牛乳をこぼしたら、すぐに謝ったほうがいい。


自ら招いた過失に対して、直ちに原因が自分であると反省できる人は少ないと思う。
自分のことが大好きなのか、というより、「自分である」という必要最低限のプライドに反応しているからなのか、大抵の人間の場合、まず第一にやってしまうことは、自分を擁護・肯定してしまうことだ。
例えば、僕の友達の上司の話がある。
その上司は、還暦を過ぎた、どちらかと言えば楽天的な、人当たりの良い、つまり人柄だけで世の中を渡っていけそうなタイプのオジサンである。
このオジサン、大変なドジッ子だそうである。
とある日、その友達の不在中に、仕事机の引き出しに牛乳をぶちまけてしまったとのこと。不運にも、引き出しは出された状態であったため、中に入っていた書類等、牛乳まみれになってしまった。オジサンはすぐに対処に当たったらしいが、その後、通勤してきた友達に向かって、
「牛乳こぼしちまった。すぐ拭いたんだけど、書類とか自分で確認して駄目だと思ったら処分してくれ」
と、やや表情を硬くし、上から目線で、さも自分は間違ったことはしていないと言った風に、その友達に対処を命じたらしい。
また、言い訳として、
「いや~バッドタイミングって本当にあるもんだな~。ほんの少し早くても、遅くても成立しない丁度この瞬間っていう、バッドタイミングって。いや~牛乳瓶持って机の前の椅子に座ろうとしたまさにその時に、お客さんが訪ねてきてさ~。慌てて迎えようとした時に、バシャーよ。いや~ホントに間が悪いっていうかな~。来るかね~牛乳飲もうとしてる時に。客が。」
まるで前代未聞空前絶後の出来事のように言い訳の最後を締めくくったらしいが、自分の過失を絶対予測・回避不可能な「時運」のせいにしようとしているばかりか、短所が「タイミングに不得手」という物語の登場人物を作成しそうな勢いの、お客さんのせいにしようとまでしていた。
その後結局、友達が、牛乳がこぼれた(こぼされた)引き出しの物を全て処分し、謝罪の言葉はついぞ聞けず、その日1日、強烈な牛乳の残り香の中、仕事に取り組んだらしい。

自分を棚上げして、他人を例に語るのは卑怯だと思うので、僕自身の例も書いてみる。
駅の階段を降りていると、すぐ前(斜め下)に上品なご婦人が、質が良さそうな革を使用した鞄を提げていた。僕は上品なご婦人だなー。と、横顔が少し窺えたので、本心から思っていたし、おそらく、実際に、品の良い、穏やかな人柄の人なんだと思っていた。あまり関係ないが、僕はそういう人を見ると、ほんとに嬉しい気持ちになる。
ただ、油断していたのか、僕の下段から下段へと降りていく足のつま先が、その人の鞄に軽く当たってしまった。その瞬間、僕は、「あ、すいません」と軽い気持ちで謝ったのだが、そのご婦人は、先刻の上品の顔はどこへやら、にわかに苦虫を噛み潰したような表情になり、わざとらしく鞄を注意深く眺めて、そして当たったと予測した部分をさすったり、埃を払うような動作をして、もう一度言った、「すいません」の言葉をスル―し、足早に去って行ってしまった。
僕はその直後、明記できない程の言葉を頭の中で羅列していて、それからご婦人に非がある理由を列挙していた。
・そんなに大事な鞄なら前の方で持てよ
・降りる速度遅いんだよ
・大して当たってもないだろ
という、その行動自体への非難から、徐々に次のフェイズへの非難、容姿や人柄、物への非難に移行していき、
・上品ぶってるだけで、中身は下品な女なんだ
・なんだあの当たってしまった時の表情、なんて醜い表情なんだ
・そもそもあの鞄も安物なんだろーが
という風に、劣悪な、最低な人間に相手を作り変えてしまっていた。
また、終いには、なんでお互いの階段を降りるタイミングが合わなかったのかなー。と、牛乳オジサンと一緒の言い訳に辿り着いていた。
また、今書いている現時点でさえ、経緯の説明の件(くだり)、自分を擁護しようとしている片鱗が言葉の表現(傍線部)に現れてしまっている。

こういう人間の条件反射的な思考回路が、犯罪行為(とりわけ殺人)に繋がっていると思う。だから、いつでも自分にだって非があると、相手がそのようになった原因の一旦は自分が作っていると、「相手」というのは、「自分」がいるからこそ、初めて「相手」が存在するのだと、そのことを本当の意味で理解、常に念頭に置いていなければいけないと思う。
ただ、大人になるにつれて、自分の殻が強固され、そのことに気づきにくくなっているように感じられる。もはや自力では、自分の非に、「気づく」ことができなくなってしまうんではないかと、そんな怖さを、感じる今日この頃である。

だから、こういう思いを、言葉として残して置くことは大事なことだと思う。
いい具合にしまったと思うので、今日はこのへんで。