育った友人に理解してもらえることは無理なのではないかと無意識に思ってしまっていたのではないか。
そして、藤井隆の方だが、これは僕は自発的に「良い」、と思ったのだが、これは僕らの世代ならみんな良いと思うのではないか、いや、僕らの世代だけではなく、大衆全てに受けいれられるのではないかと無意識に信じ込んでいたということが原因で、つまり言うなれば、世代的要因、大衆的要因により、藤井隆の良さを言うことができたのではないだろうか。
僕は勝手に、理解してもらえる相手を自分と同世代の友人と設定していて、考えてみれば、オザケンは僕のドンピシャの世代ではなく、藤井隆は僕と同世代の人はわりと共有して消費していた人物であった。

そして2つ目。僕はオザケンで言えば、彼はアーティストなので楽曲面の良さを伝えようと、少々難しく勝手に考えていた。
他方藤井隆は芸人で、どこかアーティストという敷居の高さから解放された場所にいて、その芸人藤井隆が歌う(僕が藤井隆を好きという前提があった上で)「ナンダカンダ」だらこそ、シンプルに、「とにかく元気が出る」という答えが出せるようにも思う。
つまり、僕はオザケンの楽曲ばかりに注目していて、オザケン本人のことを考えていなかった。
そう、僕の母親経由で始まったオザケン好きも、僕なりに興味を持って接し続けた結果、今の所は、オザケンという人間自身に1番魅力を感じているのだ。
そして、その上で、オザケンの良さを答えるなら(これなら世代的要因を凌駕できるかもしれない)、「音楽ととても真摯に向き合い、取り組み、なおかつ全力でパフォーマンスし、そして、ひたむきに生きているように見える、つまり、とても真摯的な人間である」ということだ。
僕はオザケンの生き様に魅了されている。
だから僕はオザケンの言葉に、楽曲に、耳を傾けるし、彼を理解しようと努めるのかもしれない。
このことは藤井隆にも勿論言えるのだが。

最後に、僕がオザケンの作品で1番好きなものは、2010年に行われたライブを収録した、「我ら、時」というライブアルバムで、曲と曲の合間に朗読が入るという僕には画期的なアルバムに思うのだが、これが、すごくいい。興味のある方はぜひ聴いていただきたい。

そして、藤井隆の「ナンダカンダ」。元気でるなー。特にMVがいい。ピコ太郎の時みたいにジャスティンにハマったりしないかな。

てへぺろです。

 

「黄昏れる」ということ-儚さと時間について-

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「黄昏れる」

この言葉を聞いた時、僕もそうだが、「もの思いに耽る」、「感傷に浸る」のようなイメージを持ったり、または使用してはいないだろうか。
この言葉の本来の意味は、

1.日が暮れて薄暗くなる 「空が黄昏れる」

2.盛りを過ぎて衰える  「黄昏れて生気のない人」

 (goo国語辞書より)

 であり、語源となると、

日が暮れて薄暗くなると、他人の顔が見えにくくなることから、「誰だあれは」という意味で、「誰そ彼(たそかれ)」となり、江戸時代以降に、「たそがれ」、と言うようになった、

ということらしいです。(ネットで検索すれば結構出てきます)

そして、「黄昏」を動詞化させたのが「黄昏れる」であり、本来の意味と、現在イメージされる「黄昏れる」の使用方法が異なることになり、誤用ということになりそうだが、僕は、「夕暮れ時」、つまり「黄昏れ時」はどこか儚く、センチメンタルな気分にさせられるイメージをほとんどの人が持っていると思うので、現在の「黄昏れる」の、「もの思いに耽る」、「感傷に浸る」というイメージに変化していっても全く健全だし、むしろその方が時代背景を写していて面白いのではないかと思う。(少し話が逸れるが、若者言葉というのは、聞き苦しいものもあるけれど、クリエイティブな面から見ると、とても面白いものもあると思うので、僕はわりと肯定的だ)
だから僕は、以後、「黄昏れる」という言葉を「もの思いに耽る」や「感傷に浸る」といったニュアンスで使用する。

