ハイハイで散歩中

面白いと思ったものをただただ紹介したり、またはただの雑記に成り果てそうです。

ハイハイで散歩中

自分が自分であること-自分自身の同一性を考える-

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前回の記事に引き続き、涼宮ハルヒの「エンドレスエイト」を発端として、記憶がリセットされる前と、された後の人物は、はたして同一人物なのかどうか、ということを考えていきたい。

前回も書いたが、考える方法として2パターンの方法を用いる。

・他人が対象者を同一人物かどうか判断する場合

・自分が対象者で、それを自分で判断する場合

前回の記事では、前者の方法で考えたので、今回は後者の「自分が対象者で、それを自分で判断する場合」を考えていこうと思う。

思考①

まず、分かりやすい例として、10分前に自分がコンビニで弁当を買ったとする。そして今、その買った弁当を食べている。

そして食べている最中に友人から電話が入る。

友人「さっきコンビニで弁当買ってなかった?10分前くらいに。実はオレもあのコンビニにいたんだよね」

自分「じゃあ話しかけて来いよ。いたよ。牛丼買って今食ってるとこ」

これは今の自分と、10分前の自分は同一人物だと認めている。

この時、10分前の記憶に頼って、同一人物かどうか判断していると思う。

では次に、こんな電話がかかってきたらどうだろうか。

友人「さっきコンビニでコーヒー牛乳買ってただろう。あと、お前なんだよあの恰好。上はモフモフの毛皮のコート着てるのに、下はショートパンツって。しかもお前ショートパンツの裾から、中の下着のトランクスの裾がはみ出ちゃってたぞ。いくらショートパンツだからって、そりゃあお前、さすがの生野陽子もびっくりだわ」

しかし、自分はコーヒー牛乳など買っていない。そして生野陽子もびっくりのショートパンも穿いていない。もっといえば、生野陽子(ショーパン)もびっくり、などという安易なネタを末尾に添える友人など、僕は知らない。

そんな電話がかかってきら、僕はこう切り返すだろう。

「人違いです。今ご飯中なので切ります」

これも自分の記憶に頼って判断したと言っていいだろう。

思考②

では、次に、「人違いです。今ご飯中なので切ります」、と言ったら、友人が、

「いや携帯でムービー撮ってたから見せてやるよ。今からお前ん家行くわ」

と言ってその数分後、その友人が僕の家に来て、携帯で撮ったムービーを見せてくれ、その画面に映っているのは、まさしく僕の顔をした人物が、ショーパンもびっくりな恰好をして、コーヒー牛乳を買っている。

この場合、僕はどう判断するだろうか。

2つあると思う。

・僕の記憶が間違っているはずがないので、この友人がムービーをなんらかの方法で合成したのでないだろうか、と思う。→記憶性を信用している

・確かにこの映像に移っているのは僕だ。おかしいな。僕はなんらかの記憶障害を起こしてしまったようだ、と思う。→身体性を信用している

つまり、身体性か、記憶性か、このどちらか一方を信じることになるだろう。

思考③(取り敢えずの結論)

しかし、身体性を信じること、記憶性を信じること、このどちらか一方が正しいということもない

どちらも懐疑の目を持つことができてしまう。

上の例で言えば、

・記憶性を信用したとする→その記憶は、もしかしたら誰かの手によって改ざんされたものかもしれない。

・身体性を信用したとする→その映像に映った自分は、なんらかの合成した映像なのではないか。

という風に。

だから、「今の自分」を基軸とした、それに対する過去の自分、もしくは未来の自分というものには、同一性の確固たる根拠は見出せない

取り敢えずそれが僕の結論です。

思考④(終わり)

だがこのままだと、全てのことは疑わしくなってしまう。

ありとあらゆるものは全て幻想なのだろうか。

いや、今、この瞬間の、「今のこの僕」においてだけは疑いようもなく僕である。

この思考している、「この僕」だけは。

たとえ、この思考自体、誰かに操作させられていようと、この「思考している僕」自体幻想であろうと、この幻想の僕は確実に「ある」。

それは、他の誰にも分かり得ないことだが、この僕にだけは、はっきりと分かる

「ある」ことに実感がある

他人と、自分の違いは、この根拠のない、だが一番の根拠になる、この「実感」だ。

ここでいう「実感」は、感覚という意味では狭すぎる。

疑いようもなく、端的に「僕」である、そのような「実感」

だから、例え、記憶がリセットされて、再度同じ夏休みを繰り返す羽目になっても、その記憶をリセットされる前の自分と、された後の自分が同一人物かどうかにおいて、同一性が結局のところ見出せなくても、その「瞬間の僕」においては、疑いようもなく僕なのであって、もはや記憶がリセットされようが、されまいがどうでもいいことなのだ

えーーー!、という感じだと思う。

いや、「どうでもいい」って、お前が言い出したことですやん。そのための記事ですやん。って感じだと思う。

すみません。

でも、考えていくと、結局こういう、デカルト的思考になってしまいました。

だが、敢えて結論付けるなら、「この瞬間の、この思考している自分は、自分と、同一人物である。つまり、自分自身の同一性は疑いようがない

と、おかしな日本語になってしまっていますが、そのように言えることができると思います。

すみません。今回はこの辺で。

てへぺろです。(最近出し惜しみしてました。誰も期待してないか)