語句の意味はこれくらいにして、僕はしばしば、黄昏れる。時間があれば、わざわざ黄昏れに出かけに行くことだってある。
黄昏れるのに場所は関係ない。だから自宅だって黄昏れることは容易だ。だが、僕の場合、中よりは外、静よりは動の方が、黄昏れることをより捗らせてくれる。
例えば、自動販売機で缶コーヒーを買い、ポケットに片手を入れ、クビっと一口体内に流し込む。そして、少し翳りがある感じで顔を俯かせ、そして緩やかに歩く。
おまけに夕焼けなんかが広がっていたらパーフェクト。
これだとタダのイタいカッコつけ野郎な気がしないでもないが、ご安心を。ちゃんと頭は思索に耽っている。
僕は結構歩きながらの思索が好きだし、何故好きなのかといえば、思索が捗るからだ。
まあつまり、ただのカッコつけではなく、ちゃんと「黄昏れる」行為をやっている。
待てよ、これだと、タダの「もの思いに耽る」と変わらないのではないか。
いや、「黄昏れる」行為は、「もの思いに耽る」行為にはない、感傷的な気持ち、センチメンタルな気分を含む。そしてそこには独特な心地良さがある。
いわゆるセンチメンタル的心地良さが、「黄昏れる」行為にはある。
つまり、「黄昏れる」行為には自己陶酔の気がある。
最初の内は、夕焼けを見て、直観的に人生の儚さを思い、黄昏れる行為に入るのだが、次第になんだか儚く思っている自分自身が誇らしくなり、そこに漂う甘美なムードに肩まで浸かり始めたが最後、自己陶酔に突入である。
自分が黄昏れ好きだから分かるが、黄昏れている人は日常でしばしば見かける。
タバコ屋の脇に設置してある喫煙所で、夜へと移り変わる儀式のサンセットを、目を細めて感慨深げに眺めて、そしてゆっくりタバコを味わう。そんな行為をしている人は、ずばり黄昏れているだろう。
また、電車の中でも黄昏れ人は生息する。
ドアによりかかり、外を目を細めながら(どうやら目を細めることが象徴的行為らしい。視力は決して良い方ではないだろう)、物憂げに世界を眺めている。そんな奴がいたら、あーやっちゃってる、黄昏れちゃってると思ってよいだろう。
まあ、僕もそのように思われている可能性があるが、そんなのはどうだっていい。
そう、どうだっていい。今回僕が書きたいことは、実はここから始まる。

 黄昏れる時、なぜか「儚い」、という観念に憑りつかれる時がある。
「儚い」は時間の観念を喚起する。そして、「長い」と「短い」でいったら、「短い」となるだろう。
そしてもう一つ、「儚い」は「終わり」をイメージさせる。
僕達は日常で、幾つもの「終わり」を経験している。一日の終わり。何かの作業の終わり。夢の終わり。
そして終わった後、それを「過去」として振り返る。それを実際に行っている間は、確かな時間の感覚と共に体験できていたのに、その「過去」としてのそれは、一瞬で振り返られてしまう。
夢なんかいい例だ。夢の中ではすごい長い時間が経過していたように感じられたのに、目が覚めて、その夢を思い出そうとすると、ほんの一瞬の出来事になってしまうし、時間の経過とともに泡のように消えてしまう。
儚い。
そして僕達はその儚さを、人生に結び付けてしまうところがあるように思う。
人生は儚い。人生は短い。人生は一瞬。
僕達はよく、過去を振り返る。この「振り返る」ことをすることによって、全ては「過去」になる。そして過去の中では時間は一瞬に過ぎる。というか、過去の中では時間が流れているというよりは、映画のDVDなんかにある、チャプターリストのように、あるいはアニメーションのコマ割りのように、出来事が場面ごとに幾つも分かれているように感じられる。そしてそれを振り返る時には自分で編集してしまっていて、思い出したいところだけを再生するから、実際体験していた時間の感覚と比較すると、一瞬のように感じられるのかもしれない。
余談だが、よく、歳を重ねる毎に一年が早く感じられるということがあると思う。
これは、どうてしてもその性質上、その一年を、「振り返る」ことをして「過去」にしてしまわなければならない。
その一年は、「今まで生きてきた『過去』の中の一年」とされてしまう。つまり、分数でいうところの、その一年は分子であり、生きてきた年数が分母となる。

1歳=1/1 2歳=1/2 3歳=1/3 10歳=1/10 20歳=1/20 30歳=1/30・・・

当然、20歳=1/20と、30歳=1/30では、30歳=1/30の方が、分子の数が小さくなり、その一年の長さは短く感じられる、という理屈だ。
実はこれは、とあるラジオで、ふかわりょうが言っていた理論であり、当時聞いていた僕はなるほどなと納得させられてしまった。(あくまで理屈の域を出ないのだが)

閑話休題

 未来の出来事は、まだ見ることができない漠としたものなので、なんだか長いように感じられるが、過去の出来事は一瞬だ。
僕はこの感覚をよく、嫌な予定の前などに当てはめて、なんとか乗り切るようにしている。
どんなに嫌なことだって、その時はやってきてしまい、そして必ず一瞬の過去になる。
これは絶対だ。絶対「その時」は過去になる。
この絶対性は、僕を安心させてくれる。
そしてその過去は一瞬のものとなる。
そのことも僕を安心させてくれる。
と、同時に儚くもさせる。
ほらきた、人生の終わりと結び付けてしまった。
どうも人生の終わりが気になるようだ。
ただ、僕は今が絶対過去になり、未来が絶対過去になることを知っていて、それに安心感さえ抱いているのに、絶対にいつか来るであろう未来の「死」を、「儚さ」という淡い、自己陶酔の要因になる、または「黄昏れる」原料になるものに置き換えて、その事実を直視しないでいる。
力いっぱい、目を細めて、見えない振りをしているのかもしれない。

とりとめのない記事ですみませんでした。


てへぺろです。

 

人は生存しているだけで必ずある「立場」を取ってしまう、という話

人は生存しているだけで、必然的にある立場を取っている。

・例えば、赤ん坊であれば、一人ではなにもできないので、他者からの援助を必要とし、そして、いつでも泣くことを許されている。そのような赤ん坊の立場。

・裕福な家庭の中で育ち、要求すればなにもかもを自分のものにできてしまったり、なにをやっても叱られない、そんな小学生の子供の立場。

・貧乏な家庭の中で育ち、極力自分のことは自分で責任を持ち、また家庭を支えるために必死でバイトし、なおかつ、学業にも力を入れている、そんな苦労人の高校生の立場。

また、細かいことでいえば、
・食事中、平気でくちゃくちゃ音を立てながら食事できてしまう立場。
・全く時間に執着せず、いつでも自分のペースを守り、待ち合わせ時間に遅れても一言も謝罪の言葉を述べない立場。

とまあ、ありとあらゆるもの・行為の末尾に「~という立場」と付けさえすればそれは全て「立場化」されるといっても過言でなない。
そこで僕が示したいことは、人は大前提、なにかしらの「立場」という領域の中から、またはその「立場」という土台の上に立ち、その上で、物事を判断したり、行動したりしている、ということだ。
そして、立場というのはある種、アイデンティティや、プライド誇示の根拠となりうる場所でもある。
そのような場所を、生存し続けていくと、時として守らなければならない局面もやってくる。
例えば、「職業」を立場として捉えた場合。
このままAI技術が進み、雑務雑用を主として働いていた人々に変わって、AIロボットがその役割を担ってしまう日が訪れた場合、その働いている人々はAIロボット、またはその新時代の波に対して、否定的な感情を抱いたり、またそのような意見を述べたり、同意見の人に賛同したりする人も少なからずいるのだろうと思う。
また「趣味」を立場として捉えた場合。
「紙の本」好きな人が、電子書籍に対して様々な意見を述べることがある。「紙を繰る感じがいい」とか、「あと何ページ残っているのか視覚的にすぐ分かる」、だとか、「リアル特有の『物』としての価値がある」、などなど。
まあ、この意見というのは電子書籍が登場して、初めて意識された紙の本の要素であり、それが電子書籍によって「価値化」されたといってもよいと思う。つまり他のものと比較したことで生まれた価値、ということで、そういった意味では電子書籍の登場は「紙の本」側にしてみればそれなりに意味のあるものだとも思う。
話が少し逸れたが、この「紙の本」好きな人が、電子書籍側に対して色々利便性を説いたり、価値の意見を述べるのは、そもそも「紙の本が好き」という立場にいて、このまま電子書籍が世界を占領してしまうと、「紙の本」の立場、つまり「自分の趣味的な生存の立場」が危ぶまれるから、そのような意見を述べるに至っているということもあると思う。

これは、清水富美加騒動に関するワイドショーなどを観ていても、上記のような現象として捉えることができるのではないかと思う。
あるワイドショー番組で、とある女子高生に、「(清水富美加が、まだ仕事が残っているのに突然辞めてしまうという流れがあった上で)この一連の騒動についてどう思うか」という質問をしたところ、「逃げてもいいのではないか。清水さんもいっぱいいっぱいだったと思う。絶対責任は感じていると思うが、その中で、『助けて』、と言えたことは勇気ある行動だと思う」という発言をしていた。
これは、まず、その女子高生も清水富美加と同じで年齢が若いという立場がある。そして恐らくその彼女自身も同じような状況であったなら「逃げる」可能性があるということで、そして元々彼女はそのような考えの立場に身を置いていたということであると思う。だから自分と同じような立場と認識して、清水富美加を擁護するような発言をしたのではないかと思う。
もしくは、単純に清水富美加のことが好きだったという可能性もある。好きだから、無条件に清水富美加を肯定する、または妄信する、そのようなロジックもこの世界では普く存在すると思う。
また別の出演者に話が向けられたところ、その出演者は清水富美加に元々好感を抱いており、「まだTwitterや、告白本でしか情報が確認できない」、「本人の口からなにも聞けてない」といった発言をしており、その出演者がイメージする清水富美加像を捨てきれないでいるように見える。これは、その出演者が、元々「清水富美加に好感を抱いている立場」からの発言である。このような例は、極端な話、そのイメージを壊したくないと現実逃避し、自分の都合のいいように解釈してしまう恐れもある(極端な話です)。
だが、そのまま妄信しない例もある。
その番組の、他の女性出演者に意見を聞いたところ、告白本を出すまでは清水富美加を擁護するような考えだったのが、告白本を出したのを境に、彼女に疑念が浮上したということだった。これはつまり、それまでは清水富美加を擁護する立場にいたのだが、告白本を出した瞬間、彼女の中の「別の立場」、または「上位の立場」が顔を出した(またはそれまでの立場を上回った)のではないか。つまり、告白本に対する彼女の別の立場、または信念(彼女の基軸となる根本の立場)と反発するなにかが、その告白本出版という事実になにかあったのではないか、と考えることもできる。

僕がごちゃごちゃ書いてきたわけだが、つまりなにを言いたいかといえば、人はなにか意見を言ったり、判断をしたりする際、そのことをよく考えて自分では行っているつもりでも、無意識に自分に都合のいい意見しか述べていなかったり、自分に都合のいい意見にしか同意していない、そして、自分に都合のいい解釈をして自分を安心させていることがあるのではないか、ということだ。
では、本当の正しい意見を言ったり、判断したりするためには、立場を全て無くすしかないのだろうか。
僕が思うに、全ての立場を無くすのは不可能なように思われる。
冒頭にも書いたが、語尾に「~の立場」と付ければなんだって「立場化」させてしまうことが可能なので、生存しているだけでも、「生存している立場」というように、また全ての立場を無くしたとしても(そんなことは不可能なように思うが)、「立場を無くした立場」というふうに、必ずある立場を取ってしまう。
だから、立ち場を無くすだけではなく、新たに立場を増やすこともしていけばよいのではないだろうか。
立場を増やしていけば、色々な価値観を手に入れることができ、その分色々な選択肢が増え、より柔軟な思考プロセスを経ることができると思う。
この先、どんどん時代は変わる。その度に今いる立場を守ろうとして新しい時代と闘うのではなく、その新しい立場も手に入れて、どんどん前進していけばよいのではないだろうか。

とりあえずまず、「自分がある土台の上に立っていること、ある立場を既に取っていることを自覚する」という立場を手に入れることをお勧めしたい。

てへぺろです。

 

「清水富美加」関連のこと-真実には辿り着けない-

清水富美加さんのことで、メディアは連日騒ぎ、扇情的な放送をしている。だから僕もそれにあやかって、記事を書かせてもらう。

恐らくこのような記事を書く時は、結論を書かず、その内容の趣旨から少し外れた事柄について書くことが得策のように思われる。
というより、今回のような問題は、結論が出るようなものでもないし(少なくとも現時点では)、ワイドショーなどを観ていると、結局なにが問題なのだろうか?と、一体自分はなにを観させられている(あるいは観ている)のだろうと、ある種、茫然としてしまう。
色々な事象が表面化されている。発信者側はそれを言葉で捉えて表現する。そして受け手側もあるイメージを持ってその言葉を受容する。
例えば「電撃引退」、「宗教」、「体調不良」、「幸福の科学」、「清水富美加」など。
人間は、コンテクスト(文脈)上の言葉を、あるイメージを持って受け取る。この場合の「引退」や「宗教」、「体調不良」は、ある種の憶測を呼ぶようなニュアンスを伴って受け取る人が多いだろうし、このような言葉に1度肩を並べてしまった「清水富美加」は、今回のコンテクスト以外で、もはや単体それだけでも、当面の間、そのようなニュアンスを伴うことは不可避だと思われる。
つまり、僕達は言葉を使用して、あらゆる事柄を捉えている。
そして、メディア、とりわけワイドショーなどで(センセーショナルに)取り上げられると、そのような独特なコンテクストが作り上げられ、全ての言葉たちはその土台の上で語られなければならない。
そして、その言葉達を囲うように芸能人達が様々な意見を述べ、闘わせたりする。
これらを観ていると、あたかも結論のようなものがあって、それに辿り着こうとしているように見え、アカの他人なのに、なんだか深刻な問題を抱え込まされたかのような神妙な空気を作りあげているように見える。
そして、観ている僕達もなんだか深刻な問題なんだな、という気分にさせられる。

だが、そんなものは錯覚である。

何故なら、この問題にそもそも結論などないし、というより、これは少なくとも僕達の問題ではないからだ。
演繹的に結論を導き出そうにも、まず前提の「Aが真であるならば〜」の前提が強引にでも立てることが不可能なほどに、僕達の手に真実がない。全くもって不透明である。真実は当人同士にしか分からない。だから当人同士が揃って初めて「問題」になるのであり、そして「結論」に辿り着くことができる。
したがって、アカの他人によるワイドショーなのでこのような問題を取り扱うこと自体、僕はおかしいと思っている。
実際観ていて、坂上忍あたりがなにか意見を言って、それに対して小島慶子あたりが一応なにか言ったあと、「でも具体的には全然わからないから判断できない」のようなことを言っていて、これは一体何なのだろう?と思ったりした。

思ったりしたが、その中でも、小島慶子や、高橋真麻の発言には好感が持てるものもあった。
特に高橋真麻の、「事務所側の言い分と、教団側の言い分、つまり両者の言い分が仮に全く同じでも、(本当は)違うかもしれない。だから結局真実はない・・・」

僕も真実はない、厳密に言えば、辿り着くことはできないと思っている。

つまり、当人同士以外の第3者・外野の人間には、いわば懐疑論者的に、どこまでもそれを(とりわけ言葉なら尚のこと)疑うことができてしまう。それに、当人の場合だって(遠い昔の記憶を歪曲してしまうことがあるように)、それを真実と思い込んでいるに過ぎない可能性を否定することができない。まあ、それは究極的な可能性なので話が飛び過ぎているかもしれないが、少なくともスタジオで議論しているだけでは真実には辿り着けないと思う。
だからもし、少しでも近づきたいのであれば、本人に直接会って、言葉ではなく、表情や、目に見える動作など、理屈ではない、皮膚感覚的に受け取ることができるその「なにか」を求めに会いに行くしかないように思われる。当然、それもとても曖昧模糊として頼りないものに変わりはないのだが、言葉よりは、信用できるように思う。
結局、僕らは、あるどこかの時点で踏ん切りをつけ、「信じる」ことをしなければならない。それは、ほとんどの人が、目の前のコップが本当にそこにあるのかどうかを気にすることなく盲信しているのと同じような意味で。

話を戻すが、あと一つ、バイキング内で気になった発言があるのだが、ヒロミが「(事務所側と教団側、そして清水富美加側に対して)絶対もっとやりようがあった。もっといいベストな落とし所があったと思うんだよな」というようなことを言っていた。
これは、別にヒロミの意見を否定するつもりはないし、正直僕も良いとは思っていない。だが敢えて思考を広げるために言うが、「ベストな落とし所」というのは、つまり妥協点ということだが、これはヒロミが思う「ベストな落とし所」ということになる。もしかしたら、現状起こってしまっている事象が、当人同士にとっては「ベストな落とし所」であるのかもしれない。
ここで思ったのが、何故か僕達は、両者が円満に、またはお互いが譲歩して、少しでも円満に近づくことを、「良い落とし所」と考えている節があるのではないかと思う。
その円満さを構成する要素は、礼儀だったり、社会的常識だったり、あるいは不文律だったり、芸能界のルールだったりするだろう。
小島慶子が、「もし仮に(清水富美加の)言っていることが本当だとしたら、芸能界での働き方や、まかり通っている独特なルールを考え直さなければならない」、と言っており、これは、今回の清水富美加騒動とは関係のない、社会一般の話に敷衍させて考えてみると、誠に興味深い意見であると思った。
というのは、通念や観念は不変ではなく、その都度変わる。だから芸能界のルールも、坂上忍やヒロミが言っていたことも、あと数年後にはガラッと変わっているかもしれない。
また、同じような意味で、礼儀や社会常識も変わる。
僕達は大人になるに連れて、礼儀や常識を身につけてしまう。だがそれは、実は社会にそのように洗脳されてしまっているのかもしれない。それが良いことである、と洗脳されているに過ぎないのかもしれない。もしかしたらそれはいつの日か、そのかけられた洗脳が解けるのかもしれない。
だから大人になるということは、深く深く洗脳されていくこと、という風に言えることもできるかもしれない(かもしれないを頻発し過ぎているかもしれない)。

ただ、ここまで書いてきて思ったことがある。それぞれにはそれぞれの立場というものがある。
例えばテレビで言えば視聴率を稼ぐこと。そしてそのテレビ番組に出ている出演者は、その番組に出ている以上なにかを発信しなければならない。そうすることでお金を稼いでいる訳だから。
人は生き続けている(存在している)限り、物理的にどこかの場所を必ず占有しなければならない(確か、ある小説家がそのようなことを言っていたと思う)。これは無形的に考えると、人は生存するため、またはアイデンティティを確立するためには、必ずある立場を取らなければならないとも考えることができる。

テレビは視聴率を取らなければならない立場、出演者は、番組を盛り上げ、それによりお金を稼ぐ立場、そして、僕にしたって、別に書かなくてもよい筈なのに、この記事を書く立場を占有してしまっているし、おまけにワイドショーを不毛な議論というふうに批判しているクセに、それを利用し記事を書いてしまっている。
そして、この記事を書くことにより、誰かをどこかに追いやっている可能性もある。
そのように考えると、この世界は、椅子取りゲームのようなものなのかもしれない。

そして、どうも僕達は、対岸の火事を見ることが、つまり第3者的な野次馬の立場を占有することが好きなようだ。
という、清水富美加騒動から少し外れた事柄の感想を述べ、僕の落とし所とさせていただく。

てへぺろです。

 

っていうか暴露本出たんかい。